syuの日記・気まま旅

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忠臣蔵を歩く 永代橋へ

2013-01-21 | syu散歩

吉良邸討ち入り後、早朝に赤穂浪士一行は、吉良氏の首を揚げて、両国から清澄通り、門前仲町、永代橋、浅野邸を目指し行進している。
私は、芭蕉記念館から隅田川沿いの整備された遊歩道を行く。水上バスが迎えてくれた。

「清澄通り」は、家康の江戸入府の頃は干潟だった。江戸時代に入り1630年頃、この一帯の干潟を開拓した猟師町開拓八人の一人に弥兵衛という者がおり、その名を由来として弥兵衛町と呼ばれていた。
無年貢地で御菜御用などをつとめたが、寛文10年に年貢地となり、1695年の検地の際に清住町と命名され、この清住は弥兵衛の姓だと考えられている。

吉良邸先に両国公園が、「勝海舟」生誕の地である。(本所亀沢町)

勝海舟 1823-99年 幕臣、名義邦、通称麟太郎。江戸無血開城に尽力、長崎海軍伝習所修業、咸臨丸艦長アメリカに渡る。
神戸海軍操練所長、徳川家存続に尽力、維新後新政府出仕するが、すぐ辞して晩年を送った。


公園内の隅に                    碑がある
    

「芥川龍之介」1892-1927 大正時代の作家、新原敏三の長男、後に母方実家芥川家入籍、東京帝大文学卒。
夏目漱石、森鴎外を師に、初期「羅生門」「地獄変」など、大正21年中国へ、帰国後健康を害し、社会不安も影響し自殺。

芥川龍之介の碑(小学校内に)
  

「江島杉山神社」は、。元禄6年 1693年,杉山流鍼術の始祖、杉山検校が江の島弁財天を勧請して創建したと伝えられる。
1952年に社殿が再建され,その際に杉山検校も合祀して江島杉山神社と改称した。境内には江の島の弁天洞窟を模した洞窟があり、その奥に弁財天が祭られている。
また,杉山検校の胸像と点字で銘文を刻み込んだ頌徳碑がある。

神社入口に                    鳥居
  

「杉山検校」は、10歳で失明し、17・8歳ごろ江戸に出て鍼術を検校山瀬琢一に学ぶ。
生まれつきのろまで物忘れが激しい性格から、破門を言い渡されるが目の不自由な自分が生きるためには何かを成就大成させねばならぬと、俗説では芸能の神であり盲目の守護神でもある江の島の弁財天の祠に詣で岩屋に篭もり断食祈願をすること8日目の朝、山から下る帰り道に大きな石のそばでつまずいて倒れ、その際体をチクリと刺すものがあり、拾ってみると竹の筒とその中に入った松葉だったという。
これをヒントに考案したのが、管の中に鍼を入れ管の上部に出た鍼の頭を指で叩いて刺入する杉山式管鍼であった。

その後、京都に上って山瀬琢一の師の入江良明を尋ねたがすでに死去しており、その子の入江豊明に入江流を学び鍼術の奥義を極めた。良明の父頼明は豊臣氏の医官岡田道保及び明人呉林達に鍼術を学んで大成した。

杉山氏案内板              人工地下道  神社前の立て看板
    

「御船蔵跡」は、今の江東区新大橋付近で、はじめ寛永9年(1632)幕府は、軍艦安宅丸を伊豆から回航格納し、1682年にいたって解体したがのちここを明治時代まで幕府艦船の格納所として使用御船蔵と称し、またこの付近にあった安宅町という地名は安宅丸の由来から生じたものであるという。

「芭蕉記念館」
芭蕉は、1680年それまでの宗匠生活を捨てて江戸日本橋から深川の草庵に移り住み、この庵を拠点に新しい俳諧活動を展開した。
多くの名句や「奥の細道」などの紀行文を残している。
この草庵は、門人から贈られた芭蕉の株が生い茂ったところから「芭蕉庵」と呼ばれ、芭蕉没後、武家屋敷内に取り込まれて保存され、幕末から明治にかけて消失。 大正6年(1917)の大津波の後、常盤一丁目から「芭蕉遺愛の石の蛙」(伝)が出土し、同10年に東京府は、この地を「芭蕉翁古池の跡」と指定。

