syuの日記・気まま旅

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七福神その2・西日暮里

2013-01-10 | 気まま旅

高村光太郎の住んでいた頃の日暮里は・・・千歩の田圃の面影を残していた。
「諏訪様の見晴らしも好きであったが、それよりも諏訪様の裏から山つづきで飛鳥山に通ずる小廸径を行って道灌山の見晴らしに出るのが尚好きであった。
道灌山の下は、一面の水田で遠く筑波山が霞んで見え、春はレンゲソウが田面に紅く咲いた。見渡す限り何もなく唯燃場の煙突が一本立っていた。
崖の直下に飛鳥山の下から来る音無川が流れ、川に沿って一条の往還が王子から根岸お行の松へ通っていた。・・・・」
田園の東京の景色であった。

「浄光寺」
真言宗豊山派寺院は、法輪山法幢院と号し、もと諏方神社の別当寺で、境内からの雪見が有名となって雪見寺と呼ばれた。
境内左手には、1691年に空無上人が勧請した地蔵菩薩像、1809年に再建した地蔵菩薩立像がある。
荒川辺八十八ヶ所霊場8番札所、豊島八十八ヶ所霊場5番札所の寺。

    

「七福神 恵比寿の青雲寺(花見寺)」は、富士見坂を下って修性院を右折するとすぐ青雲寺の山門。
青雲寺は、1751-64年 下総佐倉藩主堀田正亮により、荒廃していた入間郡浄居寺という寺を引移して再興。山号は浄居山、寺号は堀田性亮の法号青雲院にちなむと云う。
青雲寺の恵比寿は有名な「谷中七福神」の一つ。

江戸時代には隣接する修性院とともに諏訪台地と一体になった大庭園が切り開かれ「花見寺」と称され、江戸市民の憩いの場所、文人簿墨客の遊覧の地として有名。
現在も、先代住職が諏訪台の崖沿いにツツジと八重桜、現住職が緋垂れ桜を植え伝統を守っている。
美しい庭と草花は心を和ませてくれます。境内には南総里見八犬伝の作者として有名な「滝沢馬琴の筆塚」も建っています。

    

「谷中七福神の布袋尊修性院」は、日ぐらしの布袋」ともよばれる寺。
谷中七福神めぐりは、江戸市中で最も古い歴史をもち、年初めにあたって江戸市民が行う年中行事の一つであった。
江戸時代の中期ごろから、このあたり一帯は俗に「ひぐらしの里」とよばれ、江戸近郊の行楽地として賑わった所。
ことに修性院・妙隆寺(現、身延山関東別院玉川寺)・青雲寺は、境内に多数の花樹を植えて、「花見寺」の名にふさわしい庭園をつくり、四季折々の草花を
楽しむことができたという。境内には、江戸時代の儒者・日尾荊山衣サク碑がある。

    

荒川区西日暮里、「日暮小学区」は、1880年、谷中天王寺門前の瑞輪寺境内にあった寺子屋が、ここ、現諏訪台ひろば館に分離移転したという。 
その後、公立小学校設置の必要性に迫られていた日暮里村・谷中本村・谷中村の三村が、東京府知事に設置を嘆願。

1885年に認可され、公立日暮小学校が誕生した。
開校当時、児童数36名、教員2名・1学級で、校舎は萱葺15坪(約50平方メートル)一棟の規模であったという。
大正2年、校名を第一日暮里尋常高等小学校と改称。昭和11年、日暮里9丁目、旧星雲寺内(現在の区立第一日暮里小学校)に新築移転した。

右に富士山、左に筑波山望めた、諏訪台通り、
    

「養福寺」
真言宗豊山派寺院の養福寺は、補陀落山観音院と号し、湯島円満寺の木食義高(享保3年没)によって中興された寺。
荒川辺八十八ヶ所霊場7番、豊島八十八ヶ所霊場73番、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場27番、東京三十三観音霊場28番札所。

「下町長屋」は、日暮里界隈は、今でも、昔ながらの長屋がひっそりと軒を連ねている。
長屋とは、集合住宅のひとつで江戸時代には町人や職人の住居として、親しまれてきました。
今のアパートやマンションとは異なり、玄関が道路(路地)に面していての共同住宅。年々少なくなっている。
                                       江戸の長屋文化が
    

「啓運寺」法華宗本門流の寺は、法要山と号し、円住院日立聖人が開山。
1644年 下谷1丁目に創建、元禄11年下谷2丁目へ移転したとい古寺。明治18年当地へ移転した。

JR西日暮里駅脇にある、急峻な坂道、間の坂を、登りきると、そこが諏訪台と呼ばれる高台。
西日暮里~日暮里に至る、馬の背のような尾根道または、分水嶺のような場所を、諏方神社があることから、諏訪台と呼ぶ。
それに対して、道灌山通りで分断された、開成学園側の後背地、田端方面への連なりを含めて、高台一帯の総称は、江戸時代~明治期の景勝地として、道灌山と呼んだ、

