生姜ちくわのぶらぶら山日記

趣味の登山を中心としたブログです。2014年11月より日本百名山登山開始、2018年9月23日全座登頂。

2010年10月17日 東海道散歩(保土ケ谷宿、戸塚宿)5イベント主催(その4)

2010年10月28日 | 東海道徒歩の旅
(その3はこちら


■王子神社
祭神は大塔宮護良親王。護良親王は後醍醐天皇の皇子で仏門に入り、天台座主となったが還俗、父後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒に尽くしたが、後に足利尊氏と対立、尊氏の弟の直義により殺害された。本殿下に親王の首が葬られたと伝えられる。






■大山道の不動堂
江戸時代の大山詣での大山道の入り口だった。不動堂には正徳3年(1713)建立の不動明王像が祀られる。不動堂の前には「従是大山道」と刻まれた道標や庚申塔などがある。


不動堂。


「従是大山道」の道標。


■モチノキ
県の天然記念物に指定された樹齢300年以上樹高19メートル、18メートルの2本のモチノキで、益田家の敷地内にある。




■護良親王首洗井戸
鎌倉で殺された護良親王の首を侍女がその首を夜中に盗み取り、この地の豪族、斎藤氏に救いを求め、逃れてきた。そして、その首を井戸で洗って清め、近くの王子神社に葬ったと伝えられる。


この石碑の近くにあるようなので、下見の際に周辺を探し回ったがとうとうたどり着けず。当日は説明のみで省略。


■旧鎌倉ハム倉庫
明治10年代中ごろ、日本人によるハムの製造がこの地で初めて行われた。当時戸塚は鎌倉郡に属していたことから、ハムは「鎌倉ハム」として全国的に知られるようになった。赤レンガの倉庫は明治20年代の建造でハムの冷蔵に使われた。




■戸塚宿
日本橋から10里18町(41.2キロメートル)の距離にあった江戸から5番目の宿場。隣宿の保土ケ谷宿、藤沢宿より3年遅れて慶長9年(1604)に成立。前の宿場の保土ケ谷宿から2里9町(約8,8キロメートル)、次の宿場の藤沢宿へは2里(約7.9キロメートル)あった。戸塚宿は現在の戸塚駅を中心とした約2.2キロメートルの範囲にあった。天保14年(1843)の記録によると人口2,906人、家数613軒、本陣2軒、 脇本陣3軒、旅籠75軒。

戸塚宿は慶長9年(1604)に成立。当時の一般的な旅の一日の行程は、夜が明けないうちに出発し10里(約40キロメートル)歩き、夕暮れには宿に入るというものだった。戸塚宿は当時の旅人にとってちょうどよい距離にあったため、江戸から出発した日に
宿泊する旅人で大変賑わった。さらに大山道と鎌倉往還との分岐点でもあり、大山への参拝客や鎌倉の古寺を訪れる人にも高い人気を誇っていた。


■江戸方見付跡
宿場の江戸側の出入口跡。




■妙秀寺
日蓮宗の寺院。境内には延宝年間(1673~1681)の「かまくら道」道標があり、歌川広重の「東海道五十三次」に描かれた吉田大橋のたもとの道標といわれる。




工事中の境内。


道標。


■一里塚跡
日本橋から10番目の一里塚。跡地には説明版が設置されている。




■吉田大橋
歌川広重の「東海道五十三次」シリーズでも描かれた柏尾川にかかる橋。現在の橋は昭和61年に架け替えられたもの。




柏尾川。

2010年10月17日 東海道散歩5(保土ケ谷宿、戸塚宿)イベント主催(その3)

2010年10月27日 | 東海道徒歩の旅
(その2はこちら


■権太坂
江戸からの最初の難所だった坂。坂の名前の由来は、旅人が老人に坂の名前を尋ねたところ、自分の名前を聞かれたと思い「権太」と答えたという説と、藤田権左衛門という開発者の名前から「権左坂」と呼ばれていたものが転じたという説がある。当時は険しい上り坂が長く続き旅人を困らせたが、松並木が続き景色も良かったため多くの浮世絵に描かれた。権太坂は、昭和30年代に宅地開発が進むまで往時の街道の面影を残していた。


