生姜ちくわのぶらぶら山日記

趣味の登山を中心としたブログです。2014年11月より日本百名山登山開始、2018年9月23日全座登頂。

2010年8月22日 新座散歩イベント主催(その3)

2010年08月26日 | 都外散歩イベント主催
(その2はこちら


■本多緑道
野火止用水沿いに続く桜の木が植えられた緑道。昔ながらの版築の工法で用水が築かれているのを見ることができる。






■本多の森お花畑
春には菜の花が、夏にはひまわりが咲く花畑。


7月下旬のお花畑。




当日のお花畑。ひまわりの花びらは全て落ちて真っ黒。このような状態のひまわり畑を見たことがなかったので衝撃のあまり笑ってしまった。


■西堀史跡公園
野火止用水が分岐する場所、左側は野火止用水の本流が、右側は支流の平林寺堀が流れる。平林寺堀の右歩道下は、かつての支流、陣屋堀の跡。




本流と平林寺掘が分岐する。


■新座市歴史民俗資料館
昭和56年(1981)に開館、埼玉県下で2番目に古い歴史をもつ資料館。野火止用水関連の資料や昭和30年代まで新座の中心産業であった農業に関連した生産用品や生活用品、郷土芸能の武州里神楽や中野の獅子舞の展示等がある。






資料館の庭にあった郵便ポスト。恥ずかしそうに茂みに隠れているように見える。


■おまけ


新座駅改札内にあった鉄腕アトムの看板。鉄腕アトムのスタジオが新座市にあった関係でアトムは新座市の特別市民。


平林寺、睡足軒の森の前の道路にあった標識。緑が多いせいか狸が出没するらしい。


2010年8月22日 新座散歩イベント主催(その2)

2010年08月25日 | 都外散歩イベント主催
(その1はこちら


■平林寺
臨済宗妙心寺派の寺院で松平伊豆守信綱をはじめとする大河内松平家歴代の菩提寺。南北朝時代の永和元年(1375)、鎌倉建長寺の住持の石室善玖禅師を開山として岩槻(現在のさいたま市岩槻区)に建立。天正18年(1590)豊臣秀吉の北条攻めにより岩槻城とともに焼失したが、天正20年(1592)に徳川家康が鉄山宗鈍禅師を迎えて再興した。江戸時代・寛文3年(1663)に川越城主の松平信綱の遺志を継いだ、子の輝綱によって野火止の地に移された。


総門。茅葺の切妻造の四脚門。京都詩仙堂の石川丈山揮毫の「金鳳山」の扁額を掲げる。


山門。寛文3年(1663)建立の茅葺の重層入母屋造。楼上には室町時代の釈迦如来像と江戸時代の文殊・普賢菩薩像、南北朝時代の十八羅漢を安置。「凌霄閣」の扁額は石川丈山の筆。


仏殿。寛文3年(1663)建立の単層入母屋造。南北朝時代の釈迦如来像と室町時代の迦葉・阿難尊者像を祀る。


中門。茅葺の切妻造の四脚門。


本堂。明治13年(1880)再建。釈迦如来像、達磨大師と歴代住職の霊牌を祀る。


平林寺堀。野火止用水の支流の一つ。




島原の乱供養塔。文久2年(1861)建立。松平信綱は寛永14年(1637)に肥後国天草で起こった島原の乱を鎮定した。


松永安左エ門の墓。明治8年(1875)~昭和46年(1971)。松永は「日本電力の王」と称された実業家で、戦前に複数の電力会社を経営、戦後には周囲の抵抗に遭いながらも国家管理の下に置かれていた電気事業を民営化し、現在の民営9電力体制を築いた。茶道にも造詣の深く近代の三茶人(益田鈍翁、原三渓、松永耳庵)と称された。傾倒する石室善玖の開山である平林寺に葬られたが、本人の遺志により法号はなく葬儀・法要は一切行われず。


見性院の墓。武田信玄の次女で、武田家重臣の穴山梅雪の正室。梅雪の死後、徳川家康の庇護を受け、会津藩松平家の祖となる保科正之を7歳になるまで養育した。元和8年(1622)没。


増田長盛の墓。豊臣五奉行の一人で大和郡山城主。朝鮮出兵時の兵站や検地で手腕を発揮。元和元年(1615)没。


安松金右衛門の墓。松平信綱の家臣。測量技術等に玉川上水の開削に携わった後、信綱の命により野火止用水の開削工事を担当した。墓は新宿区の大宗寺にあったが、昭和10年(1935)に当寺の松平家累代の墓地の脇に移された。


