@「幕末4大人斬り」とは 桐野利秋 · 田中新兵衛 · 河上彦斎 · 岡田以蔵。幕末は様々な志士が目的達成の為多くの人々を暗殺、殺戮した。西郷隆盛が結成し、軍用金を目的で江戸を混乱させた「赤報隊」など、極め付きが新政府軍側の執拗な会津藩・庄内藩攻めにおいて、下級武士の暴虐、殺戮、強奪、強姦など傲慢な姿勢行動をその後の日中戦争まで引き継いだとある。「勝者の権利」として様々な冒瀆が許された事実は、時代・世代を超えても人に引き継がれたことを証明している。嘘で語った勝者の歴史も時代と共にその残虐さを知らされることになる。「戦争」とは殺合い、分捕りであり、恨み・辛みが積み重なるのは当たり前のような気もする。が、戦後73年目、日本は「戦争放棄」(防衛のみ)しており、最後に徴兵制度の経験者が超高齢となり、「戦争を経験したことにない世代」に移ったことは、逆に「戦争の怖さ・恐れ」等がないから、自国の防衛だけでは避けれない事態もあるだけにこれからの他国政権含め不安を感じる。
『薩長史観の正体』武田鏡村
- 明治維新150年、嘘で固められた薩長史観
- 明治政府がその成立を正当化するために作り上げた歴史
- 薩長が行った策謀・謀反・反逆・暴虐・殺戮・略奪・強姦
- 尊皇「天皇主義」は倒幕から討幕に攘夷から開港へ方向転換
- 天皇を手の上の「玉」とし軍国主義体制へ確立させた
- 『幕末動乱』薩長史観と真相
- 「幕府の外国に対しての無策・無力として倒幕運動を起こす」
- 薩摩長州に比べはるかに開国による近代化を進めていた
- 川路聖謨・岩瀬忠震・大久保忠寛・永井尚之・江川英龍
- 小栗忠順・勝海舟らが外国奉行として活躍してしていた
- 「吉田松陰は至誠を貫いた教育者である」
- 暴力革命を礼賛するテロの扇動家であった
- 水戸藩士会沢安・尊皇と攘夷論=水戸学となる
- 松蔭は井伊大老等の幕閣に激しい怒りを抱いていた
- 「吉田松陰は明治維新を成し遂げた実践的な指導者であった」
- 数々の暗殺や暴発などテロ行為を正当化とする教えだった
- 「西郷は敬天愛人を掲げ無私の心で成し遂げた功労者である」
- 僧侶を殺し、江戸を混乱させ、同調者を見殺しにした策謀家
- 月照と無理心中しようと海に飛び込んだ(殺戮思考があった)
- 「尊皇攘夷派孝明天皇の真意で実行した薩長は忠臣である」
- 薩長は天皇を「玉」と見立て利用、政権を奪う醜悪を繰り返す
- 長州藩長井雅楽は開国し交易を行い日本を富む夢を持っていた
- 薩摩は薩英戦争後攘夷論を降ろした
- 「京都での「天誅」は不正義な守旧派の態度を諌めるためだった」
- 薩長の意向に沿った無謀な殺戮で幕府の弱体化を図った
- 三条実美は孝明天皇から「不埒な国賊の三条」となじられた
- 「下関・薩英戦争は攘夷の無謀さを天下に示す討幕開国の布石だった」
- 空虚な攘夷に駆り立てられ無謀な戦争で日本を危機に晒した
- 「池田屋事件は会津による長州つぶしで新撰組は凶暴な殺戮集団だ」
- 長州は池田屋で京都を火の海に、天皇を拉致する暴挙計画した
- 「禁門の変で薩長は戦ったがいずれも尊皇のためであった」
- 長州が天皇に刃を向けた変で尊王主義を踏みにじる行為だった
- 薩長の志士の共通点は女好き=高杉・桂・西郷・大久保然り
- 「西郷は無能な幕府と日本の行く末を考え倒幕に踏み切った」
- 勝海舟からの連合政権構想を聞き、初めて目覚めた
- 勝から西郷へ「今の日本は国内で争う時ではない。幕府にはもはやまとめる力はないから雄藩による合議制の連合政権をつくろう」
- 「幕府の長州征伐では幕府側を撃退させ威光を天下に示した」
- 将軍家茂の死と慶喜の変節で幕府は撤退、敗戦ではなかった
- 高杉は「もう攘夷は時代遅れだ。開国して西洋文明を受け入れ、国力を強くしてから攘夷をすべきだ」
- 『慶応維新』
- 「孝明天皇の崩御で明治天皇が即位、日本は夜明けに向かった」
- 孝明天皇は薩摩と岩倉具視の陰謀により毒殺された可能性大
- 木戸は「玉を幕府に奪われたら我等の滅亡だ」
- 孝明天皇の死因はヒ素による急性中毒症状
- 「薩摩・土佐同盟で武力討幕の正当性を確保した」
- 薩摩の討幕、土佐の平和「大政奉還」には大きな亀裂があった
- 「討幕の密勅の正当性と幕府討伐の宣旨が下された」
- 密勅はどれも偽造されたものだった
- 小松・西郷・大久保はあくまで戦争で倒幕を考えていた
- 「大政奉還は坂本龍馬と土佐藩の献策で幕府の愚かな決断だった」
- 慶応維新というべき偉業であり無血革命で優れていた