権太坂入り口。


権太坂陸橋。


昭和初期の権太坂。写真を見るからに当時は未舗装だったようだ。雨が降ったらとても歩きにくかっただろう。


■権太坂改修記念碑
昭和30年(1955)、当時の横浜市長・平沼亮三氏により1500坪の道路用地の寄贈を受けて権太坂の改修が行われた事を記念して建立。




■投込塚
江戸時代、権太坂の途中に行き倒れた人や馬を葬った投込塚があった。投込塚は昭和30年代に宅地開発で取り除かれ、枯骨は戸塚区平戸町の東福寺に改葬され、供養のためにこの碑が建てられた。




■境木立場跡
立場は宿場と宿場の間に置かれた人や馬が休憩する場所で、旅人が多くなるにつれて茶屋が営まれた。保土ケ谷宿と戸塚宿の間には権太坂、焼餅坂、品濃坂などの難所があり、境木と上柏尾村に立場があった。境木の立場茶屋の名物は牡丹餅。「江戸名所図会」に茶屋で休む旅人など当時のにぎやかな様子が描かれている。

境木の地名の由来は、武蔵国と相模国の国境に傍示杭またはケヤキの木があったことからといわれる。平成17年に境木地蔵堂前の広場に武相国境モニュメントが建てられた。


説明板。


シャッターに描かれた初代歌川広重「五十三次名所図会 五 程ケ谷 境木立場 鎌倉山眺望」


武相国境モニュメント。


■境木地蔵
万治2年(1659)頃の建立と言われ、鎌倉の腰越海岸に流れ着いた地蔵が自身の希望により江戸に運ばれていく途中に境木が気に入ってその場で動かなくなり、村人がお堂を立てて祀ったところ村が大変栄えたとの言い伝えがある。






■萩原代官屋敷道場跡
直心影流の達人として知られた代官、萩原行篤の道場跡。安政5年(1858)に、後に新選組の隊長となった近藤勇が訪れるなど、全国各地からの剣客でにぎわったといわれる。今も武家屋敷門と蔵が残る。


武家屋敷門。


道場跡の竹薮。


■焼餅坂
当時の品濃村と平戸村の境にあった坂で、坂の傍らの茶店で焼餅を商っていたことから焼餅坂と名づけられたといわれる。




■品濃一里塚
江戸から9番目の一里塚。神奈川県内で唯一ほぼ完全な形で残る一里塚で、神奈川県文化財に指定。


西側の一里塚。脇の階段を上がると品濃一里塚公園になっている。一里塚は5間(約9メートル)四方の大きな塚で、東海道を歩く旅人の目を引いたに違いない。


東側の一里塚。私有地のため立ち入り禁止。


■品濃坂
朝早く江戸から出発した旅人にとっては宿泊地の戸塚宿までもう一歩の場所のところだった。現在は環状2号線によって分断され、品濃坂歩道橋がかろうじて坂の東西をつなぐ。


品濃坂歩道橋。


分断された品濃坂。

2010年10月17日 東海道散歩5(保土ケ谷宿、戸塚宿)イベント主催(その2)

2010年10月26日 | 東海道徒歩の旅
(その1はこちら


■問屋場跡
公用で旅をする人達の便をはかるため人足と伝馬を常備し次の宿場まで提供した継立業務、幕府の荷物や手紙を次の宿場に送る飛脚業務の他、大名の出迎えや宿場業務の監督等を行った事務所。




■高札場跡
幕府の御法度や掟等を掲げた施設で、隣の宿場までの荷物の運搬料金や旅籠屋の宿泊料等を細かく記載した高札も掲げられていた。宝暦13年(1763)に普請された保土ケ谷宿の高札場は幅2間半(約4.5m)高さ1丈(約3m)の規模だった。