江戸初期は、上野の山を、下町埋め立て開拓で削られたようだ。
    

「経王寺」は、1655年豪農が、堂宇を寄進建立した事に始まり、本堂隣の大黒堂には、日蓮作と伝えられる「大黒天」が、鎮守として祀られている。 
1868年の「上野戦争の時」、敗走した彰義隊を匿ったとして、門外から新政府軍の銃撃を受け、山門の扉には今もその銃弾痕が見られる。
戦いは、上野山の谷中天王寺等に駐屯していた彰義隊士が、銃撃戦で新政府軍に追い詰められ、最後に刀を用いた切り合いとなったいう。

  

次回は、七福神その3、天王寺・谷中墓地方面へ。

谷中七福神・北区田端から

2013-01-08 | 気まま旅

2013年、スタートは、「谷中七福神」にしました。

弁財天 不忍池弁天堂 (上野公園2)。大黒天 護国院 (上野公園10-18)。毘沙門天 天王寺 (谷中7-14-8)。
寿老人 長安寺(谷中5-2-22)布袋尊 修性寺 (西日暮里3-7-12)。恵比須 青雲寺 (西日暮里3-6-4)。福禄寿 東覚寺 (田端2-7-3)。
弁天堂は、寛永年間の始め、常陸下館城主水谷伊勢守勝隆が不忍池に中島を築き、弁天堂を建立した。
現在の堂は昭和33年の再建、不忍池由来碑、ブグ供養碑等多くの碑が有る。
又、天王寺は、谷中寺町第一の寺院、江戸時代は富くじ興行で知られていた。幸田露伴の「五重塔」と、上野彰義隊戦争で多くの堂宇を消失し、その面影だけで残念である。

「江戸風俗総まくり」に「谷中日暮里に春のあした七福神詣という事ありて今の天王寺の毘沙門天、護国院の大黒天、池之端の弁天、笠森脇の寿老人、
田畑の恵比寿、西行庵の福禄寿、日暮里の布袋なり」とあります。
吉祥天などの福神まいりは古くからあり、参拝人で賑わう門前には歓楽街もあり、江戸の参拝は、行楽でもあった。
谷中七福神は今の組み合わせが、江戸時代から限られていたわけではなく、大黒天、恵比寿は神田明神、清水観音堂、大黒天は経王寺、毘沙門天は谷中本通寺、
弁財天は北町の養泉寺とする事もあった。歴史では最も古い七福神巡りといえる。

JR田端駅の「福禄寿・東覚寺」から、

                       左右仁王の石像
  

田端切通しにそって台地へ上る急坂で、昔は田端八幡神社の別当寺東覚寺墓地への参道で「東京府村誌」に「長さ二十間、広さ一間三尺」と記されている。
寺の前には2基の大きな仁王の石像があり、病のある部分に赤紙を貼ると、病がなおると信仰されており、谷中七福神の1つ、福禄寿も祀ってある。
蜀山人の狂歌「むらすずめさはくち声もももこえもつるの林の鶴の一声」の碑がある。


赤紙の仁王尊
    

昔は田畑ばかりだった「田端」、東覚寺は、「西国二十九番丹後松尾寺移 東覚寺 九品仏 仁王像 八幡宮 二番」とある。
赤紙仁王で有名なこのお寺。山門前のお堂に二体の仁王像があり、赤い紙で埋め尽くされてその姿はなんだかわからない。

東覚寺の山門                     薬師如来立像
  

白龍山寿命院「東覚寺」が正式名称、真言宗豊山派の寺。 お寺には「山号」というものがついて、これはもともと山に寺があったからでは?。入り口は「山門」。

弘法大師立像              釈迦坐像                  本堂
    

東覚寺と隣接の「田端八幡神社」は、1189年 源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋するときに鶴岡八幡宮を勧請して創建されと伝えられ、江戸期には、田端村の鎮守。
祭神・品陀和気命、境内社に、稲荷社、富士浅間社、三峰社。

東覚寺隣接の八幡神社鳥居                  拝殿
  

「田端文士村記念館」
田端は、明治の中頃、雑木林や田畑の広がる閑静な農村だった。しかし、上野に東京美術学校が開校されると、次第に若い芸術家が住むようになり、
明治33年に小杉放庵(画家)が下宿し、36年に板谷波山(陶芸家)が田端に窯を築くと、その縁もあって、吉田三郎(彫塑家)、香取秀真(鋳金家)、
山本鼎(画家・版画家)らが次々と田端に移り住み、画家を中心に“ポプラ倶楽部”という社交の場も作られ、まさに<芸術家村>となった。
大正3年、芥川龍之介(小説家)が、5年室生犀星(詩人・小説家)が転居し、引き続いて、萩原朔太郎(詩人)、菊池寛(小説家)、堀辰雄(小説家)、
佐多稲子(小説家)らも田端に集まった。
こうして大正末から昭和にかけての田端は<文士村>としての一面を持つようにもなった,,,,,,.。

