生姜ちくわのぶらぶら山日記

趣味の登山を中心としたブログです。2014年11月より日本百名山登山開始、2018年9月23日全座登頂。

2008年1月27日 馬込文士村散歩1

2008年01月31日 | 都内散歩
この日は大田区山王を中心に散歩した。山王は、隣の馬込と同様、関東大震災を機に大正末期から昭和初期にかけて多くの芸術家や文士が住むようになり、「馬込文士村」と呼ばれた地域だ。馬込は以前散歩したので今回の散歩では山王とその近辺の地区を選んだ。


■円能寺

元亀年間(1570-1573)創建の真言宗の寺院。成田山新勝寺の末寺で、「大森不動尊」とも呼ばれる。




■日枝神社

円能寺に隣接する神社。境内には江戸時代の庚申塔が3基あり、このうちの文政2年(1819)の庚申塔は道標をかねており、「左まごめ道 右なかのぶめぐろ道」と刻まれている。


社殿。


文政2年の庚申塔。「左まごめ道」と刻まれている。


残り2基の庚申塔。背の低いほうが元禄13年(1700)、高いほうが貞亨元年(1684)。


社殿の廊下にあった、精巧な鯉の滝登りの浮き彫り。


■ジャーマン通り

大正14年(1925年)から平成3年(1991年)まで通りの近くに東京独逸学園があったため名づけられた。




■山王草堂記念館

明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト、評論家、歴史家であった徳富蘇峰(とくとみそほう)が大正13年(1924)~昭和18年(1943)に住んだ住まいの一部を記念館として保存。蘇峰の代表作「近世日本国民史」原稿や各界著名人からの手紙、蘇峰が刊行した日本最初の総合雑誌「国民之友」の実物など、蘇峰に関する資料が展示されている。小説家の徳富蘆花は実弟。


入り口。


蘇峰の像。


記念館の建物。


館内に復元された、蘇峰の書斎。馬蹄形の机で、長時間座り続けても疲れないように掘りごたつになっている。


庭園。静かな園内にはベンチやあずまやがあり、散歩疲れをここで癒すのもよし。


記念館のそばにあるカタルパの木。同志社大学の創立者で蘇峰の恩師でもあった新島襄が明治10年代に蘇峰に贈った種子の木から3代目に当る。6月に香りのよいベル状の白い花をつける。


■梅の木通り
文字通り、通りに梅の木が植えられている。通り沿いは閑静な住宅街。


通りに植えられているのは紅梅。


ちょうどみごろ。


詩人・小説家、室生犀星の説明版。馬込・山王には、文士・芸術家の旧居跡もしくはその近くに、文士・芸術家に関する似顔絵入りの説明板が設置されている。説明板を探して歩くのも楽しい。


梅の木通りと環七通りの合流地点にあった、「路傍の石」で有名な小説家、山本有三の説明板。彼は昭和21年に馬込に引っ越し、翌年に参議院議員に就任、日本国憲法の口語化を政府に進言したり、国語や文化に関する各種法案の制定に関わった。


■厳島神社

梅の木通りから横道にはいったところにある神社で由緒は不明。


弁天池の小島に祀られている。


厳島神社に隣接する山王花清水公園。ハーブや季節の草花が植えられている洋風庭園。残念ながら現在は開花している草花はあまりない。


園内にある、弁天池の源泉。


■春日神社

鎌倉時代に創建されたといわれる神社。


社殿。


春日神社のそばの交差点に大田区が設置した「いにしへの東海道」の碑。春日神社の前の通りは、「時代により奥州街道、相州鎌倉街道、平間街道、池上往還などと呼ばれた古道です」と刻まれている。現在は春日通りと呼ばれている。


春日通り。


(続く)

