生姜ちくわのぶらぶら山日記

趣味の登山を中心としたブログです。2014年11月より日本百名山登山開始、2018年9月23日全座登頂。

2010年11月28日 九品仏・等々力・上野毛散歩イベント主催(その2)

2010年11月30日 | 都内散歩イベント主催
(その1はこちら


■玉川神社
室町時代・文亀年間(1501~04)、世田谷城主吉良氏が勧請したと伝わる旧等々力村の鎮守。




■満願寺
室町時代・文明2年(1470)、世田谷城主吉良氏の創建と伝わる真言宗智山派の寺院。




細井広沢墓。国指定史跡。細井広沢は江戸・元禄時代に、豊かな学識により柳沢吉保に重用され、著名な名筆家として知られた。歴代天皇陵の修復にも尽力。


駐車場のいちょう。


■等々力渓谷
国分寺崖線の南端に位置する約1キロメートルの東京23区内唯一の渓谷。谷沢川が国分寺崖線に侵食してできた渓谷で、深さが10メートル程あり、渓谷の斜面には武蔵野の代表的な樹木のケヤキ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラ、イロハカエデなどが繁り、渓谷の至る所から水が湧き出ている。








■等々力不動
瀧轟山明王院といい、真言宗智山派の満願寺の別院。不動堂の本尊は、平安時代後期に真言宗中興の祖、興教大師が山城国(京都府)より移したとされる。




不動堂。


不動の滝。古来より滝に打たれて行をする人々が各地から訪れた滝。今は水量が少ないが、昔は豊富で、滝のとどろく音が「等々力」の地名の由来となったと言われる。














2010年11月28日 九品仏・等々力・上野毛散歩イベント主催(その1)

2010年11月29日 | 都内散歩イベント主催
この日は東京都世田谷区の九品仏駅から上野毛駅までを歩き、紅葉を楽しむイベントを開催した。参加者は管理人も含め10名で、内訳は男性5名、女性5名(参加者の皆様、ありがとうございました)。初参加の方は3名。

当初の予定では、イベントの最後の方で上野毛駅近くの五島美術館で美術鑑賞をする予定だったが、入場に1時間待ちというひどい混み具合だったため、予定を変更し二子玉川駅周辺を歩き、二子玉川駅で解散した。

当初の予定になかった玉川大師の地下霊場が非常によかった。地下霊場では真っ暗闇の中を手探りで歩くときには不安もあったが、霊場巡りを終わるころには心身ともに清浄になった感じがした。 個人的にまた行ってみたいと思った。

肝心の紅葉はというと、いちょうはちょうど見頃だったが、もみじは木によってばらつきがあった。もみじの見頃は来週以降だろうか。浄眞寺のいちょうがよかった。


【コース】
九品仏駅→九品仏浄眞寺→玉川神社→満願寺→等々力渓谷→等々力不動→善養寺→六所神社→野毛大塚古墳→上野毛自然公園→玉川大師→兵庫島公園→二子玉川駅解散


(紅葉以外の写真のほとんどは下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)


■九品仏浄眞寺
江戸時代初期・延宝 6年(1687)創建の浄土宗の寺院。九品山唯在念仏院浄眞寺といい、開山は江戸初期の高僧「珂碩上人(かせきしょうにん)」で、奥沢城跡に浄土宗所依の経典である感無量壽経の内容に基づき堂塔を配置。

都の文化財に指定された9躰の阿弥陀如来像から九品仏の名で親しまれ、3年に1度、8月に「来迎会(らいこうえ)(お面かぶり)」が行われる。来迎会は、念仏行者の臨終時の西方浄土からの阿弥陀如来の来迎を儀式化したもので、阿弥陀如来や菩薩のお面をかぶった信者が本堂と三仏堂の上品堂の間にかけられた橋を渡る。