JR田端駅前の館内は、関係資料等を無料で展示公開している。月曜休館

記念館前                     行事ポスター
    

芥川龍之介 (明治25年~昭和2年)小説家
東京・京橋出身。大正3年、一家で田端に新築転入。
東京帝大時代、久米正雄、菊池寛、山本有三らと「新思潮」(第3,4次)を創刊。夏目漱石の木曜会に出席して、漱石門下となる。
「羅生門」「鼻」「手巾」等を次々と発表、一躍文壇の寵児となる。一ノ宮、鎌倉、横須賀、鵠沼にも住んだが、大正8年、田端に戻り本格的に文筆活動を展開。
また、瀧井孝作(折柴)、室生犀星らと俳句もつくった。たぐいまれな才気と下町人特有の世話好きな性格は多くの人々を惹き付け、田端を「文士村」とする。
昭和2年7月「唯、ぼんやりとした不安」という言葉を遺して自らの命を絶った。


芥川龍之介跡地と碑 
    

「不動坂」は、途中から下側は、急な階段である。坂下を左折すると、田端駅の南口で、山手線と京浜東北線がさらに下側を走っている。
坂上に不動尊の石像があったことから不動坂とよばれ、もとは東の方の田端新町へ下る長い坂であったが、線路ができたため分断され、
坂上側で一部が石段坂となって残った。
与楽寺の寺領はいまの田端駅を含む広大な地域、坂上にあった不動尊も同寺の仏像の一つであったという。

「ひぐらし坂」は、荒川区西日暮里四丁目にある、道灌山通りに面する開成高校の正門脇から、途中左方に曲がり、開成学園グラウンド脇に上る。
坂のある台地は道灌山と呼ばれる高台。この坂は道路を通すために道灌山を削り、その道灌山通りと田端方面を接続させるために作られた
と云う。

  

続き、谷中七福神その2へ。

葉山 森戸神社 淨楽寺

2013-01-06 | 気まま旅

神奈川県「葉山」は、県南東、三浦半島北西部、葉山は「端山」とも書かれている。東海道三浦半島東部へ通じる甲虫の要地であった。
皇室の一色海岸に葉山御用邸が、1894年に建ち、その後、東京からの別荘が進出し、湘南国際センター、宅地開発が続き、鉄道、高速道と
人口流入している。
海岸は、遠浅砂浜、磯浜と平易化に富んでいる。葉山マリーナは、ヨット競技の発祥地でもある。
まず、森戸海岸近くの焼きたて食パンを買う。ここの食パンが好き。値段も意外とリーズナブルです。



葉山森戸神社

今から約840年前の永暦元年(1160年)、平治の乱に敗れ伊豆に流された源頼朝は、三嶋明神(三嶋大社)を深く信仰し源氏の再興を祈願しました。
治承4年(1180年)、そのご加護により旗挙げに成功し天下を治めた頼朝は、鎌倉に拠るとすぐさま信仰する三嶋明神の御分霊を、
鎌倉に近いこの葉山の聖地に歓請し、長く謝恩の誠をささげたと伝えられている。

「吾妻鏡」によれば、歴代将軍自らこの地を訪れ、流鏑馬、笠懸、相撲などの武時を行ったといいます。また、災厄が生じると加持祈祷が
行われ、七瀬祓の霊所としても重要な地であったとされています。

源氏はもとより鎌倉要人に崇敬され、特に三浦党の祈願所でもあった。また、北条、足利諸氏の崇敬も篤く、天正19年(1591年)には徳川家康より
社領七石が寄進された。
延宝2年(1674年)に徳川光圀、明治25年(1892年)には英照皇太后陛下のご参拝を仰ぎました。
現在も葉山の総鎮守として、町内はもとより近郷近在より多くの参拝者が訪れています。




昔、少年の頃友人の別荘があり、何日滞在したのか、毎日のようにこの海岸で泳いで遊んだことが思い出される。境内がその頃のままだ。


葉山の御用邸




淨楽寺
  

「前島 密」は、1835-1919、日本の官僚、政治家。日本の近代郵便制度の創設者の一人で1円切手の肖像で知られる。
「郵便」や「切手」、「葉書」という名称を定めた。その功績から「郵便制度の父」と呼ばれる。
新潟県上越市の豪農の二男として生まれ、早稲田大学校長、関西鉄道社長、議員などを務め、1919年、前島は晩年を別荘「如々山荘」で過ごし、
別荘は三浦半島西海岸にある浄土宗寺院、浄楽寺の境内にあった。前島夫妻の墓所も浄楽寺境内にある。
郵政民営化を断行した小泉純一郎の選挙区内である。







