生姜ちくわのぶらぶら山日記

趣味の登山を中心としたブログです。2014年11月より日本百名山登山開始、2018年9月23日全座登頂。

2013年4月28日 奥州街道徒歩の旅5(笹川宿~南杉田宿)

2014年08月16日 | 奥州街道徒歩の旅
この日は、須賀川駅から杉田駅まで30キロ程度歩いた。
歩いた宿場は、笹川宿、日出山宿、小原田宿、郡山宿、福原宿、日和田宿、高倉宿、本宮宿、南杉田宿。

前日と同じくこの日も風が大変強くて歩きにくかった。
道中には、芭蕉の奥の細道に登場する歌枕の安積山や松並木、一里塚、道標、百姓一揆の碑等があった。

須賀川市内の森宿一里塚は盛土が失われ壇のみが残り馬頭観音碑等が雑然と祀られていた。
説明板がなかったら一里塚と知らずに通過したと思う。

郡山宿ではアーケードのある商店街の通路に本陣跡の説明板が埋め込まれていた。

安積山は小高い丘で現在は公園になっている。
松や桜やつつじが植えられていて、ちょうど八重桜が見ごろだった。
丘の上で休憩した。
木に覆われ見晴らしは良くなかった。
安積山には奥の細道で登場する「花かつみ(ヒメシャガ)」が説明板とともにあった。
花は咲いていなかった。
芭蕉が訪れた場所と思うと感慨深い。

松並木は松がぽつぽつと点在していた。
松並木があるだけで「街道歩きをしている」気分が高まる。

本宮宿には南町本陣跡の説明板が、北町本陣跡には黒松と「明治天皇本宮行在所」の記念碑があった。
明治天皇の行幸にまつわる記念碑は奥州街道に限らず五街道の他の街道でも多数見かけるおなじみの存在だ。
今では忘れられた道で自分一人しか歩いていないような山の中でも現れることがあるので驚く。
記念碑を見るたびに「今ほど交通が発達していない時代、明治天皇の行幸の範囲の広さは驚異的」と思う。


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2013年4月27日奥州街道徒歩の旅4(根田宿~須賀川宿)

2014年08月10日 | 奥州街道徒歩の旅
東北地方は寒さが厳しいので、春になってから徒歩の旅を再開した。

4回目は白河の女石追分から須賀川駅まで26キロ程度歩いた。
歩いた宿場は根田宿、小田川宿、太田川宿、踏瀬宿、大和久宿、新田宿、矢吹宿、久来石宿、笠石宿、須賀川宿。

福島では春の到来が東京より遅いので4月下旬にも関わらず八重桜やしだれ桜が咲いていた。
昼間は春らしい陽気だったが、東北とあって夜はダウンジャケットを着込むぐらいに冷え込んだ。

この日は風が大変強く歩くのに難儀した。
奥州街道は東海道と違って案内表示が皆無に近いので地図なしでは歩けない。

道中、「除染作業中」「地震で壊れた道路を直しています」といった看板を見かけた。
東日本大震災の爪痕は消えない・・・。

一日で10か所の宿場を通過したが宿場の面影が感じられる場所はなし。
五本松の松並木、矢吹の常夜灯、須賀川の一里塚が街道の名残を残していた。

かつて芭蕉が逗留した須賀川宿では、芭蕉や奥の細道に関する説明板や芭蕉や曾良等の句が書かれた雪洞等があった。


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2013年1月3日 奥州街道徒歩の旅3(鍋掛宿~白河宿)

2014年04月30日 | 奥州街道徒歩の旅
奥州街道徒歩の旅3日目。

鍋掛十文字バス停より、幕府の道中奉行が管轄した奥州街道の終点の女石追分まで30キロ強歩いた。
黒磯駅から鍋掛十文字を通る始発バスに乗るため前日は宇都宮に宿泊した。
歩いた宿場は、鍋掛宿、越堀宿、芦野宿、白坂宿、白河宿。
青空の見える好天だったが、福島県に近いためか雪が常にちらつきとても寒かった。


