生姜ちくわのぶらぶら山日記

趣味の登山を中心としたブログです。2014年11月より日本百名山登山開始、2018年9月23日全座登頂。

2008年1月27日 馬込文士村散歩2

2008年02月03日 | 都内散歩
(前回の続き)


■大田文化の森

旧大田区役所跡に建てられた大田区立の文化施設。館内に馬込文士村の文士達の似顔絵入り説明版がある。ここから歩いて数分のところにある、「赤毛のアン」の翻訳者、村岡花子の書斎を再現した「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」を探したが見つからなかった。


外観。


一階のエレベーターのそばに設置された小説家・宇野千代の説明版。彼女は小説家で夫の尾崎士郎と馬込に住んだ。社交的だった夫婦は馬込文士村の中心的存在になった。


■善慶寺

正応4年(1291)開創。東京都指定旧跡の義民六人衆の墓がある。


山門。


義民六人衆の墓。延宝4年(1678)この地の領主の過酷な年貢収奪に耐えかねた領民6人が幕府に直訴しようとしたが、密告により捕らえられ斬首された。当時罪人の葬儀は禁じられていたが、6人に感謝した領民達が父母の墓という名目で建て墓石の裏面に6人の法名を刻みひそかに供養した。


■熊野神社

善慶寺のすぐ裏の高台にある神社で、旧新井宿村(現在の大田区山王と中央)の鎮守。


鳥居。上にあがるまでの階段がきつかった。


本殿。


■山王会館

大田区立の集会場で、一角に馬込文士村資料展示室と会が展示室がある。馬込文士村資料展示室には、尾崎士郎、山本有三、村岡花子、和辻哲郎等山王に住んでいた文士達に関する資料を展示。室内は残念ながら撮影禁止。


山王会館のそばの坂道。山王は坂が多い。ここに住んでいたら足腰が鍛えられそう。


外観。マンションのような建物で入り口の表示を見なければ何の建物か分からなかった。


絵画展示室。「大田区百景」「新大田区百景」と称する、大田区在住の画家や教師達による区内の風景画が展示されている。


■薬師堂

旧新井宿村の領主木原氏が、古寺を再興し「桃雲寺」と名づけたが、明治13年(1880)に廃寺となった。唯一薬師堂のみ残っている。


外観。


桃雲寺再興記念碑。桃雲寺再興の事績を後世に伝えるために寛文4年(1664)に建立。


富士講塚。富士講の中興の祖といわれる食行身禄(じきぎょうみろく)の没後百年を記念し、天保3年(1832)に旧新井宿村の富士講の人々が建立。碑の正面には富士山の尊称「仙元大菩薩」が、上部には富士山が刻まれている。


■暗闇坂

名前の由来は、坂をはさんで左手にあった八景園という遊園地の樹木が鬱蒼と坂道を覆い、昼間でも暗かったことによる。八景園は明治17年(1884)に開園した遊園地で梅の名所として知られたが、大正11年から大正13年(1922~1924)にかけて区画分譲され住宅地に変わった。




■皇后陛下行啓記念碑

明治天皇の皇后、昭憲皇太后の明治35年(1902)の八景園の行啓を記念し、暗闇坂をはさんで右手にあった加納久宜子爵邸跡(現在はマンション)に建てられた碑。「宸雲遺澤(しんうんいたく)」と彫ってある。


人の背よりも高い場所に設置されているので見つけにくい。


■日本帝国小銃射的協会の碑

明治22年(1889年)から昭和12年(1937年)ごろまでここにライフル射撃練習場があった。


現在は宅地とテニスコートになっている。


■高橋診療所

昭和6年(1931)建築。当時流行したスパニッシュ建築で、国登録有形文化財。




■八景坂

大森駅前の池上通りの坂道で、かつては坂の上からの眺めはすばらしく、房総まで見渡せた。特にすばらしい眺めが八景として選ばれたので八景坂と呼ばれるようになった。坂の上には源義家が鎧をかけた松があり、八景坂とともに歌川広重らの浮世絵に描かれたが、明治時代に枯れてしまった。


現在はゆるやかな坂だが、昔は急な坂で漢方薬の製造に使う薬研のようであったため薬研坂とも呼ばれた。


■天祖神社

八景坂に面する高台の上にある神社。神社脇の壁面には馬込文士村の住人の似顔絵等のレリーフがはめ込まれている。


のっけから急な階段。


句碑。裏面に八景坂の由来となる八景「笠島夜雨、鮫洲晴風、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大井落雁、袖浦秋月、池上晩鐘」が刻まれている。


本殿。



馬込文士村の住人達の似顔絵レリーフ。誰が誰だか分かりますか?(写真をクリックすると拡大版が別ウィンドウに表示)


大正8年(1919)の大森駅。


文士村で流行していたダンス。


(終わり)