生姜ちくわのぶらぶら山日記

趣味の登山を中心としたブログです。2014年11月より日本百名山登山開始、2018年9月23日全座登頂。

2010年7月4日 宇都宮散歩イベント主催(その2)

2010年07月20日 | 都外散歩イベント主催
(その1はこちら


■大谷石
宇都宮市大谷町付近に分布する緑色凝灰岩。今から約2,400万年前に海底火山の噴出物によって海底で生成されたとされており、大谷町付近に厚さ約300mにわたって堆積。やわらかく加工が容易なため、古くは古墳の石室の材料として、近世以降には屋根や壁などの建築用材として重宝され、全国に「大谷石」の名で知られた。近世から近代にかけては紀行文、絵葉書、絵画、俳句等を通じて自然の奇岩群と松がみごとに調和した景観が紹介され「陸の松島」として全国に知られた。


■越路岩
「陸の松島」を代表する奇岩で、国名勝に指定。




■奇岩群











■大谷資料館
大谷石の採掘の歴史を紹介する資料館で、地下には約2万平米の地下採石場跡が広がる。地下採石場跡の最深部は60m、平均気温は13℃。地下採石場跡は昭和20年(1945)には中島飛行機(現:富士重工)の地下軍需工場として、昭和44年(1969)には政府米の保管庫として利用されたが、昭和54年(1979)に一般公開。現在は幻想的で迫力のある空間を生かし、コンサートや演劇、美術展などの会場としても利用される。


駐車場にあった奇岩。穴のあき方が斬新。


地下採石場跡に向かう階段。


資料館ホームページの地下採石場跡の写真。下見時は雨が降っていて湿度が高かったせいか、思うように写真が取れなかった。地下採石場跡の様子はGoogle画像検索の写真を見るとよく分かる。


■景観公園
大谷寺の背後にある国指定名勝の御止山が一望できる公園。




■大谷寺
弘仁元年(810)弘法大師による開基として伝えられる天台宗の寺院。本堂は洞窟に包み込まれ、独特の景観。本堂には平安時代~鎌倉時代に大谷石の岩壁に彫られた10体の磨崖仏があり、国の特別史跡と重要文化財の二重指定を受けている。本尊の「大谷観音」は平安時代の高さ4mの千手観音で、日本最古の磨崖仏。宝物殿には洞窟から出土した縄文時代の人骨が展示。




本堂。堂内の磨崖仏は写真撮影禁止。洞窟がサルバドール・ダリの絵に出てきそうな形をしている。


■大谷公園
昭和31年(1956)開園の採石場跡を利用した公園で、石像や奇岩、採石場跡がある。






平和観音。自然の岩壁に彫られた高さ27mの観音像で大谷町のシンボル。戦没者の慰霊と世界平和を祈念し昭和23年(1948)より6年をかけ、総手彫りで製作された。平和観音の裏側の展望台からは大谷の町が一望できる。


親子がえる。住民を蝗から救ったとの伝説のあるかえるの親子。


スルス岩。巨大な石臼に似た岩。


天狗の投石。天狗が投げたという伝説の残る岩。


■その他


大久保石材店。


株式会社屏風岩。


紫陽花と大谷石。


岩壁をくりぬいた門。

2010年7月4日 宇都宮散歩イベント主催(その1)

2010年07月19日 | 都外散歩イベント主催
翌日が祝日のこの日は、遠出をして栃木県宇都宮市を散歩した。市内中心部を散策、名物の餃子に舌鼓を打った後、石の里大谷で幻想的な巨大地下採掘場跡や様々な奇岩といった独特の世界を楽しんだ。この日はとても暑い日で、昼食に餃子をしっかり食べてスタミナをつけたつもりだったが暑さには勝てなかった(苦笑)。 帰りの電車では赤羽あたりまで爆睡状態だった。

参加者は管理人も含め9名で、男性が2名、女性が7名(参加者の皆様、ありがとうございました)。男性の参加者が2名になったのは初めてだ。初参加の方は3名。


【コース】
宇都宮駅集合→餃子像→旧篠原家住宅→およりの鐘→二荒山神社→松が峰教会→大銀杏→昼食(餃子)→越路岩→大谷資料館→大谷景観公園→大谷寺→大谷公園→宇都宮駅解散

(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)