■金沢横丁の道標
東海道と金沢道の分岐点、「金沢横丁」には4基の道標が並ぶ。金沢道には円海山、杉田、富岡など信仰や観光の地があった。


向かって右から1番目の道標は天明3年(1783)建立で、「円海山之道」「かなさわ・かまくらへ通りぬけ」と刻まれる。
2番目のは天和2年(1682)建立で、正面に「かなさわ・かまくら道」、左面に「ぐめうし(弘明寺)道」と刻まれる。
3番目のは文化11年(1814)建立で、左面には「梅の名所杉田への道」、正面には其爪の句「程ケ谷の枝道曲れ梅の花」が刻まれる。
4番目のは弘化2年(1845)の建立で、「ほうそう(疱瘡)神富岡の芋大明神への道」と刻まれる。


■本陣跡
本陣は勅使や、公家、大名、幕府の公用旅行者などが宿泊・休憩するための施設。保土ケ谷宿では代々苅部家が本陣職を務めた。苅部家は明治3 年(1870) に「軽部」姓に改姓、現在にいたる。本陣跡には当時を偲ばせる門や土蔵が残る。


門。


本陣復元想像図。


交差点の表示にも「本陣跡」と書かれている。


■脇本陣
本陣が混雑した際、本陣の代わりに休息・宿泊した施設。保土ケ谷には藤屋・水屋・大金子屋の3軒の脇本陣があった。


水屋跡。現在は消防出張所。


消防出張所にあった顔ハメ看板。


■旅籠本金子屋跡
江戸時代に栄えた旅籠。現在の建物は明治2 年(1869) の建築で、格子戸や通用門が当時の旅籠の雰囲気を伝えている。




■大仙寺
平安中期(970年頃)創建と伝えられる真言宗の寺院。本陣を務めた軽部家の菩提寺で、保土ケ谷区内で最も古い寺の一つ。






■茶屋本陣跡
大名や公家等が休息した施設。


茶屋本陣跡は住宅になっている。


■一里塚跡
日本橋から8番目の一里塚。平成18 年に小型の一里塚が復元されている。近くには松並木も復元されている。


復元された一里塚。


復元された松並木。


■上方見付跡
宿場の京都(上方)側の出入口跡。


復元された上方見付。土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしている。


■外川神社
明治2年(1869)保土ケ谷宿の湯殿山講中の先達が、この地に羽黒山麓の「外川仙人大権現」の分霊を祀ったのがはじまりで、境内にある道祖神は虫封じ・航海安全にご利益があるとされてきた。境内には、横浜市の名木・古木に指定されているケヤキがある。




ケヤキ。

2010年10月17日 東海道散歩5(保土ケ谷宿、戸塚宿)イベント主催(その1)

2010年10月25日 | 東海道徒歩の旅
この日は東海道散歩の5回目で、横浜駅から戸塚駅までの東海道を歩いた。当初の開催日が雨により中止となり、開催日を翌週に振り替えたが、天気に恵まれ無事開催できたのでよかった。

参加者は管理人も含め5名で、男性2名、女性3名(参加者の皆様、ありがとうございました)。

この日のコースは大きな坂道があり、普段よりも距離の長いきつめのコースだった。これまでの東海道散歩では平地を歩くことがほとんどだったので、この日のコースは坂道があり地形に変化があっておもしろかった(疲れもしたが・・・)。権太坂を上るのはなかなかいい運動になった。坂を上り終えた後の爽快感はいいものだ。今のように舗装されておらず改修前で勾配がきつかった権太坂を上りきった江戸時代の旅人が味わった爽快感は今以上のものだったと思う。

日本橋を出発して5回目でやっと戸塚宿に到達したが、江戸時代の旅人は一日で戸塚宿までたどり着いたのだから彼らの健脚ぶりにはただただ圧倒されるばかりだ。いずれ朝早く日本橋を出発して一日東海道をひたすら歩くイベントをやってみたい。


