生姜ちくわのぶらぶら山日記

趣味の登山を中心としたブログです。2014年11月より日本百名山登山開始、2018年9月23日全座登頂。

5月11日(金) 六義園・旧古河庭園へ(その2)

2007年05月16日 | 都内散歩
その1の続き)

日本庭園を一巡、石組みの階段を上ると突然芝生の広場と洋館が出現した。洋館は、英国人建築家ジョサイア・コンドル(1852~1920)の設計で大正6年に完成した。コンドルは鹿鳴館、ニコライ堂、旧岩崎邸庭園などを手がけ日本の建築界に多大な貢献をした人物だ。斜面の洋風庭園もコンドルの設計で、左右対称の幾何学模様の刈り込みが特徴的なフランス整形式庭園と、斜面を生かし立体的なイタリア露壇式庭園の技法を合わせている。

バラは洋風庭園と洋館の前の花壇に植えられていた。庭園側の発表ではこの日のバラは5分咲き。満開のバラ、半分開花したバラ、つぼみのバラと様々な状態のバラが楽しめた。洋館とバラが調和し、美しい西洋絵画を見ているようだった。Aさんは感激ししきりに写真撮影をした。


旧古河庭園の後は都電荒川線に乗って荒川区内の沿線のバラを鑑賞する予定だったが、いつの間にか夕方になり冷たい風が吹くつけるようになったので、観光を中断し、Aさんの宿泊先に送り届けることした。

上中里駅へ向かう途中、平塚神社があった。手元の神社に関する資料を見ながら「徳川家光が病に倒れた際に、山川城官貞久がこの神社で家光の病気平癒を祈願したところたちどころに快癒したと伝えられている」と説明すると、Aさんはお参りしたいと言った。Aさの身近な人が前日に突然体調が悪くなったとのこと。医師の診察の結果、薬を服用し安静にしていれば2・3日で回復すると分かったが念のためお参りを、と言うことだった。神社では私もAさんと一緒にその人の回復を祈った。


Aさんを宿泊先に送り届けた。別れ際にAさんから「今日は素敵な場所に連れて行ってくれてありがとう」とお礼を言われ、非常にうれしくなった。一人の散歩も散歩イベントへの参加も楽しいが、今回のように観光や散歩の案内役を務めるのは人を喜ばせる楽しみがあっていいものだなあ、と思った。Aさんが次回上京するときまでにAさんが喜びそうな素敵な場所をいろいろと見つけておきたい。


【旧古河庭園】



西洋庭園から洋館を望む。




洋館の玄関。




洋館の窓辺とバラ。




プリンセス・ミチコ(イギリス 1966年作出)




ブルーライト(日本 1995年作出)




サハラ(ドイツ 1996年作出)




マリア・カラス(フランス 1995年作出)




リオ・サンバ(アメリカ 1991年作出)




ノイバラ


【平塚神社】




5月11日(金) 六義園・旧古河庭園へ(その1)

2007年05月15日 | 都内散歩
この日の午後は、上京してきた人(以後「Aさん」と呼ぶ)の東京観光に付き合った。予めAさんから行き先の選定は任されたので、Aさんが花好きで、都会の喧騒が苦手なことを考慮し「バラと日本庭園を楽しむ」をテーマに行き先を「六義園」(日本庭園)、「旧古河庭園」(バラと日本庭園)、「都電荒川線沿線」(バラ)に決めた。


まずは六義園。私が六義園に訪れたのは約10ヶ月ぶりだ(前回の記事はこちら)。園内は新緑に染められ、わずかに残るつつじの花がアクセントとなっていた。Aさんは広々として落ち着いた園内を楽しそうに歩いた。Aさんに入り口の巨大な枝垂桜と園内のもみじを紹介すると、Aさんは枝垂桜の開花時期と紅葉の時期にぜひ再訪したいと言った。


六義園から旧古河庭園へは歩いて移動した。Aさんが歩き疲れていないかどうか気を使った。散歩を趣味にしている私は歩くことが苦にならないがAさんは車なしでは生活できない地域に住み普段ほとんど歩くことがないからだ。