区は、このゆかりの地に、松尾芭蕉の業績を顕彰するため、1981年に「芭蕉記念館」を、1995年に隅田川と小名木川に隣接する地に「芭蕉記念館分館」を開館した。真鍋儀十翁等が寄贈された芭蕉及び俳文学関係の資料を展示。有料

芭蕉像            館内                   入り口
    

戦国時代、塩は、篭城の際に魚や野菜の長期保存をするための必需品であったから、家康が江戸入り直後に最も重視したことのひとつが、江戸への塩の安定供給であった。その調達先となったのが下総国行徳であり、その水運経路の一部として、当時の海岸線を整備して作られたのが小奈木川(小名木川)である。小名木川は、高速運搬を意識したのか、隅田川と中川を東西につなぐ約5kを、見事一直線に結んでいる。

江戸経済の発展にともない、小名木川は、塩の供給経路としてだけではなく、物資流通の動脈として重要な役を担うようになる。
また、江戸と行徳や鴻之台(国府台)方面とを結ぶ定期航路も設置され、江戸近郊への観光経路として大いに利用されたという。
その小名木川のほぼ中間の北岸、深川猿江町の一角に整然と並ぶ5本の松があった。広重が描いた頃には、そのうち4本は既に枯れてしまっていて、丹波綾部藩九鬼氏の下屋敷内に残った1本の松の枝が、伸びに伸びて小名木川の水面に覆っていた。
江戸名所図会の絵からも、水上につっかえ棒があったことなど当時の様子がリアルにわかる。 
観光客にとって、舟でのんびり松の下を潜るというのは、とても風流なアトラクションであったであろう。

現在の万年橋           江戸時代
  

隅田川の両国橋、新大橋、清澄橋、隅田川大橋、赤穂浪士が渡った永代橋と高速道二本がある。全て遊歩道が出来て川沿いをのんびり歩く事が出来る。

「新大橋」が架橋されたのは、元禄6年、1694年である、隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられ、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたと伝えられている。当時の橋は現在の位置よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰とした。橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいる。
「初雪やかけかかりたる橋の上」。 「ありがたやいただいて踏むはしの霜」。

  


「清洲橋」は、関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋。「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるような設計で、「震災復興の華」とも呼ばれた優美なデザイン。
世界最美の橋と呼ばれたドイツのケルン市にあった大吊り橋をモデルにしている、(この橋は第二次世界大戦で破壊された後、別の橋が再建された為、現在は吊り橋ではない)。海軍で研究中であった低マンガン鋼を使用して、鋼材の断面を小さくする努力がなされた。
もともと「中州の渡し」という渡船場があった場所でもある。2000年に永代橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定された。2007年に、都道府県の道路橋として初めて勝鬨橋・永代橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定された。

  

「隅田川大橋」 は、中央区日本橋箱崎町 と 江東区佐賀 の間で、「人形町通り」 が 「隅田川」 を渡る橋である。
橋の創架は昭和54年、「首都高速道路 9号 深川線」 建設のために、「隅田川」 を渡る高速用高架橋が必要になり、それに併せて一般道路用の橋も同時に架設されたものである。
上下に 2段構造の橋となっており、上段部分が 「首都高速道路」 の高架橋、下段部分が一般道路の、いわゆる 『隅田川大橋』 である。
大橋 の全長は210mであるが、これはあくまでも河川部分の長さであって、両側は高架橋になっており、その総延長は385.3mにも及ぶ。
しかも高速と一般道との2段構造で高さもあり、その大きさではまさに 「大橋」 と呼ぶにふさわしい橋、だが、この辺りの 「隅田川テラス」 を散策すると感じるのだが、大きな壁のように 「隅田川」 を渡るこの橋は、「大川端」 と呼ばれた隅田川周辺の景観を大きく変えた。