参道。


参道のもみじ。


総門。


開山堂。開山の珂碩上人像を安置。


仁王門。寛政5年(1793)建立。「紫雲楼」とも呼ばれる。楼上には阿弥陀如来と二十五菩薩像が安置される。


鐘楼。寛政5年(1793)建立。現在工事中でシートに覆われている。梵鐘は宝永5年(1708)頃の製作といわれる。阿弥陀仏坐像と六字名号、天人等が鋳出してある銅製の梵鐘。寛文年間(1661 ~1673)頃、京都の鋳工が始めた朝鮮鐘の例に倣ったもので、江戸には遺作がほとんどない。


鷺草園。鷺草は、ラン科の植物で、飛んでいる鷺の姿に似た白い花を7~8月に咲かせる。世田谷区の花で、大正末ごろまでこのあたりに自生していた。


鷺草の写真。


イチョウ。向かって右側のが都指定天然記念物。幹囲4.4メートル、高さ約17.9メートルに及ぶ雌株の巨木。


仏足石。釈迦の足跡を刻み信仰の対象としたもので、天保年間(1830~1843)のもの。


本堂。元禄11年(1698)上棟。堂内には珂碩上人作と伝えられる木造釈迦如来坐像が安置。


本堂とイチョウ。


カヤ。都指定天然記念物。幹囲5.4メートル、高さ26.5メートル、枝張りは東西が12.2メートル、南北が17.9メートルにおよぶ。都指定天然記念物のカヤでは最大のもの。


開山廟。開山の珂碩上人の墓所。


三仏堂の一つ、上品堂。
三仏堂は元禄11~12年(1698~1699)に建立。九体一組の阿弥陀如来(九品仏)が 安置される仏堂で、向かって中央の上品堂には「上品上生」「上品中生」「上品下生」、 右の中品堂には「中品上生」「中品中生」「中品下生」、左の下品堂には「下品上生」 「下品中生」「下品下生」が安置される。


中品堂。


下品堂。


九品仏の一つ、上品上生仏。
都指定有形文化財。九品仏は、極楽往生には人間の努力や心がけ等の条件で9つの段階があることを表すもので、全ての阿弥陀如来の手の位置や印契が異なる。九品仏は藤原期に多く造営されたが、現在では京都府にある浄瑠璃寺に現存するのみ。
当寺の九品仏は、珂碩上人作と伝えられるもので、いずれも寛文7年(1667)以降、延宝2年(1674)以前の作品と考えられている。


阿育王塔。阿育王(アショーカ王)は、紀元前3世紀のインドの王で、仏教を国教とし、法(ダルマ)に基づく政治を行った。王はダルマを国民に知らせ守らせるためにダルマを刻んだ石塔をインド各地に立てた。塔は日本様式のもので、天保年間(1830~1843)のもの。


お手植えの松。大正8年(1919)、当時皇太子だった昭和天皇が植樹された。


境内の紅葉。






2010年11月7日 東海道散歩6(戸塚宿、藤沢宿)イベント主催(その3)

2010年11月17日 | 東海道徒歩の旅
(その2はこちら


■遊行寺
時宗総本山。鎌倉時代・正中2年(1325)、遊行四代呑海上人が創建。正式には清浄光寺。
「遊行」とは、僧侶が修行・勧進のため諸国を巡り歩くことを言い、歴代の上人が各地を遊行し続けたことから、このように名づけられた。呑海上人以降の遊行上人は譲位すると藤沢上人を称して遊行寺の住職になり、藤沢は諸国遊行の重要拠点となった。


総門。冠木門という形式の門で通称「黒門」と呼ばれる。


いろは坂。江戸時代中期に再建されたと伝えられる48段のなだらかな石段で、いろは四十八文字にちなみいろは坂と呼ばれる。また阿弥陀仏の四十八願にたとえて、四十八段とも呼ばれる。