2008年1月20日 大井散歩3

2008年01月26日 | 都内散歩
前回の続き

■大福生寺

明治15年(1882)開創の天台宗の寺院。日本橋蛎殻町にあったが、明治26年に現在地に移転。本尊は大聖歓喜天(秘仏)で、「大井の聖天」として知られる。


山王鳥居。


本堂。


鶯亭金升の歌碑。明治から昭和初期にかけて活躍、最後の戯作者と言われた。「花は笑顔のおもてに咲いて月は心の裏にすむ」の都都逸が刻まれている。


■ヘルマン坂


戦前、ヘルマン・スプリット・ゲルベルトというドイツ人が、この坂の途中に住んでいたことから名づけられた。


■嶺雲寺

慶長9年(1604)越前出身の商人吉田半左衛門が創建した曹洞宗の寺院。


閻魔堂。石彫りの閻魔像と脱衣婆が安置される。


■勝島運河


もともとは雑草が生い茂り、ごみや空き缶、犬の糞が散乱し地元の人でさえ近づかなかった場所だったが、平成14年に「勝島運河の土手に花畑を作ろう」を合言葉に地元の商店街が中心となり「しながわ花海道プロジェクト」が設立された。春には菜の花、秋にはコスモスが約2キロの土手沿いに一面に咲き通行人の目を楽しませる。


船だまり。


まだ冬なのにもかかわらず、花を咲かせていた菜の花をわずかながら見つけた。


■坂本龍馬像


平成15年に高知市から寄贈された像で、京急立会川駅前に設置されている。立会川の近くに土佐藩の下屋敷があり、嘉永6年(1853)にペリー来航に備え立会川の河口付近に江戸城防御のために土佐藩により浜川砲台が築かれた。若き日の坂本龍馬も浜川砲台で警備に携わった。


■浜川神社


江戸後期に修験者の教光院了善が厄神大権現を祀ったのが始まりで、明治維新後、浜川神社と称した。土地の鎮守ではないので、氏子を持たず信徒によって維持されている。神社はマンションの二階にあったが、一階の入り口が施錠されていて入れなかった。


■鈴が森刑場跡

「2008年1月1日 東海七福神巡り2」で日が暮れてから一度訪れているが、撮影できないものもあったので明るいうちに再度訪問。


外観。


題目供養塔。


首洗いの井。


水難者供養塔。この他、馬頭観音や鯉塚、大震火災殃死者供養塔等がある。


大経寺。刑死者達の供養のために開かれた日蓮宗の寺院。

(終わり)


2008年1月20日 大井散歩2

2008年01月24日 | 都内散歩
前回の続き


■旧仙台坂周辺


仙台味噌醸造所。現在でも仙台味噌を製造・販売。寛永2年(1625)創業で、仙台藩主伊達政宗が江戸在勤の家来らのために、この地にあった下屋敷内で味噌作りをはじめたのが起源。お店の中を覗きたかったがこの日は閉店していた。


ディスプレイにあった味噌の容器。


幹囲3.8メートル、樹高20メートル、推定樹齢約300年のタブの木。


旧仙台坂。江戸時代にこの坂の中ほどから上にかけて仙台藩の下屋敷があったため仙台坂と名づけられた。現在青物横丁に抜ける坂道が「仙台坂」と呼ばれているので、この坂は「旧仙台坂」と呼ばれる。


■泊船寺


室町時代前期の永徳2年(1382)創建の臨済宗の寺院。本尊の阿弥陀如来は海中から引き上げられたものという。


松尾芭蕉の「いかめしき音のあられや桧笠」の句碑。松尾芭蕉と親交のあった住職が内に牛耕庵(泊船堂または芭蕉堂とも言う)を建て芭蕉を招いたと伝えられる。寺には芭蕉や弟子の服部嵐雪、宝井其角の坐像が残っている。


境内の一角に置かれた一輪挿し。


■山内容堂の墓


幕末期の土佐藩15代藩主の墓。墓はかつて土佐藩の下屋敷があった場所にある。進歩的な考えの持ち主だった容堂は大老の井伊直弼と対立し安政5年(1858)に下屋敷に蟄居させられたが、文久2年(1862)に政治の場に復帰、大政奉還をはじめ幕府と朝廷を斡旋に力を尽くした。