- 坂本は「大政奉還で戦争は起こらぬ。将軍のお心はいかばかりかと察するに余りある。よく決断された。私は誓ってこの将軍のために一命を捧げん」
- 薩長はあくまでも幕府の所領地から軍資金を狙っていた
- 「坂本龍馬を殺害したのは佐々木只三郎らの幕府見回り組である」
- 龍馬は、薩摩によって暗殺された可能性が高い
- 新撰組から御陵衛士になった伊東甲子太郎の疑い(薩摩友好)
- 坂本死後3日後には伊東は新撰組に殺される
- 「小御所会議は新政権下で構成に、正当なものであった」
- 西郷隆盛の「短刀一本で」暴力的恫喝による強引な要求
- 徳川家からの財源確保が重要であった
- 「ええじゃないかの民衆の狂喜は伊勢神宮の「神意」に基づくもの」
- 騒乱を起こすことによる進軍を偽装する薩摩が仕組んだもの
- 『戊辰戦争』
- 「江戸市中の騒乱は民衆の不満の爆発であった」
- 幕府側を逆上させようとする西郷の軍資金調達のテロ行為
- 相良総三率いる赤報隊約5百名は軍用金を強奪、市中を殺伐
- 殺人、略奪、強姦、放火「薩摩御用盗」と恐れられた
- 上野彰義隊260余名の晒し死者西郷像の見下ろせるところ
- 「鳥羽伏見の戦いは錦の御旗を揚げた薩長の聖戦であっった」
- 錦旗は薩長が偽造し、討幕の密勅も偽勅で正当性はない
- 幕府側大阪城敗走後、地雷を敬遠して市民に城を解放した
- 「錦旗に逆らった朝敵慶喜追討は当然なことである」
- 恭順を示した慶喜追悼は武力で日本を制したい薩長の口実
- 福井藩由利公正の新政府財政3百万両必要として募債発行
- 御所には5百両士管区、軍資金は豪商三井・鴻池から集めた
- 「江戸無血開城は西郷と勝海舟の歴史的な英断である」
- 江戸城を開城させる条件は反薩長を見殺しにするものだった
- 立役者は幕臣の山岡鉄太郎である
- 「日本を急いで武力統一しなければ諸外国から植民地化される」
- 戊辰戦争は内戦であり中立を保った
- 「小栗上野介忠順は重犯罪人であり斬首されても当然である」
- 日本の近代化の基礎を作った大先駆者(造船・為替等)
- 岩倉・板垣・伊地知らは小栗を鳥川の川原で誅殺指示を与えた
- 徳川埋蔵金の噂は大量の本を持ち出したことが原因
- 「会津藩は勅命により討たれるべき朝敵・逆賊の筆頭である」
- 松平容保は混乱を正常化させ、天皇を守り抜いた正義の藩主
- 木戸は池田屋事件、禁門の変での会津を恨んでいた
- 「奥羽鎮撫総監督の司令官世良修蔵は朝命により会津討伐を命じた」
- 世良は卑劣で貪婪な挙動により無用な戦争を起こさせた
- 5百名の鎮撫軍は会津藩と庄内藩を許せなかった
- 世良の傲慢な行に怒った仙台藩士数名により斬首した
- 「長岡藩家老の河井継之助は官軍には向かった逆賊である」
- 和平を説いた河井は征討軍の理不尽な態度に挙兵した
- 岩村の傲慢で軽率な振る舞いに山縣は怒った
- 「朝敵会津を徹底的に討伐することは正当だった」
- 負傷者の殺害、強奪、合歓など新政府軍は徹底的に蹂躙した
- 敵方の負傷者は全て新政府軍により殺戮され残虐非道であった
- 遺体は埋葬することが許されず腐敗、民家を焼き払い、家財を略奪、男女老若を殺戮、強姦した
- 日本帝国陸軍が日中戦争で行った蛮行と類似している
- 「会津藩以外は大した抵抗することなく降伏した」
- 長岡藩、庄内藩も薩摩兵と互角の戦いをした
- 「徳川家存続のために許した70万石は新政府の寛大な思いやり」
- 静岡藩70万石は懲罰的な処置であり生活は苦しかった
- 「榎本武揚の北海道共和国構想は決して許されるものはなかった」
- 新政府が見捨てた困窮する旧幕臣を救うための建国だった
- 箱館病院は敵味方関係なく治療したが敵の負傷者を暴行した
- 「容保の命を助け斗南藩は新政府の温情である」
- 下北半島では地を這う生活を強いられ極めて重い懲罰だった
- 「靖国神社は天皇の赤子として国家に殉じた忠誠者の御霊を平等に祈るものである」
- 武力によって勝ち取った明治維新は暴力と強奪、人身毀損で成り立った
- 賊軍を排除した靖国神社は薩長史観の本質を露骨に示すもの
- 「神仏分離令」で日本伝統が破壊され禍根を残した
- 靖国神社=招魂社
- 戊辰戦争の官軍側戦没者三千五百八十八名
- 尊王運動で亡くなった「国難殉難者」
- 土佐勤王党・坂本龍馬・中岡慎太郎・久坂玄瑞・真木和泉
- 会津藩・長岡藩等「賊軍」は誰一人祀れれていない
- 西南戦争「朝敵」西郷や桐野は合祀されていない
- 日清日露戦争・太平洋戦争で戦没した軍人246万6千人
- 「朝敵」を徹底的に排除した長州・薩摩の明治政府の神社