                向かいが日本橋川
  

次回は、永代橋を渡り八丁堀・築地方面に。


忠臣蔵を歩く 両国から

2013-01-19 | syu散歩

両国と云えば東京の夏の風物詩、隅田川花火大会、江戸時代中期にコレラの大流行や農作物の大凶作で、江戸は水神祭に厄払いに打ち上げたのが始まりであった。終戦後一時中止している。
江戸開府以前は、隅田川が、下総国と武蔵国の境であったことからここに架ける橋を両国橋としたのが、そのまま地名となった。
以来東京と千葉を結び、鉄道、道路、商業、住宅などで発展。隅田川岸に沿って高速6号線走っている。江戸時代、町人文化の中心として栄えた。
幕府も「明暦の大火」などで、両国に無縁寺「回向院」を建て、境内に勧進相撲が行われた。その後は、蔵前、現在の駅北側に受け継がれている。
その為か相撲部屋が集中している。

今回は、忠臣蔵四十七士の足取りを追って散策した。
元禄15年12月14日の晩、赤穂浪士47名が吉良上野介邸に押し入り、上野介を殺害して主君の仇を討つ。


両国駅は、千葉県方面への鉄道を建設した私鉄であった総武鉄道が1904年に「両国橋駅」として開業した。
総武鉄道は市川駅より東側の区間を先に開業しており、そこから西へ東京へ向かって順次建設を進めてきた。
本所駅(後の錦糸町駅)から両国橋駅までの区間が都心側で最後に開業。

本所から両国橋までの沿線はすでに市街地になっており、高架線とすることを条件に免許が出され、会社側は建設費のかかる高架線を避けようと、地上の線路に変更しようとする工作をしたが、結局煉瓦造りの橋脚の上に鉄桁を載せた形状の高架橋を約1.5 kmに渡って建設して開業することになり、これは日本の鉄道で最初の高架区間である。
単線で開業したが、最初から橋脚は複線用に準備されており、早く1906年に複線化された。

両国橋から吉良邸に向かう。電車で両国駅下車、まずは両国橋からスタートする。

両国駅北口                        高速6号線と両国橋
  

「大高源吾句碑」向島の俳諧師、「宝井其角」の弟子であったい赤穂浪士 大高源吾の句。
「日の恩やたちまちくだく厚氷」の碑、この句は、討ち入りの夜、俳句の師匠宝井其角に両国橋で出会い詠んだものといわれている。

大きな「表忠碑」は、両国橋の橋元に立つ日露戦役戦没者慰霊碑、陸軍元帥大山巌筆に元本所区の日露戦争での戦没、病死者の慰霊のために、海軍中将榎本武楊が委員長の戦没者弔魂祭兼凱旋軍人歓迎会により明治四十年元旦建立された碑。

両国橋の袂に
    

「両国回向院」は、山号 諸宗山、宗派浄土宗、本尊 阿弥陀如来、創建年 1657年(明暦3年)、開基江戸幕府、諸宗山 無縁寺 回向院、江戸三十三箇所4番。
振袖火事と呼ばれる明暦の大火、1657年の焼死者10万8千人を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まり。のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬した。
あらゆる宗派だけでなく人、動物すべての生あるものを供養するという理念から、ペットの墓も多数ある。
著名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉など。 参拝客のために両国橋が架けられたとも言われている。
1781年以降には、境内で勧進相撲が興行された。これが今日の大相撲の起源となり、1909年旧両国国技館が建てられるに至った。国技館建設までの時代の相撲を指して「回向院相撲」と呼ぶこともある。
1936年(昭和11年)には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立。