松平信綱の墓。松平信綱(慶長元年(1596)~寛文2年(1662))は、三代将軍家光、四代家綱の信頼の老中として活躍し、「知恵伊豆」と称された。寛永14年(1637)の島原の乱を鎮定した功績で川越藩主となると、城下町の整備や新河岸川を利用した舟運を起こし江戸との物流の確立、川越街道の整備などを行い「小江戸」と称される商人の町としての基礎を築いた。また玉川上水や野火止用水の開削を行うなど数多くの功績を残した。


平林寺境内林。国指定天然記念物。境内林は約43ヘクタールに及び、東京近郊の武蔵野の雑木林が減少の一途をたどっている現在、面積も広く自然の残されたものとしては大変貴重。アカマツ林やコナラ・クヌギ林などからなり、林床はクマザサにおおわれる。アカハラ・ルリビタキ・アオゲラ・カケスなど、鳥類約60種が越冬・繁殖・渡りの中継地等としてここに生息し、オオムラサキのような貴重な蝶もここに生息する。






野火止塚(九十九塚)。古より詩歌の題材となった高さ約6メートルの円形の塚で、焼畑農耕または火を使った狩猟での野火の見張台として使われたとの説がある。


業平塚。在原業平が東下りの際に駒を止めて休んだと伝えられる塚。


修行僧の日常生活の時間割。朝3時に起床、夜10時に寝るまでひたすら修行に励む。


2010年8月22日 新座散歩イベント主催(その1)

2010年08月24日 | 都外散歩イベント主催
この日の行き先は埼玉県新座市で、江戸時代に開削された野火止用水沿いに整備された遊歩道をのんびり歩き、武蔵野の里山の風情を昔のままにとどめる国指定天然記念物の平林寺境内林を散策した。この日も暑かったが、木陰が多く土の上を歩くことが多かったので普段よりも楽な感じがした。

参加者は管理人も含め10名で、男性が1名、女性が9名(参加者の皆様、ありがとうございました)。初めての方は2名。今回のコースは女性好みのコースとは到底思えないのだが、女性の参加が非常に多かったのが不思議だ。

今回は割合緑の多いコースだった。東京近郊にあれだけの雑木林が残っているのは貴重だ。いつまでも残っていてほしいと思う。野火止用水沿いの遊歩道は早朝に歩いたら気持ちがよさそうだ。個人的には紅葉の時期に平林寺に行ってみたい。

本多の森お花畑のひまわりは花びらがほとんどなくなり黒こげ状態で実に残念なことになっていた。ひまわりまつり開催時期にこの状態というのは、今年は開花が早かったのかもしれない。開花時期を予想するのは難しい。


【コース】
新座駅→野火止用水→睡足軒の森→平林寺→本多緑道→本多の森お花畑→西堀史跡公園→新座市歴史民俗資料館→道場バス停でバス乗車→朝霞台駅で解散


(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)


■野火止用水

江戸時代・承応4年(1665)に当時川越藩主であった松平伊豆守信綱が領地の野火止台地開拓のため、生活用水の確保を目的として開削した用水路。用水路は全長およそ25キロメートルで、東京都小平市で玉川上水から分水、野火止台地を経て、埼玉県志木市の新河岸川(志木市)に至る。

承応2年~3年に幕府の老中職であった信綱が玉川上水を完成させた功績により、幕府より玉川上水から三割の分水許可を得、家臣の安松金右衛門に命じて工事を行わせ、約40日間で完成させた。後に平林寺堀、陣屋堀、菅沢・北野堀の三支流が作られた。

野火止用水は昭和38年(1963)ごろまで付近の人々の生活用水として利用されていたが、急激な都市化の影響により、流れが汚染され荒れてしまったが、昭和49年(1974)度より埼玉県・東京都・新座市が野火止用水の復元・清流復活事業に着手し、本流と平林寺堀の一部に清流を復活させた。