■餃子像
餃子の街宇都宮のシンボル。餃子の皮に包まれたヴィーナスをイメージした像で地元特産の大谷石で製作。



餃子像。宇都宮は日本で一番一世帯あたりの餃子消費額が多く、約30軒の餃子専門店がある「餃子の街」として知られる。餃子消費額の多い理由は「宇都宮は夏暑く冬寒い内陸型気候のため暑さ寒さを乗り切るためにはスタミナが必要なので牛王座が好まれた」「戦前に宇都宮に旧陸軍第14師団の駐屯地があり、中国東北部への出兵で現地の餃子のうまさを知った人達が宇都宮に広めた」といわれている。


■旧篠原家住宅
明治28年(1895)に建てられた江戸時代から続く豪商の旧家。母屋と新蔵は国重要文化財。栃木地方特有の大谷石張の町家建築であり,数少ない遺構として貴重。篠原家は宇都宮城下の東端の奥州街道の起点に立地し,江戸時代末期から醤油醸造業を興し、明治期には,肥料業なども営み,県内有数の豪商となった。


母屋と新蔵。


帳場。


大黒柱。約45センチ角のケヤキの立派な柱で、二階大広間の床柱を兼ね、棟木まで伸びている。素人目で見ても大黒柱にお金がかかっていることが分かる。


大広間。


文庫蔵の内部。嘉永4年(1851)に建てられたもの。


■およりの鐘
宝蔵寺にある鐘で宇都宮氏が寄進したと伝えられる。「おより」の由来は「鐘の音が一里四方に聞こえたから」、「身分の高い人が宇都宮にお寄りになったときに撞いたから」等諸説ある。




■二荒山神社
仁徳天皇の御世(313~399)に創建、承和5年(838)に現在地に遷座。御祭神は豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)で、毛野國(栃木県、群馬県)を拓いた第十代崇神天皇の第一皇子。武徳にも優れていたため古くから武将の信仰も篤く藤原秀郷、源頼義・義家、源頼朝、徳川家康等が戦勝祈願し神領・宝物の寄進や社殿改築を行ってきた。当社が「下野一の宮」と呼ばれていたことから、宇都宮の地名がついたといわれる。社宝の鉄の狛犬(建治3年(1277)製作) と兜(南北朝時代(14世紀頃)製作)は国重要美術品。






明神の井。明治天皇の行幸の折、茶湯に使われた湧き水。この水を使うと書道が上達するとの言い伝えがある。


■松が峰教会
昭和7年(1932)に建てられたロマネスク様式の聖堂で国登録文化財。設計者のマックス・ヒンデルはスイス人で大正末期から昭和初期まで日本に滞在、函館のトラピスティヌ修道院などを設計。建物は、外壁・内壁ともにそのほとんどが大谷石造り。昭和20年(1945)の宇都宮空襲において、屋根と礼拝堂が被災し焼失してしまったが、戦後すぐに復元。






■大いちょう
市の天然記念物で、樹齢約400年、高さは33m。いちょうの立つ場所は、かつての宇都宮城内であった。




昭和20年(1945)の宇都宮大空襲で真っ黒に焼けるほどの被害を受けたいちょうの写真。いちょうは翌年には新芽を吹き見事に再生した。いちょうの生命力の強さに驚かされるばかり。


■来らっせ
宇都宮の餃子店27軒の味が日替わりで味わえる店。


8店の焼き餃子を頼んで食べ比べをした。同じ焼餃子でも店によって微妙に味が異なる。


店の前にあった顔ハメ看板。


2010年7月4日 東海道散歩2(品川宿)イベント主催(その3)

2010年07月15日 | 東海道徒歩の旅
(その2はこちら


■海雲寺
建長3年(1251)創建。最初は、臨済宗である海晏寺の一塔頭だったが、慶長元年(1596)に曹洞宗に改宗し独立の一寺となる。境内には火と水の神、台所の守り神である荒神をまつる荒神堂があり、江戸時代から「品川の荒神さん」として人々に親しまれてきた。




荒神堂。


■海晏寺
曹洞宗。鎌倉時代の建長3年(1251)に北条時頼が、鎌倉の建長寺の蘭渓道隆を開山として創建。 創建当時は臨済宗の寺であったが、戦乱による焼失ののち、天正18年(1590)に曹洞宗の寺として再建された。江戸時代には、紅葉の名所となり、浮世絵にも多く描かれた。境内には岩倉具視や松平慶永の墓がある(一般の参拝は認められていない)。




