「東松山」
江戸時代には、江戸幕府によって五街道と脇往還の整備が進められ、この市域でも、江戸から高坂を経て上州に至る川越・児玉往還(川越道)と、
八王子から高坂・松山を経て日光に至る千人同心街道(日光脇往還道)が整備され、松山宿と高坂宿は宿場町として賑わった。
幕末になると、川越藩主である松平直克が前橋藩に移封となり、比企郡・高麗郡・埼玉郡周辺のおよそ6万石の統治を行うために、
1867年に松山陣屋が設置され、武家やその関係者、家族らの移住によって人口が2倍近くに増えたとされている。
しかし、幕末という事もあってわずか5年足らずで廃藩置県を迎える事になった。
「箭弓稲荷神社」712年の建立。源頼信により改名。商売繁盛、家内安全の守り神。

牡丹園は有名、まだ花は咲いていない。
「市野川」は、延長約35km、流域面積147Km2の荒川水系の一級河川。 源流は埼玉県大里郡寄居町にあり、小川町、嵐山町、滑川町、東松山市、吉見町、
川島町 を経て、北本市と桶川市の境界付近で、荒川と合流する。

「岩室観音」
吉見百穴の近くにあり、弘法大師の観音像を彫刻して岩窟に納めたと伝えられている。
石仏は四国88か所の寺の本尊を模したもの、拝めば88か所を礼拝したものと同じ功徳があるといわれている。

「吉見百穴」
岩山の異様な外観や、素掘りのまま跡など、実写特撮番組のロケ地として、よく使われている。
吉見百穴の約2.5キロメートル北東には、同時代の遺跡「黒岩横穴墓群」がある。
近くには松山城 (武蔵国)がある。この城を甲斐の武田氏が北条氏との連合軍で攻めた際に、「もぐら戦法」で金山掘りに穴を掘らせて
地下から攻めようとしたという言い伝えがある。
事実は不明だが、吉見百穴を見た武田軍がこの戦法を思いついたという説もある


松山城跡、築城時期は定かではないが、応永年間初期、扇谷上杉氏被官の上田氏築城と伝えられる。
1537年、東松山市街を抜けて市野川を渡ったところ、 小高い丘が松山城。三方を川に囲まれ、切り立った斜面が敵を阻む要害の地。
1562年、北条氏康・武田信玄の兵五万数千が松山城を包囲、松山城は容易に陥ちず、信玄は甲斐より金堀衆を呼び寄せて坑道作戦を採るなどの奇策を用いた。
上杉政虎は救援のため越山し関東に出陣、武蔵石戸城まで迫ったが、翌1563年、城将の上杉憲勝は水の手を断たれた事と、北条氏の和睦交渉により
援軍を待たずに開城、激怒した政虎は人質として預かっていた憲勝の子を斬り捨てたといわれる。
松山城には上田朝直が復帰、以後長憲、憲直、憲定が城主となった。
1590年の小田原の役では、豊臣軍の北方方面軍である上杉景勝・前田利家勢に攻められ落城、徳川家康の関東移封後は 松平家広が一万石で封じられた。
1601年、松平忠頼が遠州浜松城に移封となり、松山城は廃城となった。

次回は嵐山へ。
江戸時代には、江戸幕府によって五街道と脇往還の整備が進められ、この市域でも、江戸から高坂を経て上州に至る川越・児玉往還(川越道)と、
八王子から高坂・松山を経て日光に至る千人同心街道(日光脇往還道)が整備され、松山宿と高坂宿は宿場町として賑わった。
幕末になると、川越藩主である松平直克が前橋藩に移封となり、比企郡・高麗郡・埼玉郡周辺のおよそ6万石の統治を行うために、
1867年に松山陣屋が設置され、武家やその関係者、家族らの移住によって人口が2倍近くに増えたとされている。
しかし、幕末という事もあってわずか5年足らずで廃藩置県を迎える事になった。
「箭弓稲荷神社」712年の建立。源頼信により改名。商売繁盛、家内安全の守り神。


牡丹園は有名、まだ花は咲いていない。


「市野川」は、延長約35km、流域面積147Km2の荒川水系の一級河川。 源流は埼玉県大里郡寄居町にあり、小川町、嵐山町、滑川町、東松山市、吉見町、
川島町 を経て、北本市と桶川市の境界付近で、荒川と合流する。



「岩室観音」
吉見百穴の近くにあり、弘法大師の観音像を彫刻して岩窟に納めたと伝えられている。
石仏は四国88か所の寺の本尊を模したもの、拝めば88か所を礼拝したものと同じ功徳があるといわれている。



「吉見百穴」
岩山の異様な外観や、素掘りのまま跡など、実写特撮番組のロケ地として、よく使われている。
吉見百穴の約2.5キロメートル北東には、同時代の遺跡「黒岩横穴墓群」がある。
近くには松山城 (武蔵国)がある。この城を甲斐の武田氏が北条氏との連合軍で攻めた際に、「もぐら戦法」で金山掘りに穴を掘らせて
地下から攻めようとしたという言い伝えがある。
事実は不明だが、吉見百穴を見た武田軍がこの戦法を思いついたという説もある




松山城跡、築城時期は定かではないが、応永年間初期、扇谷上杉氏被官の上田氏築城と伝えられる。
1537年、東松山市街を抜けて市野川を渡ったところ、 小高い丘が松山城。三方を川に囲まれ、切り立った斜面が敵を阻む要害の地。
1562年、北条氏康・武田信玄の兵五万数千が松山城を包囲、松山城は容易に陥ちず、信玄は甲斐より金堀衆を呼び寄せて坑道作戦を採るなどの奇策を用いた。
上杉政虎は救援のため越山し関東に出陣、武蔵石戸城まで迫ったが、翌1563年、城将の上杉憲勝は水の手を断たれた事と、北条氏の和睦交渉により
援軍を待たずに開城、激怒した政虎は人質として預かっていた憲勝の子を斬り捨てたといわれる。
松山城には上田朝直が復帰、以後長憲、憲直、憲定が城主となった。
1590年の小田原の役では、豊臣軍の北方方面軍である上杉景勝・前田利家勢に攻められ落城、徳川家康の関東移封後は 松平家広が一万石で封じられた。
1601年、松平忠頼が遠州浜松城に移封となり、松山城は廃城となった。


次回は嵐山へ。