旧古河庭園は武蔵野台地の斜面と低地を生かした庭園で、低地には日本庭園、斜面には洋風庭園が配され、北側の小高い丘には洋館が建っている。珍しく日本庭園に最も近い染井門が開いていたのでそこから入園、日本庭園から鑑賞した。

日本庭園の作庭者は京都の庭師植治こと小川治兵衛(1860~1933)で、山県有朋の京都別邸である無鄰菴、平安神宮神苑、円山公園などを作庭した。 日本庭園は「心」の字に似せて作った心字池を中心に、水を使わずに滝を表現した枯滝や、10数メートルの高さから落ちる大滝、中島を配している。大滝は削ってできた断崖から流れ落ち、大滝の周辺は濃い緑に覆われ、深山の渓谷の趣があった。


(その2に続く)


【六義園】



池のほとりに咲くつつじ。




中島。




滝。




吹上茶屋で一服。




吹上茶屋からの眺め。




イロハモミジの種。


【旧古河庭園】



心字池。




雪見灯篭と心字池。




大滝。




枯滝。


5月5日(土) 新座散歩(その3)

2007年05月10日 | 都外散歩
その2の続き)

平林寺の向かい側の睡足軒の森は、現在平林寺境内林の一部であるが、江戸時代には高崎藩の陣屋があり、近代には「電力の鬼」と呼ばれた実業家で茶人でもあった松永安左エ門が土地を購入、飛騨高山付近の田舎家を敷地内に移築、草庵として使用した。

睡足軒の森に着いたのは閉園時間の午後4時10分前で、駆け足で園内を見て回った。園内は雑木林と熊笹が生い茂る静かな空間だった。草庵からの眺めが良いと聞いていたので楽しみにしていたが、残念ながら草庵は貸し切り中で建物内への立ち入りさえ叶わなかった。


その後野火止用水と支流の平林寺堀の分岐点に向かった。道の途中で平林寺堀に出合った。平林寺堀は文字通り平林寺境内を流れる堀で、現在の境内の堀は空堀だが、境内の外の水路には今なお水が流れる。

引き続き歩き続けると平林寺堀が消え、野火止用水に再会した。用水沿いには本多緑道と呼ばれる緑豊かな遊歩道が続いた。用水の護岸は土や木の杭、石で作られ、往年の野火止用水の姿を偲ばせた。遊歩道には桜の木が植えられていた。

本多緑道を越え、ひたすら野火止用水沿いを歩くと、野火止用水と平林寺堀の分岐点にたどり着いた。単なる分岐点なのになんとなくうれしくなった。

分岐点を後にし、野火止用水沿いを上流に向かって1時間程度歩いた。野火止用水は部分的に暗渠になっていたが、用水沿いには遊歩道が整備されていた。西武池袋線の清瀬駅に到着しこの日の散歩を終えた。




睡足軒の森の入り口。




松永安左エ門の草庵だった建物。




園内。




平林寺堀。




本多緑道。





本多緑道沿いの野火止用水。桜の時期に散歩してみたい。




野火止用水(左)と平林寺堀(右)の分岐点。




分岐点そばの史跡公園内の「清流の復活」の記念碑。野火止用水は開削以後生活用水や農業用水等に使用されてきたが、昭和39年の旱魃で用水への分水が中止された。用水の歴史的価値の見直しにより、昭和59年から62年に用水や緑道などの整備され清流が復活した。




史跡公園を流れる平林寺堀。




野火止用水(分岐点~清瀬駅)。


【おまけ】



思わず額に入れて飾りたくなる平林寺の入場券。




平林寺の前の通りにあった標識。





5月5日(土) 新座散歩(その2)

2007年05月09日 | 都外散歩
その1の続き)