越堀宿の芦野宿の間には復元された寺子一里塚と当時の姿で残っている夫婦石一里塚があった。
芦野宿には、「芦野宿」と書かれたのぼりや当時の屋号を掲げた石灯篭、明治天皇行在所記念碑があった。
芦野宿を抜け、謡曲の題材に取り上げられ、芭蕉や蕪村も訪れた遊行柳に寄り道した。

白坂宿に向かう途中、板屋一里塚が両側に残っていた。
近年坂の傾斜を緩くする工事で坂が削られたため一里塚がはるかに高い場所にあった。

国道294号線沿いには関東最北端の泉田一里塚が片側だけ残っていた。
一里塚のそばのベンチでお昼休憩とした。
鍋掛宿から白坂宿を越えるまでは、食事できる場所や食べ物を購入できる場所がほとんどなかった。
雪がちらつく中、冷たい水と持参したパンをかじった。
ううっ、寒い・・・。


国道294号線をひたすら歩くと栃木県と福島県の県境、江戸時代では下野国と陸奥国の国境にたどり着いた。
県境には境の明神があった。
県境を挟んで栃木県側には玉津島神社が、福島県側には住吉神社が鎮座。
両方にお参りした。
いよいよみちのく突入。


白坂宿には、戊辰戦争の白河口の戦いで亡くなった大垣藩士戦士之碑があった。
白河宿に至るまでには長州藩士や会津藩士の墓、終点の女石追分のそばには仙台藩士の戦没碑や墓、と戊辰戦争関係の遺跡があった。
今の静かなたたずまいからは、かつて戦場だったことが感じられない。

白河宿に近くなると江戸時代や明治時代の建物が複数残っていた。
建物には「歴史的風致形成建造物」の説明板があった。
古い建物が残っているのはうれしい。

白河宿の本陣跡には説明板のみあった。
脇本陣は説明板によると、通行人が立ち入りができない場所に当時の座敷蔵が残っているとのことだった。


白河宿を抜け、阿武隈川を越え、歩道側に雪の積もった坂道をこわごわと降りると会津街道との分岐点の女石追分に到着。
幕府の道中奉行が管轄したのはここまでで、この先は各藩が管轄した。
追分には標識や説明板もなかった。
ここで歩くのをやめる人もいることだしその手のものが欲しいところ。

最初は女石追分まで歩いたら奥州街道歩きをやめるつもりだったが、すっかり心変わりし終点の三厩を目指すことにした。
冬の街道歩きはつらいので春に再開することに決めた。


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その1
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その2
http://blog.goo.ne.jp/photo/293753/tn


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その1
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その2
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2012年12月23日 奥州街道徒歩の旅2(喜連川宿~大田原宿)

2013年08月27日 | 奥州街道徒歩の旅
奥州街道徒歩の旅2日目は、喜連川本町バス停から鍋掛十文字まで30キロ程度歩いた後、街道から外れ黒磯駅駅まで追加で4キロ程度歩いた。
歩いた宿場は、喜連川宿、佐久山宿、大田原宿。


喜連川本町バス停下車後、街道を外れて江戸時代に造られた用水路の御用堀を見に行った。
御用堀のある一角は、昔の面影を残した落ち着いたたたずまいだった。

宿内には、大正時代の旧喜連川興業銀行や明治時代の旧喜連川郵便局の建物、古民家が残っていた。
本陣跡は、街の駅本陣という観光施設で、建物が大正時代の旧喜連川警察署だった。
街道から復元された喜連川城の大手門が見えた。


大田原市に入ると、源平の戦いの一つ、屋島の戦いで平家の扇の的を弓で射落とした那須与一の出身地とあって、ところどころ「那須与一の里」「与一の里」と書かれた表示を見かけた。
マンホールのふたには馬に乗って海に入り、弓を弾く那須与一が描かれていた。

