@岩倉具視は蟄居中に賭博で生活費を稼ぎ、品川弥二郎が錦の旗を偽造、奥羽鎮撫総督軍下参謀世羅修蔵は旅籠に19日間滞在し好色振りを軍務であるしたことなど歴史の裏側(勝者と敗者)には多くの秘め事、また、非戦争論者としての中国・満州等を収めようと張作霖と協調した町野竹馬、徳島のドイツ俘虜収容所で「武士の情け」から捕虜を大切に軍楽隊まで作り上げ市民との交流を盛んにした松江豊寿など世の中に人々のために貢献した人物もいた事など歴史的人物の逸話がまだまだあることに興味を抱かせた。
『沖田総司は黒猫を見たか』中村彰彦
「概要」徳川将軍、異色の大名、江戸を騒がせた盗賊、新選組、そして戊辰戦争を潜り抜けた明治・大正期の軍人たち――。奇譚とエピソード満載。歴史を読み解く愉しみを堪能させる最新エッセイを収録。
ー不倫は江戸時代には密通、昭和22年以降は姦通という。江戸時代、裁きは密通した妻も男も死罪、夫はお構いなしとした。
ー田沼時代の贈収賄では、奉行になりたいなら2千両、目付で千両等相場があった
ー密告者扱い、水野忠邦では目付の鳥居耀蔵がその名を挙げ渡辺崋山、高野長英などを捕縛、南町奉行の矢部定謙を失脚させ餓死させ非道な男とされた。水野忠邦の後丸亀藩で蟄居となる。その後医者として民衆に親しくされる。
ー鼠小僧、博打打であり遊女買いで散財、の盗んだ総額は1万2千両
ー岩倉具視は岩倉村に蟄居した時賭博を開き寺銭で暮らしていた
ー遠山金四郎、奉行は昔吉原の遊郭に代理し放蕩していた
ー青木弥太郎、盗賊は「死んでも白状せず」と18回の拷問に耐え勝海舟の放免となった
ー戦国時代から貴重なものは土の中に隠す習慣あり、戦争が終われば掘り起こして生き延びた
ー徳川家茂と和宮は心から愛情を持っていた(将軍出征時には御百度参りを何度かする)その家茂の遺言は「後めには田安亀之助を立てたいと妻和宮と天璋院に伝えた。その和宮は麻布の屋敷で脚気で32歳で亡くなる(家茂と同じ病)
ー長州藩は坂本龍馬からの武器ゲーベル銃3千挺、ミニエー銃4千挺を得たことで幕府の第二次長州追討戦に打ち勝てた(家茂の死による退散もある)
ー寺田屋事件・坂本龍馬と中岡慎太郎は幕臣今井信郎と渡辺吉太郎に切られた 京都見廻組の六人はその後の鳥羽・伏見の戦いで亡くなる
ー尊王攘夷運動で岩倉具視に出入りした品川弥二郎が山口で30数日をかけて錦旗を作成した
ー沖田総司は不吉とされた黒猫を見たのか「庭で遊ぶ猫を切れなかった」(不吉とされた黒猫伝説)
ー会津藩柴家の忠僕として女達は全て役に立たないとされ自刃する、だが男兄弟は戦後帰ってきて唖然とした
ー仙台藩には直臣が少なく総大将も武士の意気地に欠けて戊辰戦争で敗北
ー五稜郭につめた戦力は軍艦4隻と運輸船2隻、兵力3千5百だが、脱走兵士も多く、1年5ヶ月後榎本、大島ら七人は降伏、東京の牢に監禁(この牢は大島が作ったものだった)
ー徳川慶喜は蟄居した後夫人は60歳で他界、静岡の蟄居生活では妾二人とYで就寝、終生刺客を恐れていた 寛永寺は葬儀を一旦拒否した(神vs仏の違いを理由)
ー「君が代」は薩摩藩大山弥助(のちに巌)が「蓬莱山」の一節をもとにフェントン作曲、1879年に中村裕庸の曲譜で出来上がった
ー士族の間では正妻の夫を「御前」と呼び、妾は「旦那様」と呼んだとある
ー品川弥二郎は熊本城下での手紙を偽造(女が主人に出した恋文)を兵士の士気を混乱させた
ー奥羽鎮撫総督軍下参謀世羅修蔵の好色振り(旅籠に19日間滞在)軍務であると言った
ー明治政府は5人の女性(旧幕臣)を留学させ、政府は未来に期待した そのひとり津田梅子(当時6歳で留学)は女子師範学校を設立(十名程度の生徒)、その後津田塾大学となる
ー1910年「千里眼」ブームの由来はX線の発見で超能力者を世に紹介したが手品・疑惑
ー「下品」メタルを噛むことは江戸時代、金の純度を確認するための行為だった
ー戊辰戦争後の会津藩の脱走した臣下は米1日4合で斗南藩と改名した藩の松平家家中となる
ー町野竹馬「大陸向けの男」として満州張作霖と組み奉天を支える(張作霖は関東軍の策略で爆殺される)No2として中華民国陸軍元帥として活躍した「日本武士道の精神を信じていた非戦争論者」
ー徳島にあった板東俘虜収容所の松江豊寿所長の「武士の情け」(模範収容所)ドイツ人5千人を収容への「彼らも祖国のために戦ったのだから」と敬意をもって接した。軍楽隊を編成し市民との交流「第九を歌う会など」開催 書籍「二つの山河」直木賞