平林寺は、臨済宗の禅寺で、関東でも屈指の古刹として知られる。永和元年(1375)に大田備中守が現在のさいたま市岩槻区に建立し、川越城主松平伊豆守信綱の子、照綱が父の遺志を継ぎ、寛文3年(1663)に岩槻から野火止の地に移転した。

平林寺境内林は、クヌギ、コナラ、シデなどの雑木林を中心にシラカシ、マツ、スギ、竹林を含む典型的な武蔵野の里山の風情を昔のままに残す貴重な森として国の天然記念物に指定されている。

平林寺の境内は静寂で、簡素な美しさに満ち、京都の寺院にいるかのような錯覚を覚えるたたずまいだった。仏殿や本堂などを拝観後、境内林を散策した。境内林は新緑が美しかった。緑豊かな境内林を歩くとさわやかな気分になる。散策路の両脇にもみじが数多く植えられていた。紅葉の時期にはさぞかし素晴らしい景観が広がることだろう。ぜひ紅葉の時期に訪れたい。


(その3へ続く)




総門。扁額の「金鳳山」は京都詩仙堂の石川丈山の筆。




山門。寛文三年(1663)創建。扁額の「凌霄閣」は石川丈山の筆。




山門。




仏殿。寛文三年(1663)創建。釈迦如来と迦葉尊者、阿難尊者を安置。




本堂。明治13年(1880)の再建。釈迦如来を安置し、達磨大師と歴代住職の礼拝を祀る。




鐘楼。




境内の一角。




松平信綱の墓所。信綱の死後、岩槻にあった平林寺に葬られたが、現在地に移転の際に改葬された。




境内林の散策路。




境内林の散策路。




境内林。




境内林。


5月5日(土) 新座散歩(その1)

2007年05月08日 | 都外散歩
この日は新座市の野火止用水と平林寺を中心に散歩した。

東武東上線志木駅南口の「にいざほっとぷらざ」二階でもらった散策マップを手に志木駅から10分程度歩くと、野火止用水遊歩道の入り口に着いた。遊歩道は野火止用水の暗渠の上に作られたものだ。遊歩道はアスファルトで舗装され、街路樹など日差しを遮るものがほとんどなかったので歩くのが少しつらかった。遊歩道を歩ききり、交通量の多く殺風景な川越街道を越えると涼しげな水音を立てて流れる野火止用水と新緑がまぶしい野火止緑道が現れた。

野火止用水は、川越城主松平信綱が常に水不足に悩まされた領民を救うために承応4年(1655)に開削した用水路で、多摩郡小川村(現在の東京都小平市)から野火止台地を経て新河岸川に至る全長25キロに及ぶ。ショベルカー等の建設機械がない時代に用水はわずか40日程度で完成したと言われている。

川越街道から伊豆殿橋までの野火止用水は、木の杭や土で護岸が作られ両岸は緑で覆われていた。安全面ではコンクリート護岸の方がよいだろうが、やはりこういう護岸のほうが水辺に潤いが出てよい。用水沿いの野火止緑道は舗装されていないところが多かった。せせらぎを耳にし、足裏で土の感触を味わいながら野火止緑道をのんびり歩いた。野火止緑道では樹木が茂り日陰を作ってくれたので、快適に歩けた。

(その2に続く)




「にいざほっとぷらざ」二階でもらった鉄腕アトムのイラスト入りの散策マップ。鉄腕アトムは新座市の特別市民。手塚プロダクションのスタジオが新座市にあることが縁で2003年に登録された。住民票まである。




路面に設置されたステッカー。ステッカーは散策コース上の40箇所に設置され、鉄腕アトムが道案内をしてくれる。




野火止用水遊歩道。




川越街道のそばにある野火止公園。隣に野火止用水が流れる。




野火止用水。




野火止緑道。




野火止緑道の無人販売。散策中に何箇所か見かけた。川越街道から離れると緑道沿いには田畑が広がる。










野鳥の森。野火止用水沿いにある雑木林を生かした公園。野鳥の森とは名ばかりで実態はカラスの森。







野火止用水の鴨。鯉もいる。地元の人らしき人がエサを与えていた。