■鮫洲八幡神社

旧御林町(東大井一丁目、二丁目の一部、四丁目)の総鎮守。江戸時代にはこのあたりは猟師(漁師)町で、江戸城に収穫した魚を収める「御菜肴八ヶ浦」の一つとして栄えた。


鳥居。


社殿。


嘉永2年(1849)の狛犬。台座には「町中猟師中」と刻まれている。参道には安政3年(1856)に地元の漁師が寄進した石灯籠も残っている。


魚の仲買人達が大正11年に建てた門。


■木芽(このめ)の坂


この坂が若葉のころが美しかったことから名づけられた。江戸時代にはこの坂の北側には越前国鯖江藩下屋敷があり、南側は崖になっており、下に泉があった。


■梶原稲荷神社


鎌倉時代の武将、梶原景時が建立したと伝えられる。もとはこの地にあった万福寺の境内に祀られていた(万福寺は焼失)。


社殿の裏の「梶原塚。」梶原氏一門の墳墓とも言われている。


■来福寺

平安中期の正暦元年(990)智弁阿闍梨が創建した真言宗の寺院。本尊はこの日に先に訪れた庚申堂から発見された延命地蔵(経読地蔵)。


山門。


雪中庵寥太の「世の中は三見ぬ間に桜かな」の句碑。雪中庵寥太(1718-87)は信州伊那出身の俳人で、松尾芭蕉に憧れ、芭蕉風の俳諧の復活に尽力した。俳壇に勢力を持ち、多くの門人を擁し多数の著作を刊行した。なお、来福寺は江戸時代には桜の名所だった。


林浄因の碑。林浄因は、室町初期の貞和5年(1349)に来日し、日本に饅頭の製造法を伝えた中国人で、和菓子の老舗「塩瀬総本家」の始祖。


(続く)

2008年1月20日 大井散歩1

2008年01月23日 | 都内散歩
この日の散歩コースも先週に引き続き品川区大井。先週雨のために歩けなかったコースを歩いた(前回の散歩は(こちら))。


■品川区の「大森貝塚」碑


大森貝塚遺跡庭園にある石碑。前回の散歩で写真を取り忘れたので立ち寄って撮影。


■品川歴史館の庭園


庭園内を流れる小川。前回の散歩では雨に見舞われ庭園を歩けなかったので立ち寄った。


茶室「松滴庵(しょうてきあん)」。昭和2~3年ごろここに住んでいた安田財閥の安田善助氏が邸宅内に建てた茶室。邸宅は後に広告代理店最大手の電通の吉田秀雄氏に渡ったが茶室も引き継がれ、昭和60年(1985)の品川歴史館開設にあたっても茶室はそのまま引き継がれた。


茶室に隣接する書院。書院は邸宅の母屋の大広間をできる限り元の材料を使って建てられたもの。茶室、書院ともに一般に有料で貸し出されている。


品川歴史館建設時に発見された8世紀初めの竪穴住居跡を復元したもの。


■光福寺

創建は延暦元年(782)で、天台宗の寺院だったが、鎌倉時代の元久年間(1204-1206)に親鸞門下の関東六老僧の一人の了海が浄土真宗に改宗、光福寺と改めた。


山門。


山門に掲げられた「大井山」の扁額。


樹高40メートル、幹周り6.4メートル、樹齢約800年のイチョウ。品川区で最も大きな樹で、麻布善福寺の「さかさイチョウ」の兄弟といわれる。


イチョウに生えているつららのような乳根。乳根は老木になると生えてくる。


大井の井。了海の誕生の際に境内から湧き出し、泉の水は了海の産湯に使われ、泉は「大井」と命名された。「大井」の地名はこの泉に由来すると伝えられる。泉は横穴式の井戸で今なお水が湧き出すそうだ。