■鮫洲八幡神社
創建年代不明。幕府に魚介類を献上する義務のあった御菜肴八ヶ浦の一つ、「御林浦」(現在の鮫洲)の漁師や魚河岸の人々から厚く信仰されていた神社。境内には鳥居、狛犬、天水桶など、江戸時代の奉納石造物が多く見られる。




嘉永2年(1849)に御林猟師町の人達が寄進した狛犬。


■山内豊信(容堂)の墓 
豊信は土佐藩15代の藩主で、藩政改革を実行、幕政に強い影響力をもち、公武合体に尽力。慶応3年(1867)大政奉還を将軍に建白。明治5年(1872)46歳で死去。豊信は生前小高い丘であるこの地から眺める江戸湾を愛し、遺言によりこの地に葬られた。




■土佐藩下屋敷跡
16,000坪強の広大な下屋敷で、15代藩主山内豊信(容堂)が安政の大獄後蟄居した場所。浜川中学校の前に説明板が設置されている。




下屋敷入り口跡は商店街となっている。


■浜川砲台跡
土佐藩の下屋敷の荷揚げ場だったが、ペリー再来航後の安政初年に砲台が設置されたため浜川砲台と呼ばれた。嘉永6年(1853)にペリーが来航した際、当時19歳で剣術修行のために上京した坂本龍馬が土佐藩の命を受け、浜川砲台の警護に当たったといわれる。




砲台跡の前の建物に描かれた龍馬と黒船のイラスト。


■なみだ橋
浜川橋。立会川にかかる橋で鈴ヶ森刑場に護送される罪人を親族達が涙を流して見送ったことから由来。現在の橋は昭和9年(1934)に架け替えられたもの。




■立会川商店街
土佐藩下屋敷跡から浜川砲台跡に続く当時と同じ道にある商店街で、龍馬が歩いた道とされる。




「若き日の龍馬がいく」「浜川砲台と龍馬の街」ののぼり。


商店街の店には龍馬のポスターが貼られている。


龍馬伝のステッカーの自販機と千枚札風のキーホルダーのガチャガチャ。

■龍馬像
高知市より平成16年に寄贈された像。



2010年7月4日 東海道散歩2(品川宿)イベント主催(その2)

2010年07月14日 | 東海道徒歩の旅
(その1はこちら


■品川宿交流館
観光カウンター、無料休憩所、ギャラリー、品川宿の歴史と文化を多面的に紹介する展示室がある。






■寄木神社(よりきじんじゃ)
日本武尊が東征の途中に妃の弟橘姫が海を鎮めるために海神に祈願して入水し、その時の船の残り木または弟橘姫の御衣(ぎょい)が流れ着いたので祀ったと伝えられる。本殿の内側の扉に、伊豆(入江)長八(1815~89)が天の岩戸神話を描いた漆喰の鏝絵が残る。鏝絵は、左官が壁を塗る鏝で立体的に絵を描いたもので、漆喰装飾の一技法。




■荏原神社
飛鳥時代・和銅2年(709)創建。品川宿の総鎮守だったがのちに目黒川を境に北品川宿の鎮守は品川神社となり、荏原神社は南品川宿の鎮守となった。現在の社殿は弘化元年(1844年)建造。




■問屋場跡
問屋場は人馬の継立業務と飛脚業務を円滑に行うための施設。品川宿には、北品川宿と南品川宿の2箇所にあったが、文政6年(1823)の品川宿の大火で両方が焼失してからはこの地にあった南品川宿の1箇所のみとなった。




■海蔵寺
鎌倉時代・永仁6年(1298)創建。江戸時代には、鈴ケ森で処刑された罪人や引き取り手のない遊女などを葬ったため「投げ込み寺」とも呼ばれた。




無縁供養塔(首塚)。宝永5年(1798)造立。品川溜牢で亡くなった人達の遺骨を集めて築いた塚で、後に天保の大飢饉(1833-40)で亡くなった250人を祀る二百五十人塚や品川宿の飯盛女の位牌や鈴が森で処刑された人の首も合葬されたため首塚と呼ばれた。この塚をお参りすると頭痛が治るといわれた。