回向院                         境内
    

徳川家綱は、三代家光の長男、武断政治から文治政治に、すぐ弟綱吉に継承、綱吉は、犬公方「生類憐れみの令」を出す。


江戸を騒がした鼠小僧の墓            生き物の供養塔が
    

両国橋から回向院により吉良邸まで約30分。

「吉良義央」 1641-1702 通称上野介、足利一族の名門吉良家に生まれ、幕府の典礼を掌った。元禄14年接待役赤穂藩主浅野長矩に切りつけられ、お役御免となる。翌年赤穂浪士の襲撃を受け打ち取られた。
領地の三河国吉良では、善政をしいたこたから、領民から名君と慕われていた。
新田開拓、塩業、一昼夜で築いた182M堤、治水工事により豊作し、赤い馬の領内巡回「吉良の赤馬」で親しまれていた。
諸大名に礼儀作法を指導し代償として付け届けがおおく、領民から税は、取る必要が無かったという。
養子の吉良義周は、諏訪に配流され、吉良家は断絶処分たなった。

元禄15年 1702年12月14日 雪の中、赤穂の四十七士「忠臣蔵」


浪士たちは表門と裏門の二手に分かれて吉良邸に侵入。上野介は物陰(一説では炭小屋の中)に隠れているところを発見され、討ち取られます。
吉良邸は不意を付かれたためほとんど無抵抗の状態で、討ち入り側には一人の死者も出ていない。
浪士たちは、そろいの羽織を着て堀部安兵衛宅に集まって向かった、などという話や「山」「川」といった合い言葉を使った、という話があるが、実際は怪しまれないようにみんなばらばらの衣装で、江戸市内の数カ所に分散して集合してからできるだけばらばらに吉良邸をめざした。ただし内蔵助ら数人の武士がほんとうに火消装束を着てたようです。
これは夜中に町を歩いていて見とがめられたときに「火の用心の夜回りをしている」と答えるためであったと言われている。

吉良家屋敷は広大な、2550坪(約8400M2)母家381坪・長屋426坪という。それまでは、鍛冶橋を拝領、刃傷事件後移されている。
幕府の意図的とも云われている。

吉良邸の碑               屋敷前                   入口             
    

「松之大廊下の刃傷」(梶川日記から)
3月14日(4月21日)、勅使、院使が江戸城に登城して将軍綱吉が先の勅宣と院宣に対して返事を奏上するという奉答の儀が江戸城本丸御殿白書院にて執り行われる予定になっていた。
同日巳の刻(午前9時過ぎ)、江戸城本丸御殿の大広間から白書院へとつながる松之大廊下(現在の皇居東御苑)において吉良義央と留守居番梶川頼照が居合わせた所へ、突然、浅野長矩が吉良義央に対して背後から、小サ刀にて叫び声をあげながら斬りかかった。
吉良は背後から背中を斬られ、「これはなんと」と振り向いたところを額を2回切りつけられ、気を失ってうつ伏せに倒れた。
梶川頼照がすぐさま浅野を取り押さえ、居合わせた品川伊氏(豊前守)、畠山義寧(下総守)ら他の高家衆が吉良を蘇鉄の間に運んだ。
連行される途中、大広間の後ろの廊下で、浅野は「吉良上野介はこの間中から遺恨があるので、殿中と申し、今日のことと申し、かたがた恐れ入ることではあるが、是非に及ばず討ち果たしたのだ」とずっと繰り返し、「拙者も5万石の城主だ。場所柄をはばからないのは重々恐れ入るが、乱暴な取り押さえで服が乱れた。お上にはなんの恨みもないから刃向かわない。殺せなかったのが残念だ」と言っていたとのことであった



上杉家の史料では、「死者15人、負傷は23人」、「吉良邸は野原のように散乱し、ここかしこに、負傷者や死者が倒れていた。
山吉新八・須藤与一右衛門・左右田孫八らは、よく奮戦し、しのぎをけずるほど戦ったが、敵の赤穂浪士は皆戦闘服を着込んでおり、鎗で突いても通らず、敵の赤穂浪士には負傷者もあまりいなかった。
本所の吉良方には死者15人、負傷者23人です」とある。