本堂。


いちょう。樹高約21メートル、幹の周囲が7.1メートルの巨木で遊行寺のシンボル。樹齢は不明。


敵御方供養塔(怨親平等碑)。室町時代・応永23年(1416)に、上杉禅秀の乱で戦死した敵・味方(御方)を供養するために建立。上杉禅秀の乱は、鎌倉公方の足利持氏に対し、その補佐役の上杉氏憲(禅秀)が起こした乱で、幕府は持氏を援助したため氏憲は敗れた。乱は鎌倉から関東各地に広がり、両方に死傷者が多く出た。
供養塔は住職が遊行十四代太空上人の時代に足利持氏が発願主となって建立されたと考えられている。
敵味方の区別なく平等に供養した石塔は他にもあるが、この石塔はその中でも古く、大正15年(1926)に国の史跡に指定された。


一遍上人像。


全員容貌が異なる六地蔵。


中雀門。江戸時代・安政年間(1854~60)に建造。明治13年(1880)の大火の際に焼失を免れた、遊行寺境内の中で最古の建造物。向唐門で、高さ6メートル、幅3.7メートル。


放生池。江戸時代の5代将軍徳川綱吉の「生類憐れみの令」発布にともない、元禄7年(1694)に「江戸市中の金魚・銀魚を放とうと思うなら遊行寺の放生池で放ち、その数など正直に報告しなさい」とのお触れがでたとの記録がある。


明治天皇御膳水。明治天皇がたびたび遊行寺にお泊りになった際にお使いになった井戸。


宝物館。昭和50年(1975)開宗七百年記念に開館。仏教美術を中心とした多数の絵画、書跡、工芸、時宗に関する中世・近世文書を収蔵。


■長生院
「小栗堂」とも呼ばれる時宗の寺院。浄瑠璃や歌舞伎などで名高い小栗判官・照手姫ゆかりの寺院で、境内には小栗判官と10人の家臣、照手姫の墓がある。江戸時代の東海道道中案内記には、必ずと言って良い程長生院の「小栗判官・照手姫」伝説が紹介されていたほど人々に知られていた。

小栗判官・照手姫伝説は以下の通り。室町時代・応永29年(1422)常陸小栗の城主、判官満重が、足利持氏に攻められて落城、その子判官助重が、家臣10人と三河に逃げのびる途中、この藤沢で横山太郎に毒殺されかけたが、妓女照手が助重らを逃がし、一行は遊行上人に助けられた。その後、助重は家名を再興し、照手を妻に迎えた。助重の死後、照手は髪を落とし長生尼と名のり、助重と家臣10人の墓を守り、余生を長生院で過ごしたとされる。




小栗判官と家臣10人の墓。


照手姫の墓。


照手姫が建立した地蔵。


■遊行寺橋
遊行寺の入り口にある朱塗りの橋。橋の右側に高札場、左側に江の島弁財天の一番目の遙拝鳥居と道標があり、江の島道の起点でもあった。




■おまけ


藤沢市内のマンホールのふた。東海道の松並木を意識しているのか松が描かれる。


同じく藤沢市内のマンホールのふた。藤沢の「藤」にちなむのだろうか。


2010年11月7日 東海道散歩6(戸塚宿、藤沢宿)イベント主催(その2)

2010年11月16日 | 東海道徒歩の旅
(その1はこちら


■石塔群
江戸時代の庚申塔が7基並ぶ。
    



■大坂
江戸時代には難所だった坂だが、坂の上の松並木からすばらしい富士山が眺められることから多くの浮世絵の画題となった。昭和7年(1932)の坂の改修工事によりなだらかな長い坂になった。松並木が道路の中央部に残る。
街道の並木は、風や雪、日差しから旅人を守り、風雨や日差しから街道そのものを保護するために設けられた。並木には、海に近い場所では松、箱根では杉、とその土地の自然環境に適した木が選ばれた。






江戸時代の大坂。


松並木。


■「お軽勘平戸塚山中道行の場」の碑
歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」のお軽勘平の「戸塚道行」にちなんで作られた碑。




■原宿一里塚跡
日本橋から11番目の一里塚の跡。明治9年(1876)に里程標の杭を立てる際に取り払われた。案内板と「一里山」の地名がその名残をとどめる。




■浅間神社
室町時代・永禄年間(1558~1570)創建。参道には樹齢600年を越えるといわれるスダジイの木が並ぶ。




スダジイの木が並ぶ参道。




■影取池・鉄砲宿
いずれも人の影を飲む大蛇の伝説にまつわる場所。

伝説によると、遊行寺近くの、森というお金持ちの家で、大きな蛇が飼われていた。「おはん」と呼ばれ、かわいがられていたが、あまりの大食いのため、たまりかねた家人が近くの池に捨てた。