【コース】
横浜駅→勧行寺→浅間神社→追分→江戸方見付跡→橘樹神社→旧帷子橋跡→助郷会所跡→問屋場跡→高札場跡→金沢横丁の道標→本陣跡→脇本陣→旅籠本金子屋跡→大仙寺→茶屋本陣跡→一里塚跡→上方見付跡→外川神社→権太坂→ 権太坂改修記念碑→投込塚→境木立場跡→境木地蔵→萩原代官屋敷道場跡→焼餅坂→品濃一里塚→品濃坂→王子神社→大山道の不動堂→モチノキ→護良親王首洗井戸→旧鎌倉ハム倉庫→江戸方見付跡→妙秀寺→一里塚跡→吉田大橋→戸塚駅解散


(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)


■勧行寺
文禄4年(1595)日養が開山の法華宗の寺院。




近藤内蔵助長裕の墓。天然理心流という剣法の開祖で、新撰組の隊長として名を残した近藤勇はその4代目にあたる。


■浅間神社
承暦4年(1080)創建。旧芝生村(しぼうむら)鎮守。社殿のある丘は、「袖摺山と呼ばれ、昔は山の下がすぐに波打ち際であったといわれる。丘の斜面には古代の横穴墓があり、「富士の人穴」と呼ばれ富士山に通じている穴と信じられ江戸時代には東海道の旅人の見物する名所だった。現在は開発により見ることができなくなった。






「江戸名所図会」に描かれた浅間神社。


■追分
東海道と八王子道の分岐点で、芝生の追分と呼ばれた。八王子道はここを起点とし甲州街道の八王子宿まで延びていた道で、安政6年(1859)の横浜開港後は八王子方面から横浜へ絹が運ばれ「絹の道」と呼ばれた。


向かって左側が東海道、右側が八王子道。


■保土ケ谷宿
日本橋から8里9町(約32.4キロメートル)のところにあった、江戸から4番目の宿場。前の宿場の神奈川宿から1里9町(約4.9キロメートル)、次の宿場の戸塚宿へは2里9町(約8.8キロメートル)あった。宿場の長さは約2キロメートルで、天保14年(1843)の記録によると、人口2,928人、家数558軒、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠67軒。

慶長6年(1601)の宿場設置当時には、東海道は現在よりも西北の位置を通り、宿場も権太坂に近い元町にあった。慶安元年(1648)に東海道のルートの変更に伴い宿場も現在地に移転したが、東海道のルート変更の理由や、変更前の正確なルートはわかっていない。

成人男性が1日に10里(約40キロメートル)ほど歩いた当時、江戸から出発した最初の日は次の戸塚宿で宿泊することが多かったが、体力のない女性や高齢者、出発の遅くなった旅人は保土ケ谷宿に宿泊した。


保土ケ谷宿とその周辺の地図。


歌川広重の「東海道五十三次 程か谷(保土ケ谷)」が描かれたシャッター。


車止めの先端が裃を着た武士の胸像になっている。


東海道の歩道のタイル。


■江戸方見付跡
宿場の江戸側の出入口跡。




■橘樹神社
創建は鎌倉時代・文治2年(1186)。江戸時代は牛頭天王社といい天王町の由来となる。大正時代に現在の橘樹神社となった。






青面金剛庚申塔。寛文9 年(1669)の庚申塔で横浜市内最古といわれる。


■旧帷子橋跡
東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた橋で、橋の長さは15間(約27m)、幅は3間(約5.4m)あった。当時大きな橋が少なかった東海道では帷子橋は保土ケ谷宿を代表する風景の一つとなり、浮世絵に描かれたり、歌や俳句に詠まれた。 中でも初代広重の東海道五十三次シリーズとして描かれたものは有名。

当時の帷子川は天王町駅の南側を流れていたが、氾濫が激しいため昭和40年頃の改修工事で駅の北側を流れるようになった。かつて帷子橋のあった天王町駅前公園には旧帷子橋のモニュメントが建てられている。


旧帷子橋のモニュメント。


「江戸名所図会」に描かれた旧帷子橋。


現在の帷子橋。


■助郷会所跡
宿場で賄いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員する手続きをした事務所。