奥州街道徒歩の旅2日目は、喜連川本町バス停から鍋掛十文字まで30キロ程度歩いた後、街道から外れ黒磯駅駅まで追加で4キロ程度歩いた。
歩いた宿場は、喜連川宿、佐久山宿、大田原宿。
喜連川本町バス停下車後、街道を外れて江戸時代に造られた用水路の御用堀を見に行った。
御用堀のある一角は、昔の面影を残した落ち着いたたたずまいだった。
宿内には、大正時代の旧喜連川興業銀行や明治時代の旧喜連川郵便局の建物、古民家が残っていた。
本陣跡は、街の駅本陣という観光施設で、建物が大正時代の旧喜連川警察署だった。
街道から復元された喜連川城の大手門が見えた。
大田原市に入ると、源平の戦いの一つ、屋島の戦いで平家の扇の的を弓で射落とした那須与一の出身地とあって、ところどころ「那須与一の里」「与一の里」と書かれた表示を見かけた。
マンホールのふたには馬に乗って海に入り、弓を弾く那須与一が描かれていた。
佐久山宿では、宿場の名残となるものがなく「旧奥州道中 佐久山宿下町」と刻んだ石碑が宿場だったことを示していた。
「運用膏」と書かれた古い吊るし看板を下げた、かつて薬屋だったと思われる民家もあった。
大田原宿では「旧奥州道中」の石碑がところどころに設置されていた。
宿場の中心部にある金灯籠ポケット公園には、江戸時代に建てられ戦時中に供出し姿を消した金灯籠が、有志により再現されていた。
公園には、奥の細道の黒羽に向かう途中の描写を刻んだ石碑も置かれていた。
かつて芭蕉が歩いた道を歩んでいると思うと感慨深かった。
大田原宿から鍋掛十文字までの街道沿いには、街道の名残を残すものとして片側の塚が残った中田原一里塚、奥州街道と棚倉街道の追分にあった道標、道路拡張工事等により片側の塚のみ移動された鍋掛一里塚があった。
鍋掛に向かう途中の田園地帯を進んでいるあたりで徐々に日が傾いてきた。
八幡太郎義家のゆかりの葛籠石、愛馬蹄跡を残す石がある樋沢神社に到着したころにはあたりは薄暗かった。
このあたりの街道沿いは民家が少ないので、日が暮れてから一人で歩くのは心細くなる。
鍋掛十文字には黒磯駅行きのバス停があったが、16時台で最終バスが出たので駅まで歩いた。
■写真一覧
http://blog.goo.ne.jp/photo/263311/tn
■スライドショー
http://blog.goo.ne.jp/photo/263311/sl
歩いた宿場は、喜連川宿、佐久山宿、大田原宿。
喜連川本町バス停下車後、街道を外れて江戸時代に造られた用水路の御用堀を見に行った。
御用堀のある一角は、昔の面影を残した落ち着いたたたずまいだった。
宿内には、大正時代の旧喜連川興業銀行や明治時代の旧喜連川郵便局の建物、古民家が残っていた。
本陣跡は、街の駅本陣という観光施設で、建物が大正時代の旧喜連川警察署だった。
街道から復元された喜連川城の大手門が見えた。
大田原市に入ると、源平の戦いの一つ、屋島の戦いで平家の扇の的を弓で射落とした那須与一の出身地とあって、ところどころ「那須与一の里」「与一の里」と書かれた表示を見かけた。
マンホールのふたには馬に乗って海に入り、弓を弾く那須与一が描かれていた。
佐久山宿では、宿場の名残となるものがなく「旧奥州道中 佐久山宿下町」と刻んだ石碑が宿場だったことを示していた。
「運用膏」と書かれた古い吊るし看板を下げた、かつて薬屋だったと思われる民家もあった。
大田原宿では「旧奥州道中」の石碑がところどころに設置されていた。
宿場の中心部にある金灯籠ポケット公園には、江戸時代に建てられ戦時中に供出し姿を消した金灯籠が、有志により再現されていた。
公園には、奥の細道の黒羽に向かう途中の描写を刻んだ石碑も置かれていた。
かつて芭蕉が歩いた道を歩んでいると思うと感慨深かった。
大田原宿から鍋掛十文字までの街道沿いには、街道の名残を残すものとして片側の塚が残った中田原一里塚、奥州街道と棚倉街道の追分にあった道標、道路拡張工事等により片側の塚のみ移動された鍋掛一里塚があった。
鍋掛に向かう途中の田園地帯を進んでいるあたりで徐々に日が傾いてきた。
八幡太郎義家のゆかりの葛籠石、愛馬蹄跡を残す石がある樋沢神社に到着したころにはあたりは薄暗かった。
このあたりの街道沿いは民家が少ないので、日が暮れてから一人で歩くのは心細くなる。
鍋掛十文字には黒磯駅行きのバス停があったが、16時台で最終バスが出たので駅まで歩いた。
■写真一覧
http://blog.goo.ne.jp/photo/263311/tn
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