(その3はこちら)
■王子神社
祭神は大塔宮護良親王。護良親王は後醍醐天皇の皇子で仏門に入り、天台座主となったが還俗、父後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒に尽くしたが、後に足利尊氏と対立、尊氏の弟の直義により殺害された。本殿下に親王の首が葬られたと伝えられる。
■大山道の不動堂
江戸時代の大山詣での大山道の入り口だった。不動堂には正徳3年(1713)建立の不動明王像が祀られる。不動堂の前には「従是大山道」と刻まれた道標や庚申塔などがある。
不動堂。
「従是大山道」の道標。
■モチノキ
県の天然記念物に指定された樹齢300年以上樹高19メートル、18メートルの2本のモチノキで、益田家の敷地内にある。
■護良親王首洗井戸
鎌倉で殺された護良親王の首を侍女がその首を夜中に盗み取り、この地の豪族、斎藤氏に救いを求め、逃れてきた。そして、その首を井戸で洗って清め、近くの王子神社に葬ったと伝えられる。
この石碑の近くにあるようなので、下見の際に周辺を探し回ったがとうとうたどり着けず。当日は説明のみで省略。
■旧鎌倉ハム倉庫
明治10年代中ごろ、日本人によるハムの製造がこの地で初めて行われた。当時戸塚は鎌倉郡に属していたことから、ハムは「鎌倉ハム」として全国的に知られるようになった。赤レンガの倉庫は明治20年代の建造でハムの冷蔵に使われた。
■戸塚宿
日本橋から10里18町(41.2キロメートル)の距離にあった江戸から5番目の宿場。隣宿の保土ケ谷宿、藤沢宿より3年遅れて慶長9年(1604)に成立。前の宿場の保土ケ谷宿から2里9町(約8,8キロメートル)、次の宿場の藤沢宿へは2里(約7.9キロメートル)あった。戸塚宿は現在の戸塚駅を中心とした約2.2キロメートルの範囲にあった。天保14年(1843)の記録によると人口2,906人、家数613軒、本陣2軒、 脇本陣3軒、旅籠75軒。
戸塚宿は慶長9年(1604)に成立。当時の一般的な旅の一日の行程は、夜が明けないうちに出発し10里(約40キロメートル)歩き、夕暮れには宿に入るというものだった。戸塚宿は当時の旅人にとってちょうどよい距離にあったため、江戸から出発した日に
宿泊する旅人で大変賑わった。さらに大山道と鎌倉往還との分岐点でもあり、大山への参拝客や鎌倉の古寺を訪れる人にも高い人気を誇っていた。
■江戸方見付跡
宿場の江戸側の出入口跡。
■妙秀寺
日蓮宗の寺院。境内には延宝年間(1673~1681)の「かまくら道」道標があり、歌川広重の「東海道五十三次」に描かれた吉田大橋のたもとの道標といわれる。
工事中の境内。
道標。
■一里塚跡
日本橋から10番目の一里塚。跡地には説明版が設置されている。
■吉田大橋
歌川広重の「東海道五十三次」シリーズでも描かれた柏尾川にかかる橋。現在の橋は昭和61年に架け替えられたもの。
柏尾川。
■王子神社
祭神は大塔宮護良親王。護良親王は後醍醐天皇の皇子で仏門に入り、天台座主となったが還俗、父後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒に尽くしたが、後に足利尊氏と対立、尊氏の弟の直義により殺害された。本殿下に親王の首が葬られたと伝えられる。
■大山道の不動堂
江戸時代の大山詣での大山道の入り口だった。不動堂には正徳3年(1713)建立の不動明王像が祀られる。不動堂の前には「従是大山道」と刻まれた道標や庚申塔などがある。
不動堂。
「従是大山道」の道標。
■モチノキ
県の天然記念物に指定された樹齢300年以上樹高19メートル、18メートルの2本のモチノキで、益田家の敷地内にある。
■護良親王首洗井戸
鎌倉で殺された護良親王の首を侍女がその首を夜中に盗み取り、この地の豪族、斎藤氏に救いを求め、逃れてきた。そして、その首を井戸で洗って清め、近くの王子神社に葬ったと伝えられる。
この石碑の近くにあるようなので、下見の際に周辺を探し回ったがとうとうたどり着けず。当日は説明のみで省略。
■旧鎌倉ハム倉庫
明治10年代中ごろ、日本人によるハムの製造がこの地で初めて行われた。当時戸塚は鎌倉郡に属していたことから、ハムは「鎌倉ハム」として全国的に知られるようになった。赤レンガの倉庫は明治20年代の建造でハムの冷蔵に使われた。
■戸塚宿
日本橋から10里18町(41.2キロメートル)の距離にあった江戸から5番目の宿場。隣宿の保土ケ谷宿、藤沢宿より3年遅れて慶長9年(1604)に成立。前の宿場の保土ケ谷宿から2里9町(約8,8キロメートル)、次の宿場の藤沢宿へは2里(約7.9キロメートル)あった。戸塚宿は現在の戸塚駅を中心とした約2.2キロメートルの範囲にあった。天保14年(1843)の記録によると人口2,906人、家数613軒、本陣2軒、 脇本陣3軒、旅籠75軒。
戸塚宿は慶長9年(1604)に成立。当時の一般的な旅の一日の行程は、夜が明けないうちに出発し10里(約40キロメートル)歩き、夕暮れには宿に入るというものだった。戸塚宿は当時の旅人にとってちょうどよい距離にあったため、江戸から出発した日に
宿泊する旅人で大変賑わった。さらに大山道と鎌倉往還との分岐点でもあり、大山への参拝客や鎌倉の古寺を訪れる人にも高い人気を誇っていた。
■江戸方見付跡
宿場の江戸側の出入口跡。
■妙秀寺
日蓮宗の寺院。境内には延宝年間(1673~1681)の「かまくら道」道標があり、歌川広重の「東海道五十三次」に描かれた吉田大橋のたもとの道標といわれる。
工事中の境内。
道標。
■一里塚跡
日本橋から10番目の一里塚。跡地には説明版が設置されている。
■吉田大橋
歌川広重の「東海道五十三次」シリーズでも描かれた柏尾川にかかる橋。現在の橋は昭和61年に架け替えられたもの。
柏尾川。