稲荷大明神                     井戸と一部の屋敷跡 
  

「中島伊勢」は、赤穂事件(忠臣蔵)の後、町人に払い下げられた本所松坂町となったこの辺りに住んだと云われている。
伊勢は、幕府用達の鏡師で、1763年、のちに葛飾北斎となる時太郎を養子とした。北斎の出生には不明な点が多く、はっきりとしたことは判らない。
飯島虚心の「葛飾北斎伝」によると、北斎の母親は赤穂事件に登場する吉良方の剣客、小林平八郎の娘で、鏡師中島伊勢に嫁いでいるという。この噂、北斎自身が広めたとも云う。

吉良邸前に
  

赤穂浪士四十七士は、永代橋を目指した、次回。 

谷中七福神 池之端不忍池

2013-01-16 | 気まま旅

縄文時代、この辺り一帯は東京湾の入り江。海岸線の後退とともに取り残されて、紀元数世紀ごろに池になったと考えられる。
1625年、江戸幕府は、西の比叡山延暦寺に対応させ、この地に寛永寺を建立した。開祖である慈眼大師・天海は、不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえ弁天島(中之島)を築かせ、そこに弁天堂を作った。
当初の弁天島は文字通り船で渡る島であった。しかし1672年に弁天島から東に向かって石橋が架けられ徒歩で渡れるようになる。
明治時代の初期までの池の形は現在のものとはかなり異なって、特に池の北側は今よりもかなり広く藍染川という川も注いでいた。
しかし1884年、共同競馬会社による競馬場の建設に伴い埋め立てが行われほぼ現在の形が出来上がった。池を周回する形で作られた競馬場で同年11月には天皇臨席のもと第1回の競走が行われ、以降1892年まで春と秋に競馬が行われた。

1907年には東京勧業博覧会のために西に向かって観月橋がかけられ、池の中央を横断できるようになった。
1967年には地下鉄千代田線の建設工事に伴う土砂崩れで池の底が抜け、約3万トンの水がトンネルに流れ込む事故が起きている。
1990年から1994年にかけては水質浄化のため都建設局によって層流多循環システム、曝気噴水ポンプ、生物酸化処理膜の設置などが行われた。

「五条天神社」は、古来より医薬、禁厭の神として信仰され、第12代景行天皇時代、日本武尊が東夷征伐の折り、上野忍が岡を通った際に「薬祖神」の加護に感謝し祀ったのが始まり。

神社上が「上野精養軒」、1872年 三条実美や岩倉具視の援助により、東京府築地に「西洋館ホテル」創業。 1873年 精養軒ホテルと改称。1876年 上野精養軒開業。
  


「弁天堂」は、寛永寺の伽藍の一つで、竜泉弁天院を開基した備中松山城主の水谷伊勢守により建設。弁天堂に祀られている弁財天は、谷中七福神の弁財天、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場30番札所。
不忍池、参道、桜と東京の名所。縁日・9月16日巳成金大祭、毎月初巳日縁日は、金運由で賑わう。


上野動物園水族公園           不忍池                弁天堂入口
    

池の端に柳の古木                        弁天橋
  

本殿
    

  

「下町風俗資料館」は、古き良き下町の文化を永く後世に伝えるために出来た資料館。(入館有料)
       
    

「上野アメ横」
元々は民家や長屋がひしめき合う下町特有の住宅街で国鉄の変電所が在ったことから空襲に因る被災を避けるため強制的な建物疎開が行われたが、東京大空襲に因って周辺一帯は焦土と化し、第二次世界大戦後はバラック建ての住宅と店舗、そして屋台に混ざって露天で商売をする人々が目立ち始めるようになる、これらは国に許可を受けない闇市と呼ばれた。
今は、明るい商店街で、連日賑わっている町。


  