空腹の蛇は、池の水に映る旅人の影を飲み込んで飢えをしのぐようになった。次第に、「池のそばを通ると大蛇に影を取られ、命を失う」との噂が広まった。困りはてた村人たちは、鉄砲の名人に頼んで退治することにした。

鉄砲の名人は池から離れたところに小屋を作って貰い様子をうかがっていたが、大蛇は用心してなかなか姿を現さなかった。そこで名人は、飼われていたころの呼び名を聞き、池に向かって「おはんさん」と声をかけた。森家から迎えが来たと思い喜んで姿を現した大蛇は、名人に撃ち殺されてしまった。

それ以来、大蛇が住んでいた池を影取池、名人の小屋のあったところを鉄砲宿と呼ぶようになった。影取池は諏訪神社の境内の裏にあったといわれる。


「影取町」の信号。


諏訪神社。


「鉄砲宿」の信号。


「鉄砲宿」のバス停。


■松並木跡
「旧東海道松並木跡」の石碑と松の木が残る。このあたりの東海道沿いの松並木は、昭和35年(1960)ごろから猛威を振るった松喰い虫により大半が枯れて失われてしまった。


「旧東海道松並木跡」の碑。


巨大な松の木。


■一里塚跡
江戸から12番目の一里塚跡。江戸時代の遊行寺坂は現在のものに比べはるかに急な坂で、崖上の高さに東海道があり、その両脇に一里塚が設けられていた。現在の道路は旧東海道を掘削改修したもので、一里塚は残っていない。




■藤沢宿
日本橋から12里18町(49.0キロメートル)の距離にあった江戸から6番目の宿場。前の宿場の戸塚宿から2里(約7.9キロメートル)、次の宿場の平塚宿へは3里18町(約13.7キロメートル)あった。天保14年(1843)の記録によると人口4,089人、家数919軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒。
藤沢は鎌倉時代から時宗総本山、遊行寺の門前町として栄えており、慶長6年(1601)の宿場の成立でさらに発展した。門前町としてはもちろんのこと、江の島や大山への分岐点としても賑わった。



歌川広重「東海道五十三次 藤沢」が描かれた看板。


■江戸方見付跡
宿場の江戸側の出入口跡。




■諏訪神社
南北朝時代・建武2年(1335)創建。遊行寺を創建した呑海上人が諸国遊行の際に信州諏訪から勧請。明治維新の神仏分離により遊行寺から独立。





2010年11月7日 東海道散歩6(戸塚宿、藤沢宿)イベント主催(その1)

2010年11月15日 | 東海道徒歩の旅
この日は東海道散歩の6回目で、戸塚駅から藤沢駅まで東海道沿いを歩いた。参加者は管理人も含め10名で、男性5名、女性5名(参加者の皆様、ありがとうございました)。

天気に恵まれ、昼間は上着を脱いで歩いてちょうどよいくらいの暖かさだった。都心から離れたコースにもかかわらず遠方からの参加者が多くて驚いた。

今日歩いた東海道には大坂、遊行寺坂と大きな坂があり歩きがいがあった。大坂から西に進むと松並木の一部がところどころに残っていた。今後も残ってほしいものだ。

遊行寺は広い寺院だった。シンボルの巨大いちょうが見事。もう少したてばいちょうが黄色く色づいてきれいだろう。春はいろは坂や本堂周辺の桜に彩られて風情があることと思われる。


【コース】
戸塚駅→清源院→内田本陣跡→脇本陣跡→澤邊本陣跡→八坂神社→富塚八幡宮→上方見付跡→石塔群→大坂→「お軽勘平戸塚山中道行の場」の碑→原宿一里塚跡→浅間神社→影取池・鉄砲宿→松並木跡→一里塚跡→江戸方見付跡→諏訪神社→遊行寺→長生院→遊行寺橋→藤沢駅