大正4年(1915)造立の京浜鉄道轢死者供養塔。


昭和7年(1932)造立の関東大震災横死者供養塔。


■旅籠屋釜屋跡
釜屋はもともと立場茶屋(宿場と宿場の間にあり、旅人が休憩や食事をとった場所)だったが、のちに旅籠になり幕末には本陣のような構えに改造し幕府御用宿となった。慶応3年(1867)に新撰組副長の土方歳三等が訪れ、翌年には鳥羽伏見戦から江戸に戻った新選組隊士たちがしばらく滞在したとの記録がある。




■品川寺
真言宗醍醐派の別格本山。平安時代、大同年間(806~10)創建。


山門。


本堂。


江戸六地蔵。宝永5年(1708)に江戸深川の地蔵坊正元が、浄財を集めて、江戸の入口6か所に造立した江戸六地蔵のうちの一つ。他の5カ所は、浅草、新宿、巣鴨、深川2カ所(うち1体は明治初年に壊され、のち上野に再造)。


洋行帰りの鐘。慶応3年(1867)にパリ万国博覧会に出品されたが、日本に返される途中で行方不明となる。のちに、スイス・ジュネーヴのアリアナ博物館にあることがわかり、昭和5年(1930)に返還された。これをきっかけに品川区とジュネーヴ市は、平成3年(1991年)友好都市提携を結んだ。


大イチョウ。推定樹齢600年、樹高25メートル、幹の周囲5.3メートル。


2010年7月4日 東海道散歩2(品川宿)イベント主催(その1)

2010年07月06日 | 東海道徒歩の旅
この日のイベントは5月に初めて開催した東海道散歩の2回目で、品川駅から立会川駅まで東海道を歩いた。旧品川宿を歩き回った後、大河ドラマでおなじみの坂本龍馬ゆかりの地を見て回った。

参加者は管理人も含め10名で、男性が5名、女性が5名(参加者の皆様、ありがとうございました)。初参加の方はなんと0名。こういうケースは初めてだ。


【コース】
品川駅出発→品川駅創業記念碑→問答河岸の碑→土蔵相模跡→品川浦→利田神社・鯨塚→御殿山下台場跡→品川宿本陣跡→東海寺→品川神社→品川宿交流館→寄木神社→荏原神社→問屋場跡→海蔵寺→旅籠屋釜屋跡→品川寺→海雲寺→海晏寺→山内豊信(容堂)の墓→鮫洲八幡神社→土佐藩下屋敷跡→浜川砲台跡→なみだ橋→立会川駅前商店街→龍馬像→立会川駅解散


(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)


■品川駅創業記念碑
日本で最初の鉄道は、明治5年(1872)9月の新橋・横浜間の鉄道だが、それに先立つ5月、品川・横浜間が仮開業した。当時の品川駅は、現在より少し南寄りで、駅舎は海岸にあり、岩床に打ち砕ける海水の飛沫で、客車の窓は全部閉めねばならなかったといわれる。




記念碑の裏面には仮開業当時の時刻表と運賃が記載されている。品川~横浜間の列車は上り下り共に1日2本で、所要時間は35分。


■品川宿
日本橋より2里(約7.8キロメートル)のところにあった、現在の京浜急行の北品川駅~青物横丁駅にかけて設置された東海道で江戸から一番目の宿場で、長さは約2134メートル。次の川崎宿までは2里18町(9.8キロメートル)あった。戦国時代に目黒川をはさんで北品川宿と南品川宿が形成されていたが、享保7年(1722)に北品川宿から高輪よりに徒歩新宿(かちしんじゅく)が加わった。

天保14年(1843)の記録によると、人口6890人、家数1561軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠93軒で、当時の箱根以東の宿場では最も人口の多い宿場だった。

江戸の出入り口であったため、旅人の送迎や、江戸に入る大名が行列や身なりを整える場所として利用された。また、江戸近郊の行楽地として、御殿山の花見や遠浅の海での潮干狩りや海晏寺(かいあんじ)の紅葉見物などで賑わった。さらに、宿場には多くの飯売旅籠(飯盛女と称した遊女を置いた宿)が並び、北の吉原に対し「南」と呼ばれるほどに栄えた遊興の街でもあった。