これで田端からスタートした谷中七福神初詣は終わります。

七福神その4・谷中 上野の山

2013-01-14 | 気まま旅
「上野の山」は、三代将軍・徳川家光が江戸城の丑寅(北東)の方角、すなわち鬼門を封じるためにこの地に東叡山寛永寺を建てた。
以来、寛永寺は芝の増上寺と並ぶ将軍家の墓所として権勢を誇ったが、戊辰戦争では寛永寺に立て篭った旧幕府軍の彰義隊を新政府軍が包囲殲滅したため(上野戦争)、伽藍は焼失し、一帯は焼け野原と化した。
1870年、医学校と病院予定地として上野の山を視察した蘭医ボードウィンが、公園として残すよう日本政府に働きかけ、その結果1873年に日本初の公園に指定された。
このことをもってボードウィンは、上野公園生みの親と称されている。谷中桜木町寺の門前町を抜けると「東京芸術大学」に出る。
都立上野高校前角に「谷中七福神・護国院大黒天」がある。

寛永2年(1625年)、寛永寺の最初の子院として創建された。寛永寺本坊の裏手、現在の東京国立博物館北側の寛永寺墓地の位置にあったという。
1630年、天海によって釈迦堂が建立されると、その別当寺(管理寺院)となった。
護国院は徳川家霊廟の建立に伴い2度にわたり移転し、現在地に移ったのは、1709年のこと、釈迦堂は、1717年に焼失し、1722年に再建された。
1639年 藤原信実筆と伝える大黒天画像は、1639年、徳川家光によって奉納されたものである。


谷中七福神大黒天・護国院


護国院の重要文化財 、 絹本著色愛染明王像 - 東京国立博物館に寄託。有形文化財、 庫裏など。

三代将軍家光から贈られたと伝えられる大黒天画像は谷中七福神の一つとなっている。上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場14番札所。
「東叡山・寛永寺」江戸時代は上野の山を占めていた。
                                              本堂


「寛永寺」は、徳川家の菩提寺。増上寺は中世から存在した寺院であったが、寛永寺は天海を開山とし、徳川家により新たに建立された寺院である。
徳川家康・秀忠・家光の3代の将軍が帰依していた天台宗の僧・天海は、江戸に天台宗の拠点となる大寺院を造営したいと考えていた。そのことを知った秀忠は、1622年、現在の上野公園の地を天海に与えた。
当時この地には伊勢津藩主・藤堂高虎、弘前藩主・津軽信枚、越後村上藩主・堀直寄の3大名の下屋敷があったが、それらを収公して寺地にあてたものである。

秀忠の隠居後、1625年、3代将軍徳川家光の時に今の東京国立博物館の敷地に本坊が建立され、年号をとって寺号を「寛永寺」とし、京の都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とした。
その後、1627年には法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮などが、1631年には清水観音堂、五重塔などが建立されたが、これらの堂宇の大部分は幕末の上野戦争で失われた。
このようにして徐々に伽藍の整備が進んだが、寺の中心になる堂である根本中堂が落慶したのは開創から70年以上経った1698年、5代将軍徳川綱吉の時であるという。

鐘楼                      江戸時代の寛永寺             銅灯籠


寛永寺根本中堂は、現在の上野公園大噴水のあたりにあり、重層入母屋造、間口45.5m、奥行42m、高さ32mという壮大な規模のものであった。
中堂前には方形に回廊をめぐらし、正面に唐門を設けていた。 本坊 - 現在の東京国立博物館の敷地にあった。
正門のみが上野戦争で焼け残り、しばらくは博物館の正門として使用されていたが、その後博物館の東の輪王寺に移築されている。
博物館本館裏の日本庭園は寛永寺本坊庭園の名残りである。


「黒田記念館」日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝は、大正13年に没する際、遺産の一部を美術 の奨励事業に役立てるよう遺言。
昭和3年に竣工した黒田記念館。
  


明治23年に創設されて以来、音楽教育の練習、発表の場として永く使用されてきた旧 東京音楽学校奏楽堂は、建物の老朽化が進み、また、音楽の演奏形態の拡大等に対応できなくなってきたため、昭和59年に解体し、その後、上野公園内に移築再建された。