(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)


■戸塚宿
日本橋から10里18町(41.2キロメートル)の距離にあった江戸から5番目の宿場。隣宿の保土ケ谷宿、藤沢宿より3年遅れて慶長9年(1604)に成立。前の宿場の保土ケ谷宿から2里9町(約8,8キロメートル)、次の宿場の藤沢宿へは2里(約7.9キロメートル)あった。戸塚宿は現在の戸塚駅を中心とした約2.2キロメートルの範囲にあった。

天保14年(1843)の記録によると人口2,906人、家数613軒、本陣2軒、 脇本陣3軒、旅籠75軒。

戸塚宿は慶長9年(1604)に成立。当時の一般的な旅の一日の行程は、夜が明けないうちに出発し10里(約40キロメートル)歩き、夕暮れには宿に入るというものだった。戸塚宿は当時の旅人にとってちょうどよい距離にあったため、江戸から出発した日に
宿泊する旅人で大変賑わった。さらに大山道と鎌倉往還との分岐点でもあり、大山への参拝客や鎌倉の古寺を訪れる人にも高い人気を誇っていた。


戸塚駅構内にある、歌川広重の「東海道五十三次 戸塚」を描いた壁画。


戸塚駅近くのマンホールのふた。江戸時代の戸塚宿を現代のマラソンランナーが駆け抜ける。


■清源院
江戸時代・元和6年(1620)、徳川家康の側室だった於万の方が、家康の菩提を弔うため、廃絶していた寺を再興。




芭蕉句碑。「世の人の 見つけぬ花や 軒のくり」が刻まれる。


心中句碑。「井にうかふ 番ひの果てや 秋の蝶」が刻まれる。戸塚宿で、飯盛女ヤマと若い町人清三郎がそろって井戸に身を投げる心中事件が起こった。文久3年(1863)、二人をしのぶ句碑が建てられた。


■内田本陣跡
本陣は勅使や、公家、大名、幕府の公用旅行者などが宿泊・休憩するための施設。戸塚宿には2軒あった。内田本陣は間口18間(32.8メートル)、奥行14間(25.5メートル)、畳数は152枚もあった。




■脇本陣
本陣が混雑した際、本陣の代わりに利用された宿泊・休息施設。戸塚宿には3軒あった。




■澤邊本陣跡
戸塚宿のもう一つの本陣。本陣創設時の当主の澤邊宗三は戸塚宿の開設に当たって幕府に強く働きかけた功労者。明治天皇の東下の折には行在所となった。




■八坂神社
戸塚宿の鎮守の一つで「お天王さま」と呼ばれ親しまれる神社。
室町時代・元亀3年(1572)に牛頭天王社を勧請したのが始まりと言われる。毎年14日に行われる「お札まき」は、女装した10数人の男性が歌いながら町内を歩き、5色のお札をウチワであおって舞わせるという珍しい行事で、横浜市指定無形民俗文化財。






■富塚八幡宮
戸塚の総鎮守で、ご祭神は誉田別命(ほむだわけのみこと)(応神天皇)と富属彦命(とつきひこのみこと)。平安時代・康平5年(1062)、前九年の役平定のため源頼義・義家父子が遠征の途中、この地で野営したところ、応神天皇の神託を得、戦に勝利したことに感謝し、延久4年(1072)に創建したとされる。
山頂の古墳は富属彦命の墳墓とされ、富塚(とみづか)と呼ばれており、「とつか」の地名の由来になったとも言われる。






富塚。


芭蕉句碑。江戸時代・嘉永2年(1849)地元の俳人達が建立。「鎌倉を 生きて出けむ 初松魚」が刻まれる。


■上方見付跡
宿場の京都(上方)側の出入口跡。現在は道の両側に1.5メートルほどの囲いが設けられ、昔と同じように京都に向かって左に松の木、右に楓の木が植えられている。


松の木。


楓の木。