佐久山宿では、宿場の名残となるものがなく「旧奥州道中 佐久山宿下町」と刻んだ石碑が宿場だったことを示していた。
「運用膏」と書かれた古い吊るし看板を下げた、かつて薬屋だったと思われる民家もあった。

大田原宿では「旧奥州道中」の石碑がところどころに設置されていた。
宿場の中心部にある金灯籠ポケット公園には、江戸時代に建てられ戦時中に供出し姿を消した金灯籠が、有志により再現されていた。
公園には、奥の細道の黒羽に向かう途中の描写を刻んだ石碑も置かれていた。
かつて芭蕉が歩いた道を歩んでいると思うと感慨深かった。


大田原宿から鍋掛十文字までの街道沿いには、街道の名残を残すものとして片側の塚が残った中田原一里塚、奥州街道と棚倉街道の追分にあった道標、道路拡張工事等により片側の塚のみ移動された鍋掛一里塚があった。

鍋掛に向かう途中の田園地帯を進んでいるあたりで徐々に日が傾いてきた。
八幡太郎義家のゆかりの葛籠石、愛馬蹄跡を残す石がある樋沢神社に到着したころにはあたりは薄暗かった。
このあたりの街道沿いは民家が少ないので、日が暮れてから一人で歩くのは心細くなる。

鍋掛十文字には黒磯駅行きのバス停があったが、16時台で最終バスが出たので駅まで歩いた。


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2012年12月16日 奥州街道徒歩の旅1(宇都宮追分~喜連川宿)

2013年08月25日 | 奥州街道徒歩の旅
いよいよ五街道で唯一未踏破の奥州街道に挑戦。

1日目は宇都宮にある日光街道との追分から喜連川本町バス亭まで25キロ程度歩いた。
歩いた宿場は、白沢宿、氏家宿、喜連川宿。

始発電車に乗り宇都宮駅で下車、バスで追分まで移動した。
早朝のせいか人通りは少なかった。
色あせた追分の表示板の写真を撮った後、歩き始めた。

商店街を抜け、幸橋を渡ると街道の向こう側に国重要文化財の旧篠原家住宅が現れた。
以前建物内を見学したことを思い出した。


白沢宿は、静かで落ち着いた街並みだった。
街道の両脇に用水が流れ、ところどころで水車が回り、民家には旧屋号が掲げられていた。
かつての本陣は住宅になっていた。
子孫の方がお住まいのようだ。
宿場には江戸時代の公衆トイレ跡があった。
とても珍しかった。


白沢宿を出た後、道を間違え30分程度時間を無駄にした。


氏家宿に向かう途中、勝山公園で昼食をとった。
公園は、もともとは鎌倉時代末期に築かれ慶長2年(1597)に廃城した勝山城があった場所。
崖の上の公園からは鬼怒川や日光連山がよく見えた。

氏家宿を抜けると、江戸時代・享保8年(1723)の五十里洪水の跡を残す門や、明治時代に建てられ明治天皇の休憩所となった瀧澤家住宅があった。


国道293号線から分かれ旧道に入るころには空がオレンジ色に染まり太陽が沈みつつあった。
旧道の途中にある早乙女温泉のそばに差し掛かると、強い硫黄臭が漂い、黄色の温泉が流れていた。
後で調べたところ、早乙女温泉は源泉かけ流しの温泉で、泉質がよく、温泉好きの間では大変評判がよかった。
帰りの交通の便が良ければ入浴したかった。

先に進むと奥州街道古道が現れた。
舗装道だが往時の面影を残した道だった。
薄暗くなっていたので一人で歩くのは少し心細かった。


氏家宿に着いたころはすっかり日が落ちていた。
喜連川本町のバス停の近くのラーメン屋でラーメンを食べて氏家駅行きの最終バスを待った。

地方ではバスの本数が少ないことが多く、1本逃してしまうと大変なことになる。
最終バスでは私ともう一人の乗客のみ、とさみしい限り。
この状態では、バス路線を維持していくのはとても難しい・・・。


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その1
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その2
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その2
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