滝廉太郎像
  


都美術館裏手に使われなくなった、京成電鉄「上野動物園前」駅出口と旧動物園正面玄関、人通りも疎ら。
  


旧切符売り場             国立博物館隅にある京成の駅出口
  

昔からある「鶯団子」屋さん          動物園正面玄関前の遊園地
  


「上野東照宮」は、恩賜公園内にある神社で、徳川家康(東照大権現)・徳川吉宗・徳川慶喜を祀る。
1627年、藤堂高虎が上野の高虎の敷地内に創建し、1616年、危篤の家康から自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと高虎と天海に遺言。
現在の社殿は慶安4年(1651年)に家康の孫である徳川家光が改築したものである。


不忍池通りの大鳥居       長い階段              数少なくなった銅灯籠
    

「天海」~1643 天台宗の僧、家康の側近中の側近、日光山を再興し改葬した。
上野の山は、天海の云った江戸城から見て鬼門であり、徳川幕府が恐れていた通り、最後の地となった。


正面                       参道                  五重塔
    

本殿工事中(写真)



次回は、不忍池の弁天堂へ。谷中七福神全て参拝できました。 

七福神その3・日暮里谷中

2013-01-12 | 気まま旅

「幸田露伴」1887-1947下町生まれ、電信技師で北海道へ、後文学に「風流仏」「五重塔」など男性的理想主義特異な作品を次々発表、尾崎紅葉と文壇を二分する。「頼朝」「運命」「一国の首都」など。1937年第一回文化勲章受章。

谷中の五重塔をモデルに、「五重塔」作品の最後の部分。
上人は最後に「江都の住人十兵衛之を造り川越源太郎之を成す」と銘を入れた。この銘は十兵衛に五重塔の棟梁の座を譲り十兵衛に助力した源太への報いである。
五重塔を建てたことと棟梁を譲ったことは同じ比重があると考えられている。
十兵衛は五重塔を建て偉大な棟梁として認知されたにもかかわらず、功績を源太と分けるのを許すとされている。
五重塔を建てても手柄を独り占めにしない十兵衛の姿勢が高く評価されている。
これだけの大きな仕事をやり遂げると、次の仕事への大きなステップがあるはずである。しかし十兵衛には五重塔の建立の後に新しい仕事が残っていない。
十兵衛が世間に称賛されることで仕事が終わっている。十兵衛が報われることを解決とすると、その過程を二度描くことはできない。報われることが終点である。
十兵衛は棟梁になって世間から注目され金も地位も得られる棟梁の座を手に入れた。
しかしそれに驕らない態度が貧しい人間とも金持ちとも区別される個性として高く評価されている。
特に谷中五重塔は、その付近で子供の頃遊んでいたので、思い出と寂しさは、一入である。


谷中五重塔放火心中事件は、1957年早朝に「五重塔」が、心中による放火で 焼失した。 この五重塔は、1908年(明治41年)に...。
    

「天王寺」谷中墓地は、開創時から日蓮宗であり早くから不受不施派に属していた。
不受不施派は江戸幕府により弾圧を受け、日蓮宗15世・日遼の時、1698年 強制的に改宗となり、日蓮宗14世・日饒、日蓮宗15世・日遼が共に八丈島に遠島となる。
廃寺になるのを惜しんだ輪王寺宮公弁法親王が寺の存続を望み、「慶運大僧正」を天台宗1世として迎え、毘沙門天像を本尊とした。

1833年 法華経寺の知泉院の日啓や、その娘で大奥女中であった専行院などが林肥後守・美濃部筑前守・中野領翁らを動かし、感応寺を再び日蓮宗とする運動が起きる。
しかし、輪王寺宮舜仁法親王の働きにより日蓮宗帰宗は中止となり「長耀山感応寺」から「護国山天王寺」へ改号した。

「富くじ」1700年(元禄13年)徳川幕府公認の富突(富くじ)が興行され、目黒不動、湯島天神と共に「江戸の三富」として大いに賑わった。1728年 幕府により富突禁止令がだされるも、興行が許可され続け、1842年 禁令が出されるまで続けられたという。