三浦半島一回りはここで終わります。

衣笠山城跡 大善寺

2013-01-04 | 気まま旅
三浦半島の続きです。

衣笠城主 三浦義明 1092-1180 桓武天皇の子孫、相模国三浦郡、大介と称していた。頼朝の挙兵の際、長子の三浦義純らを参加させたが、大雨の為渡河できず、
「石橋山の戦い」で頼朝が敗れたことを知り途中で「衣笠城」に引き帰している。
当時の平家方は、畠山重忠、河越重頼、江戸重長等の軍勢は、衣笠城を攻められ、落城必至、義明は、一族を房総へ脱出させ「頼朝」に従わせ、一人踏みとどまり
最期を遂げている。一族老命まで頼朝に捧げると語ったという。源頼朝は、三浦義明の為、仏殿を建てたという。

三浦義村 ~1239 父は義澄に従って各地転戦、頼朝死後、梶原景時追放事件では、結城氏中心人物で、以来北条時政、子義時に協力した。
源義朝暗殺事件の黒幕とも言われている。
千葉胤綱を義村は、「下総の犬」と罵し、胤綱は「三浦の犬は、友を食う」と云い返したという。子、泰村の時で、三浦一族は滅亡している。

衣笠城大善寺付近の畑に早咲きの桜






鎌倉幕府創設前夜の治承四年、伊豆に挙兵した源頼朝に呼応して衣笠城に兵を挙げた三浦大介義明。畠山重忠をはじめとする軍勢に攻め寄せられ、
老齢の義明は一族を衣笠城から落とし、ひとりこの城に残り壮烈な自刃を遂げる。享年八十九歳。
逃れた嫡子の義澄は江戸湾で北条時政軍と合流、安房に逃れた頼朝に合流し、上総介広常、千葉介常胤らとともに鎌倉幕府創設に多大な寄与をした。
義明は頼朝に大きな期待をかけながらも、その天下を眼にすることなく、そして「武家による、武家のための政権」の世を見ることなく死んだ。
三浦氏は頼朝の政権下で重く用いられるが、やがて繰り返し悲劇が訪れる。幕府内部の権力争いが表面化した和田義盛の乱では同族が血で血を洗う争いとなり、
「三浦が者は友をも喰らふ」と嘲笑され、「宝治合戦」で執権北条時頼の専制強化のために一族の殆どが滅亡、三浦の家名を嗣いだ庶流の佐原氏も
やがて押し寄せる戦国の波に翻弄されて、相模新井城で北条早雲に攻め滅ぼされる。そんな三浦一族の栄光と苦難の道の出発点がここ、衣笠城です。

城跡は地勢的には三浦半島の内陸部に位置する標高130mほどの丘陵。周囲の谷津の湿地、河川を天然の外堀とした山城だが、かつては久里浜周辺の海が深く
入り込み、海とも繋がりを持った城であったとともに、馬蹄形の丘陵全体を取り込んだ、規模の大きい城郭でもあったよう。
この鎌倉期前後の山城は、城といってもとくに大きな普請を行うわけではなく、こうした天然の要害を利用しただけのものが多かったようで、
「城」という概念も、施設や建物だけではなく、天嶮の山に籠る城というものだった。














大善寺
    







 

初詣 熊野神社

2013-01-02 | 諸々日記
明けましておめでとうございます
いつもご訪問いただきありがとうございます。
今年も元気に歩きたいと思います、どうぞよろしくお願いいたします。

例年のように元旦の朝「尾崎熊野神社」に初詣に出かけました。
善福寺川の散策路を30分ほど歩くと、杉並区成田西にあるこの神社につきます。ここは駅からも離れていて初詣に見えるのは
近所の方々が多く、甘酒がのめて、ゆっくりできます。





尾崎熊野神社の創建年代は不詳、大宮八幡宮、同村白山神社とほぼ同年代の創建と言われ、安藤本家文書、宝昌寺境内出土の板碑によると、
鎌倉時代末期に鎌倉から移住してきた武士が、代々崇敬する紀州の熊野権現をこの地へ勧請したのに基くと伝えられているという。
明治維新後、大宮八幡宮の神職が兼務するところとなり、明治四十一年、付近に散在していた稲荷社・猿田彦社・御嶽社を境内に合祀した。







御神木のクロマツ
 

矢と絵馬を頂いて帰ります。今日は暖かくとても良いお正月でした。