野火止用水の本流。


用水沿いは遊歩道になっている。


支流の平林寺掘。


■睡足軒の森
国指定天然記念物の平林寺境内林の一部で、武蔵野の里山の風情が残る森。

江戸時代には野火止周辺は上野国高崎藩・松平右京大夫家の飛領地で、ここに陣屋(屋敷)があった。近代になり「日本電力の王」と称され実業界で活躍する傍ら、茶道にも造詣の深く近代の三茶人(益田鈍翁、原三渓、松永耳庵)と称された松永安左エ門(耳庵)が土地を購入し、屋敷地とした。昭和13年(1938)に、松永は横浜三渓園で有名な原富太郎(三渓)の世話で、飛騨高山付近の田舎家を敷地内に移築し、親しい友人を招いて茶を楽しんだ。

昭和47年(1970)に田舎家と敷地が菩提寺の平林寺に譲渡され、田舎家を寮舎「睡足軒」として利用していたが平成14年(2002)に新座市に無償譲渡された。






雑木林。


睡足軒。茶道、華道、俳句など伝統文化活動に利用される。


睡足軒の内部。


紅葉亭。


紅葉亭の内部。時折座禅教室が行われる。


2010年8月1日 東海道散歩3(川崎宿)イベント主催(その3)

2010年08月04日 | 東海道徒歩の旅
(その2はこちら


■問屋場跡
公用で旅をする人達の便をはかるため人足と伝馬を常備し次の宿場まで提供した継立業務、幕府の荷物や手紙を次の宿場に送る飛脚業務の他、大名の出迎えや宿場業務の監督等を行った事務所。


跡地の説明板。


■高札場跡
幕府や領主が決めた法令などを書いた木の板を掲げておく場所。惣兵衛本陣の前にあった。


■惣兵衛本陣跡
問屋場に向かい合う形で建っていた本陣で、佐藤・田中本陣の間に位置することから「中の本陣」と呼ばれた。江戸後期に廃業した。


跡地の説明板。


■佐藤本陣跡
別名、惣左衛門本陣といわれ、門構え、玄関付、181坪の建物だった。幕末には14代将軍家茂が京に上る際に宿泊した。明治23年(1890)詩人・作詞家佐藤惣之助がこの家で生まれ、大正から戦前にかけて活躍し、「六甲おろし」「青い背広で」「人生劇場」など、今でも多くの人に親しまれている歌の作詞をした。


跡地の説明板。


■小土呂橋
東海道が新川掘という排水路を横断するところにかかっていた橋。昭和6年から8年(1931~1933)に埋め立てられ、橋の欄干の親柱と地名のみが残る。


橋の欄干の親柱。


昭和6年(1931)撮影の小土呂橋と新川堀の写真。


■教安寺
天文22年(1553)創建の浄土宗の寺院。


山門。


石灯籠。天保11年(1840)に富士講信者が京口に建てたもの。


梵鐘。川崎市内に残る江戸時代鋳造の3つの梵鐘のうちの一つ。


江戸中期に庶民から生き仏様と敬われた徳本上人の六字名号碑。


■京口跡
宿場の京都側の出入口にあたる所。切石を積んだ石垣があり、棒鼻、土居、見付とも呼ばれた。


跡地に説明板が設置されている。


関札の複製。関札は本陣に宿泊する大名、公家、幕府の役人等の名前が書かれた札で、宿場の出入り口や本陣に掲げられた。


■芭蕉ポケットパーク
後述の芭蕉句碑にちなみ、芭蕉をしのぶポケットパーク。弟子7名の句が刻まれた石盤がある。


芭蕉と弟子達のシルエットが描かれた半円柱のオブジェの裏側には自動販売機が設置されている。


■芭蕉句碑
「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」。元禄7年(1694)5月、芭蕉が故郷伊賀に向かう際に、見送りに来た弟子達は芭蕉と別れがたく六郷川を越え川崎宿の京口まで同道した。芭蕉達は川崎宿の京口付近の茶店で別れを惜しみながらこの句を詠んだ。同年秋に芭蕉は大阪で帰らぬ人となり、弟子達にとっては今生の別れとなった。句碑は文政13年(1830)に俳人一種が建立。




■無縁塚
昭和9年(1934)に地元と川崎市が建てた供養塔。八丁畷付近では江戸時代以降多くの人骨が発見され、震災、大火、洪水、飢饉や疫病などの災害で亡くなった身元不明の人々を川崎宿のはずれの当地に埋葬したのではないかといわれている。八丁畷の由来は川崎宿を抜けるとまっすぐな田んぼ道(畷)が八丁(約870メートル)続いていたことから。