谷中七福神、毘沙門天・天王寺
    

東叡山輪王寺の住職である「公弁法親王」が、廃寺となるのを惜しみ、 天台宗寺院として存続することを幕府に説いて認められ、 願主は輪王寺宮公弁法親王、
大檀那は5代将軍 徳川綱吉、 台宗第1世に千駄木大保福寺の慶運大僧正、のちの長野善光寺中興 を迎え、本尊も、 当山が寛永寺の北方に位置するところから、
やはり延暦寺の北方にある鞍馬寺が毘沙門天を奉安して国家安穏・仏法護持を祈願しているのにならって、 比叡山飯室谷円乗院より伝教大師親刻とされる
毘沙門天立像を移して新本尊とした。
ちなみに本尊は明治になって現在の阿弥陀如来坐像にかわりましたが、 この毘沙門天は江戸の昔より、「谷中七福神」の1つとして信仰を集めている。

本堂                                       受付
  

幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとなった五重塔は、1908年に天王寺より寄贈されたものであった。1957年に谷中五重塔放火心中事件で焼失するが、都が史跡に指定した。
五重塔跡は児童公園(天王寺公園)内にあり、公園に付随する形で駐在所がある。
「谷中墓地」と称される区域には、都立谷中霊園の他に天王寺墓地と寛永寺墓地も含まれており、徳川慶喜など徳川氏の墓は寛永寺墓地に属する。
また、谷中霊園は桜の名所としても親しまれている。中央園路は通称「さくら通り」ともよばれ園路を覆う桜の枝に花が咲くと、まるで桜のトンネルのようになる。
現在、公園型霊園を理由とした霊園内再開発の途上にあり、公園スペースにするための更地化のため、使用料の払われていない箇所の無縁仏への改葬や
スペースの障害となる大木など木々の伐採が進められている。

著名人の墓が多い、天津 乙女(1908〜1980)宝塚歌劇女優・鳥居 栄子、南摩 羽峯(1822〜1909)国学者、中村 中蔵(1809〜1886)
歌舞伎役者、福知 櫻痴(1841〜1906)、劇作家・福知源一郎、高橋 お傳(1850〜1879)古着屋吉蔵殺し、川上 音二郎等
    

「徳川慶喜」1837-1913 最後の15代将軍 大政奉還を泰上し、徳川幕府の終幕を引いた。長州の水戸孝允は「家康の再生を見るようであった」評している。

    

「長安寺」臨済宗妙心寺派寺院の寺は、大道山と号し、老山和尚禅師(1724年寂)が開山、長安軒として安藤右京亮屋敷内に創建、1712年 大道山長安寺の寺号が認められ、
当地に移転したという。上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場22番札所、谷中七福神の寿老人。

七福神、寿老人・長安寺
    

「板碑」は、開基をさかのぼることおよそ400年も前で、長安寺開基以前、この地には真言宗の寺があったと伝えられ、これらの板碑と何らかの関連があったと思われる。

「狩野芳崖墓」明治初期の日本画家で、1828年 長府藩御用絵師狩野晴皐の長男、長門国長府(下関市)に生まれ、19歳の時江戸に出て、狩野勝川院雅信に師事。
橋本雅邦とともに勝川院門下の龍虎とうたわれた人物。
その代表作「悲母観音図」「不動明王図」(ともに東京藝術大学蔵)は、いずれも重要文化財である。
明治21年、天心・雅邦とともに東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)の創設に尽力したが、開校間近の同年11月、61歳で没した。
妻ヨシとともに眠る。

長安寺本堂前、山号大道山
 

「瑞輪寺」は、日蓮宗・由緒寺院。山号は慈雲山。 天正19年-日本橋馬喰町に創建。 慶長6年-神田に移転した。
慶安2年-谷中の現在地に 明治元年-上野戦争により全山焼失するが以降再建を図る。
平成18年中本山から本山(由緒寺院)に昇格され、 塔頭として浄延院、躰仙院、正行院、久成院、本妙院がある。
江戸十大祖師の一つとして、除厄・安産飯匙の祖師と称され、 江戸時代は身延山久遠寺の江戸触頭であった。

    

次回は、寛永寺・上野へ