奈良・山焼き旅行記の続きです。これまでの記事はこちら。
1.奈良・山焼き(2025・冬)粟 ならまち店
2.奈良・山焼き(2025・冬)若草山焼き
3.奈良・山焼き(2025・冬)囲炉裏と地酒 大和乃山賊
山焼きを見た翌日は、朝から志賀直哉旧居を訪れました。春日大社にほど近い、高畑 (たかばたけ) という町の閑静な住宅街にあります。ホテルからのんびり歩いて30分ほどで、よいお散歩になりました。
志賀直哉といえば、私は「城崎にて」の入った短編集しか読んだことがなく、それほど馴染みがないのですが、旅先で何度も不思議と縁がありました。
志賀直哉が長逗留した城崎温泉、かつて宿泊した蒲郡クラシックホテル、伊豆の起雲閣、そしてかつて住んでいた尾道の旧居など、旅の途中で何度も彼の足跡に触れる機会がありました。
今回改めて調べてみると、彼は生涯に23回も転居しているのだとか。旅好きで、家族が多く、交際範囲も広かった彼の人生は、きっとにぎやかで華やかだったのだろうと想像しました。
志賀直哉が家族とともにこの家で暮らしたのは、昭和4年から13年のわずか9年間ですが、建物は数寄屋風を基調に、洋風の食堂やサンルームを備えた和洋折衷の造り。彼自身の構想をもとに、京都から数寄屋大工を呼び寄せて建てたそうです。
住宅の一部は二階建てになっており、一階と二階それぞれに書斎がありました。写真は、志賀直哉が『暗夜行路』を執筆した二階の書斎です。
こちらは、小林多喜二が宿泊した客間。贅沢な暮らしぶりの志賀直哉と、プロレタリア文学を代表する小林多喜二に交友があったことは意外でしたが、多喜二は直哉の文学に惹かれるものがあったのでしょう。
直哉は「高畑サロン」と呼ばれる集まりを主宰し、この家で多くの文化人たちと交流していました。
客間からは七草山が望めました。前夜に山焼きをしたばかりの七草山ですが、思ったより焼き残っています。このような年はめずらしいそうです。
一階の書斎は洋風で、北向き。主に夏の間に使っていたそうです。
この茶室は、家を建てた数寄屋大工の希望で造られたもの。直哉自身はあまり茶の湯には興味がなかったため、最初は友人を招いて将棋を指す場として使われていましたが、後に家族のお茶のお稽古に使われるようになったそうです。
浴室には、当時としては珍しい冷水シャワーが付いていました。
中庭に面した廊下。
食堂。洋風の造りで、家の中でもっとも広い部屋です。端にはソファが設えられています。
料理は、台所との間にあるカウンターを通じて運ばれました。台所には、氷を入れて冷やす仕組みの冷蔵庫も備えられています。食堂は、窓側へと続くサンルームとともに、家族の憩いの場となっていました。
日本式の中庭のほか、南側には子どもたちが遊べる広い庭もありました。
庭の隅にはプールも!(浴槽より小さいですが)
さらに、バックヤードから玄関へと回る途中にも池のある庭がありました。贅を尽くし、工夫が凝らされた、すてきな住まいでした。
志賀直哉旧居からは、「ささやきの小径」と呼ばれる森の小道を通って春日大社へとつながっています。森の中を歩いていると、ときおり鹿がひょっこり顔をのぞかせました。