2010年8月1日 東海道散歩3(川崎宿)イベント主催(その2)

2010年08月03日 | 東海道徒歩の旅
(その1はこちら


■川崎宿
日本橋から4里18町(約17.6キロメートル)のところにあった、現在の六郷橋付近から八丁畷駅付近に設置された江戸から二番目の宿場。品川宿・神奈川宿の伝馬負担を軽減するため、元和9年(1623)に開設。前の宿場の品川宿から2里18町(約9.8キロメートル)、次の宿場の神奈川宿へも2里18町(約9.8キロメートル)の距離があった。

宿場の長さは約1.5キロメートルで、天保14年(1843)の記録によると、人口2433人、家数541軒、本陣2軒、旅籠72軒。新宿・砂子の2町から始まり、後に久根崎、小土呂を加えた4つの村で構成された。

開設当初は伝馬負担で財政難だったが、宝永4年(1707)に田中休愚が川崎宿での渡し船の請負を実現させ財政立て直しに成功。京を上る旅人の休憩・食事場所として、また江戸に下る旅人の最後の宿泊地として賑わい、さらに11代将軍家斉の川崎大師参拝により大師信仰が広まり川崎大師参拝客の往来で大いに栄えた。都市化や戦災により当時の景観は残っておらず、少数の寺社に当時の面影を残すのみである。


東海道。


川崎宿に関する説明板が東海道沿いに置かれている。


川崎宿内の商店のシャッターには浮世絵が描かれている。写真は歌川広重の「東海道五十三次 箱根」。


■川崎大師灯籠・明治天皇渡御碑
明治元年(1868)10月12日、天皇は東下の道中、川崎田中本陣で昼食を召され、その後23艘でつくられた舟橋で六郷川を渡御された。


川崎大師灯籠。


明治天皇渡御碑。


渡御の様子を表したレリーフ。


■万年屋跡
江戸時代に奈良茶飯が大評判だった茶屋の跡地。奈良茶飯は米や大豆、小豆などを煎茶と塩で炊き上げたもの。明和年間(1764~1772年)ごろ六郷川で採れたしじみの味噌汁と奈良漬とともに奈良茶飯を提供、東海道の旅人や川崎大師の参拝客の食事どころとして大変繁盛した。当時のベストセラー「東海道中膝栗毛」にも登場し全国的にも知られるようになった。後に旅籠を経営、米国総領事ハリスや皇女和宮も宿泊した。


跡地に立つ説明板。


「江戸名所図会」に描かれた万年屋。


■田中本陣跡
寛永6年(1629)川崎宿に初めて設けられた本陣で、川崎宿内の三軒の本陣のうち最も江戸よりにあったことから「下本陣」と呼ばれた。江戸時代中期の宝永4年(1707)に田中本陣を継いだ田中休愚は、問屋役や名主を兼任し、六郷川の渡し船の権利を江戸側より川崎宿側に譲り受けて、財政難にあえぐ川崎宿を立て直した。そして民政の意見書「民間省要」を著し、二ヶ領用水や酒匂川の治水に活躍し、幕府に高く評価され武州多摩川周辺3万石余を支配する代官(勘定支配格)に登用された。


跡地に立つ説明板。


■一行寺
寛永八年(1631)創建の浄土宗の寺院。別名「閻魔寺」と言われ、閻魔像が安置される。境内には川崎最初の寺子屋を開いた浅井忠良の墓と、富士講の指導者の西川満翁の墓がある。


閻魔像が安置される本堂。閻魔像のご開帳は年2回。


浅井忠良の墓。


西川満翁の墓。


■宗三寺
室町~戦国時代創建の曹洞宗の寺院で川崎宿内で最も古い寺院。


本堂。


飯盛女の供養塔。大正初期に川崎貸座敷組合が建てた、川崎宿の繁栄を支えた飯盛女を供養する塔。飯盛女は、旅人に給仕をする名目でおいた遊女で、年季奉公で売られてきた。多くが年季の明ける前に体を壊して亡くなり、遺体は墓に入れてもらえず打ち捨てられた。


■砂子の里資料館
東海道川崎宿をテーマにした資料館。外観は海鼠壁風の江戸町屋。浮世絵中心に毎月かわる企画展示を実施。約200年前の東海道川崎宿の模型も展示されている。