syuの日記・気まま旅

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嵐山と武蔵武士・菅谷遺跡

2011-06-17 | 気まま旅
武蔵嵐山渓谷は、比企丘陵の中央にあり、県の自然公園。南部の丘陵、西部の山地の間に都幾川と槻川が、北部東部の丘陵地の間に市野川が流れ、
中央部が東松山台地からなっている。
1928年(昭和3年)に、本多静六が訪れ景観を眺めたところ、京都の嵐山の風景によく似ていることから、武蔵嵐山と命名され評判になり、多くの観光客が訪れている。

「畠山重忠」などの武蔵武士が活躍した時代の城郭「菅谷館跡」は、嵐山駅南西約1.2kmにある。鎌倉時代初期に重忠が築城し
北条氏に討たれる20年間居館している。
(1187~1207)「吾妻鏡」より。
城は、面積12万m2に及び、空堀や土塁などが残っている。

菅谷館跡                    畠山重忠像
    

山内上杉氏と扇谷上杉氏が争った「長亨年中の大乱」1487年頃再興され拡大整備されたとある。発掘調査も5回目で遺物が出土している。
「畠山重忠」は深谷市畠山で生まれ、源頼朝に仕え、多くの武勇伝を残している。
(1164~1205)平家追討戦で武功豪勇廉直の鎌倉武士、二度目の妻は北条時政の娘。最後は、北条義時に討たれ一族全滅した。

埼玉県指定文化財、「鋳銅経筒」経塚に埋納する経典類の容器(1148)や板碑、五輪塔、供養塔、などが出土。

出土した遺物
  



菅谷城跡は平山城形式の城で面積3万2千余坪。本郭が館跡の南に位置し3方を他の郭に比べて高い土塁と深い堀に囲まれ外部からの進入に対して厳重に築かれている。
この本郭辺りが前身の重忠の館跡があったところではないかと考えられているようだ。館跡の中央には二の郭があり、四方は空堀に囲まれ、南側の一部は南郭となっている。
このうち、北側の小口は門跡と伝えられ、三の郭には歴史資料館が建っていて館内のもっとも大きい郭になっている。

菅谷遺跡 
    

           



  

菅谷館跡西寄りに、蝶のオオムラサキの「森活動センター」がある。今日は休館して中には入れなかった。その前の通りが
鎌倉街道で碑が建っている。
中世より、街道の要衝で、畠山の菅谷館、源義賢の大蔵館は、鎌倉に通じていた。当時は、養蚕や米の農村であったが、現在は宅地化されている。

オオムラサキの森活動センター                   鎌倉街道
  



村社「菅谷神社」は、大山咋命、菅原道真公、保食命を祀る。
国造り、酒造りの神。学問の神として尊崇。食物の起源の神。その体から五穀や家畜が生まれたという。

勧請、年紀不詳、無格社と天神社及字本宿無格社稲荷神社の二社を菅谷神社と改称し現在に至る。

 
    

ここで高坂、東松山、嵐山を終わります。