■西光寺

鎌倉時代の弘安9年(1286)創建の天台宗の寺院だったが、江戸初期の寛永15年(1638)に浄土真宗に改宗。慶長年間(1596-1615)に、武田信玄の縁者で、織田信長にも仕えた武将だった栄空が住職となった。寺には信玄から拝領した陣羽織などが残されている。


山門。


江戸時代の代表的な地誌「江戸名所図会」に掲載された児桜(ちござくら)。西光寺は江戸時代には桜の名所として知られたが、明治時代に火災により多くの桜の木が焼失。現在の境内には桜の木は少ない。


■三ツ又身代わり地蔵尊


病気や難産等の苦しみを代わりに引き受けてくれる「身代わり地蔵」として篤く信仰される。


■庚申堂


現在は庚申塔が祀られているが、古くは戦死者供養のために写経が埋められ納経塚と呼ばれた。室町時代中期の文亀元年(1501)に塚のそばを通った僧が当時行方不明だった来福寺(今回の散歩で訪れる)の延命地蔵を発見、来福寺に迎えて安置した。


■ゼームス坂

もとは非常に急な坂で、浅間坂(せんげんざか)と呼ばれていたが、明治時代にこの坂下付近に住んでいたJ.M.ゼームスという英国人が私財を投じて緩やかな坂に改修したため、それ以来ゼームス坂と呼ばれるようになった。




■ネパール・チベット料理「ポカラ」

これまでの散歩時の昼食は、店を決めずに立ち食いそばやコンビニのパンなどで簡単に済ませることが多かったが、今回は事前に店を探しておいた。お店はゼームス坂近くのネパール・チベット料理の「ポカラ」。私はエスニック系の料理が好きなので、今後の散歩ではエスニックレストランの開拓もしていきたい。


「ポカラの店構え」。エスニック系レストラン特有のあやしい雰囲気が皆無な店構えなので、入りやすい。内装はいたってシンプルでやはりあやしい雰囲気は皆無。日本人の店員はいなかったが店員は日本語で接客してくれるので問題なし。


850円のランチ。手前より向かって右からナン、ミックスシーフードのカレー、ほうれん草のカレー、サラダ、アチャール(ネパールの漬物)、ライス。ドリンクつき(複数から一つ選べる)。焼きたてナンはもちもちしていて、写真に納まらないほど大きく食べ応えあり。カレーは日本人向けにしてあるのか辛くない。一緒についてくるソースで辛くする。カレー、ナン、どれもおいしかった。個人的にはカレーは初めから辛いほうがよいと思う。ドリンクのラッシーはかなりシナモンが利いていたがおいしかった。この量と味で850円は安いと思う。


(続く)


2008年1月12日 大井散歩2

2008年01月18日 | 都内散歩
前回の続き


■鹿嶋神社

安和2年(969)に茨城県の鹿島神宮を勧請したもので大井の総鎮守として親しまれる。


鳥居。


昭和6年(1931)建立の威厳ある本殿。


文久2年(1862)建立の旧本殿。1メートル20センチ四方の小さなものだが精巧な彫刻が施されている。現在本殿の右奥に移築・保存されている。


■来迎院

鹿嶋神社に隣接する寺院で、鹿島神宮を勧請した際に合わせて建てられた。江戸時代には鷹狩りに訪れる将軍のための休憩所が設けられ、「お茶屋寺」とも呼ばれた。


仏堂。


枯山水の小さな庭園。石仏が何体か置かれている。


梅が咲いていた。


■大井の水神

貞享2年(1685)に豊かな水の供給を願って九頭竜権現を祀ったのがはじまりで、明治時代には祭神が水葉之女命(みずのはのめのみこと)になった。「柳の水」と呼ばれた境内の池は、昭和50年ごろまで水が湧いていた。現在の池はポンプで水をくみ上げている。


