@長期独占国家:徳川幕府(264年)vs オスマン帝国(623年)
如何に長期政権を維持できたのか、スルタン(王家)三人の功績と周りを支えた宰相、皇后、芸術家たちの功績は大きい。スルタンの三人とは創設者スレイマン1世、帝国の基盤固めをした第7代メフメト2世、危機を乗り越えた第30代マフムト2世の力量もあるが、この時代の「兄弟殺し」法(後継者を一人にする事で親族関係者を殺害する)は偉大な意味があったとも言える、また「ハレム」を強力に管理するすることで教養を徹底させ上下関係を根付かせ謀反者を出させないことなど、またそれを歴史的に残す芸術家たちの繊細な建築・絵画は歴史に偉大さを代々惹きつけたのかもしれない。
結論から言うと、人は教育・教養・経験が必要、しっかり女房(賢い参謀)、外部の相談役だと言えるかもしれない。
『オスマン帝国英傑列伝』小笠原弘幸
3世紀末、現在のトルコ共和国の片隅で誕生したオスマン集団は、やがて三大陸をまたにかける大帝国となった。1453年ビザンツ帝国コンスタンティノープル陥落、1529年ウィーン包囲など、世界で最も強大な国家を築き上げ、イスラム世界の覇者として君臨した。世界史上稀にみる600年もの長きにわたる繁栄の理由は、さまざまな出自を持つ人々が活躍しえたことにあった
・600年の歴史を支えたスルタン、芸術家、そして女性たち
オスマン帝国が滅びたのは1922年(1299年の勃興期から623年)
スルタン:オスマン家を王家とした王朝国家
・36名のスルタンの中でも三人
創始者のオスマン1世 (?~1324年)
「男たるもの、敗者を助けねばならぬ」オスマン家系
建国は聖戦が理由・オスマン帝国建国は1299年
ムスリム教徒vsキリスト教徒(敵味方が入り乱れていた)
真の帝国を築いた第7代メフメト2世(1432~1481年)
高名なイスラム学者に学ぶ・キリスト教徒の奴隷を登用
「奴隷」イスラム法により一定の権利を保障されていた
150年続いた「兄弟殺し」の慣わし
生母は元奴隷、子供は正室とも同じ権利を持っていた
危機を蘇らせた第30代マフムト2世(1785年~1839年)
軍団の編成・近代化(郵便局、検疫所、新聞アド西洋文化の導入)
鳥籠制度(ハレムに王族男子を閉じ込める・後継者不足)
・スルタンを支えた女性たち
スレイマン1世の寵妃ヒュッレム(1505年~1558年)
元奴隷から宮廷・結婚、ハレムに入れるのはスルタンのみ
寵妃に王子が生まれるとスルタンから遠ざけられた(王子の集中を避けた)
美貌より快活を魅力とした魔女・三角関係(スレイマン・イブラヒム)
大丞相を12年も務めたイブラヒムはスレイマンのより処刑(ヒュッレムの罠)
母后として権力を振るったキョセム(?~1651年)
ハレムで殺害された偉大な母后(ハレムの君臨者)
「兄弟殺し」法を廃止
「摂生」女性初で国政を取り仕切る
宮廷での奉仕者は主に「宦官」(イスラム教は宦官手術は禁止されていた)
宦官出身はエジプト・エチオピアなど黒人宦官、白人宦官はチェルケス地方
帝国末期の革命家ハリデ・エディブ(1884年~1964年)
トルコの女性革命家(トルコのジャンヌダルク)・レジスタンスの旗手
フェミニスト・小説家(文筆活動と社会活動)女性参政権へ
独立戦争(国民軍曹長として活躍)ギリシャ軍撤退・欧米で逃亡生活
1938年トルコに帰還・女性教授・1950~4年間議員
・帝国を支えた芸術家たち
トルコの建築を手がけたミマール・スイナン(1491年~1588年)
700もの建築・元キリストの奴隷
大型の公衆浴場、モスク(スレマニエ・セリミエ)、商業施設を建設
細密画の世界に確信をもたらしたレヴニー(1681年~1732年)
チューリップ時代に活躍・西洋技法
「祝祭の書」「技の書」「容貌の書」
洋画家、考古学者としてオスマン・ハムディ(1842年~1910年)
トルコのモナリザを描写「亀使い」絵画
パリ留学、パリ万博、西洋文化、フランス人マリーと結婚
考古学館長として活躍・アジア初の立国国家助言
・オスマン帝国を滅ぼした
トルコ共和国の初代大統領となったムスタファ・ケマル(1881年~1938年)
トルコ建国の父アタテュルク、教養を重視、第1次世界大戦の英雄
数学の才能・陸軍大学・リビア戦争・バルカン戦争・第1世界大戦・独立戦争
1922年10月オスマン帝国は滅び、トルコ共和国が成立
トルコ民族主義(単一民族国家へ・クルド人問題・イスラム教)
1934年創姓法で姓名を持つ事になる「アタテュルク」(父なるトルコ)
・現代・エルドアン大統領(2002年から就任)
イスラム的価値の重視(オスマン帝国を否定)
2023年トルコ共和国建国100年の行方はどうなるのか
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