なお、品川宿から鈴が森までの東海道の道幅は江戸時代のものとほぼ同じである。


品川宿。下見した日も当日も日曜日だったため営業していない店が多し。


浮世絵が描かれている商店街のお店のシャッター。何箇所かで見かけたので商店街ぐるみで行っているようだ。


電柱の住所表記。


ときおり古い家も見かける。


■問答河岸の碑
東海寺の沢庵が3代将軍徳川家光を迎え出て禅問答をしたとされる場所に建つ石碑。将軍「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」和尚「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」。江戸時代には東海道のすぐ東側は海であった。




■土蔵相模跡
旧東海道に面した飯売旅籠「相模屋」の外装が海鼠塀の土蔵造りだったことで、通称「土蔵相模」と呼ばれた。文久2年(1862)に高杉晋作、井上馨、伊藤博文ら長州藩の志士が御殿山に建設中の英国公使館を焼き払った際には集結地となり、また、安政7年(1860)の桜田門外の変決行前夜、水戸藩の浪士たちが別杯を交わしたのもここであった。昭和52年(1977)まで「さがみホテル」して営業を続けていたが、現在ではマンションになっている。


現在は説明板が残るのみ。


■品川浦
江戸時代には幕府に魚介類を献上する義務のあった御菜肴八ヶ浦(おさいさかなはちかうら)の一つで、魚介類の豊富な水揚げを誇っていた。また海苔の産地でもあり、18世紀はじめには海苔の養殖が始まり、19世紀初頭には養殖が大森・羽田方面にまで広がった。現在は釣り船や屋形船の発着地として賑わう。


木造家屋と高層ビルの組み合わせが不思議な感じ。


■利田神社・鯨塚
嘉永3年(1626)に沢庵和尚が弁財天を祀ったのが始まり。利田はこの辺りを開発し、利田新田を開いた名主の姓から。境内の鯨塚は、寛政10年(1798)に品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達に捕らえられた一頭の大鯨の供養碑。大鯨は当時の江戸市中で評判となり、11代将軍家斉が浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)で上覧するほどの騒ぎとなった。




鯨塚。


境内の説明板にあった天保年間の品川宿とその周辺の地図。利田神社(洲崎弁天)は海のそばにあったことが分かる。


■御殿山下台場跡
嘉永6年(1853)のペリーの浦賀来航後に、江戸の防衛のために築かれた台場の一つで、台場跡に発見された石垣や、明治3年(1870)に第二台場にあった品川灯台のレプリカが残る(本物は愛知県犬山市の明治村に移築)。幕府は人工島に11基の台場築造を計画、5基を竣工させたが、資金不足により計画を変更し陸続きの当地に五角形の台場を造った。明治時代の埋め立てにより姿を消したが、台場の輪郭は道として残る。




■品川宿本陣跡
勅使や、公家、大名、幕府の公用旅行者などが宿泊・休憩するための施設。江戸時代前期には北品川宿と南品川宿の両方に本陣があったが、中期以降は北品川宿の現在の本陣跡のみとなった。跡地は公園となり、明治元年(1868)、明治天皇行幸の際の行在所となったことにちなみ、聖蹟公園と命名された。




当時の本陣の様子。


■東海寺
臨済宗の寺院。江戸時代・寛永15年(1683)に、三代将軍徳川家光が、沢庵のために建てた寺で、157,000平米余りの広大な境内には数多くの塔頭があった。現在の東海寺は明治時代に塔頭の一つであった「玄性院」が寺名の名前を引き継いだもの。沢庵漬けが考案された地でもある。






■品川神社
北品川宿の鎮守。平安時代・文治3年(1187)に、源頼朝が海上交通安全と祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神の天比理乃命(あめのひりのめのみこと)を勧請したのが始まりとされる。


龍がからみついた見事な鳥居。大正時代に料亭の経営者が奉納。


社殿。


富士塚。明治2年(1869)に北品川宿丸嘉講の人々により造られたもので「品川富士」と呼ばれた。なかなか立派な富士塚だった。現在も7月に品川富士山開き行事が行われており、当日は行事の日だったが現地に着いたときにはすでに終わっていた。


板垣退助の墓。板垣退助(1838~1919)は幕末には倒幕運動に力を尽くし、維新後は自由民権運動を進め、自由党を作って総裁となった。遊説中、岐阜で刺客に襲われた時に叫んだ「板垣死すとも自由は死せず」の言は有名。墓は品川神社の境内の外の東海寺の塔頭「高源寺」があった場所にある。