洞窟状の祠。


柳の水。


大井の水神のそばのガード下の落書き? 九頭竜権現をイメージして描いたものと思われる。


■品川歴史館

品川区立の歴史資料館で、常設展示では「大森貝塚とモース博士」と「東海道と品川宿」の二つのテーマを柱に原始時代から近現代までの品川区の歴史を展示している。常設展示中のコーナー展示では、江戸名所品川、江戸名所探訪、東海道の旅という品川をめぐる三本のテーマに基づく史料を展示していた。散歩・旅行好きな人間にとっては、常設展示の江戸時代の東海道・品川宿、明治~昭和初期の品川区内の鉄道の歴史の展示、コーナー展示が非常に興味深かった。入場料が100円かかるが、金額の割には展示内容が充実していると思う。


江戸後期の品川宿の宿並の模型。目黒川をはさんだ500メートルが復元されているが、実際の宿並は約2145メートルと長く、高輪町境から大井村まで続いていた。


目黒川。右奥にあるのは高札場。高札場は、幕府や領主が定めた法令を書いた木の札を掲示した場所。


問屋場。問屋場は人馬の継立業務や飛脚業務等を取り仕切った場所。


本陣の入り口(中央)。左は本陣の門番所、右は旅籠屋。


旅籠屋。品川宿には食売(めしうり)旅籠屋と呼ばれる遊女を抱えた旅籠屋が数多くあった。


すし屋と煮売り屋。


江戸の名所を紹介した地誌「江戸名所図会」(天保5~7年(1834-36))に描かれた品川宿。


関札。本陣の表門に掲げた宿泊者を記した板で、「松平安芸守休」と書かれている。


庚申塔(享保21年(1736))。道標を兼ねており、側面に「ひもんやミち(碑文谷道)」、反対側に「めくろミち(目黒道)」と刻まれている。


土蔵相模の復元模型。土蔵相模は品川宿にあった食売旅籠屋で、幕末には高杉晋作などの長州藩の攘夷派の志士が英国公使館焼き討ちにここに結集した。


高輪蒸気車運行全図(明治4年(1871))。海側から見た品川駅、八ッ山橋付近を描いたもの。当時の品川駅は現在の駅舎から約400メートル横浜寄りの海岸を埋め立てて作られた。


明治5年(1872)の時刻表。品川-横浜間の下り列車は1日6本あった。


京濱・湘南沿線案内(昭和9年(1934))。京濱品川駅から花月園前駅までを撮影。今なおある駅もあれば、消えてしまった駅もある。


「東海道名所図会二」(寛政9年(1797))。東海道第42番目の宿場・桑名にある七里の渡しと渡し舟を描いている。


「東海道中膝栗毛」(享和2年~文化6年(1802-1809))の挿絵。弥次さん・喜多さんが桑名の茶店で名物の焼き蛤を食べている。


上は「五街道中細見記」(安政5年(1858)) で、東海道を初めとする五街道のガイドブック。下は「宿附道中記」(江戸時代)で、全国の街道とその休憩・宿泊場所を記したもの。ピンク色のしるしが付いているのは品川宿の記述。いずれも携帯を考えてコンパクトサイズにできている。


「旅中入用控帳」(慶応4年(1868))。山本長次という武士が江戸から岡崎(愛知県)までの旅の費用を書きとめたもの。


江戸時代の旅の持ち物(一部)。コンパクトサイズの携帯用筆記用具セットの箱矢立や印籠などがある。


旅籠屋の引札(幕末~明治時代)。引札は現在の広告チラシにあたるもので、旅籠屋の場所や主人名、近隣名所の案内等が書かれている。


庭園の水琴窟。水琴窟は小さな洞窟に水を落として、洞窟の壁面に反響させた水音を楽しむためのもの。手前の竹筒に耳を当てて楽しむ。傘を差して庭園を散歩したかったが、傘を歴史館入り口に預けたままだったので断念した。


(終わり)