生姜ちくわのぶらぶら山日記

趣味の登山を中心としたブログです。2014年11月より日本百名山登山開始、2018年9月23日全座登頂。

2011年2月19日 東海道散歩9(小田原宿)イベント主催(その4)

2011年02月28日 | 東海道徒歩の旅
(その3はこちら


■松永記念館
小田原市郷土文化館の分館。
もとは、「電力王」「電力の鬼」と呼ばれた実業家で、近代茶人としても高名であった松永安左ヱ門(耳庵)が昭和21年(1946)に小田原へ居住してから収集した古美術品を一般公開するために、昭和34年(1959)に財団法人を創立して自宅の敷地内に建設した施設で、昭和54年(1979)の財団解散後、その敷地と建物が小田原市に寄付され、昭和55年に現在の形になった。
松永安左ヱ門の書やゆかりの品々を展示。




庭園。耳庵の好みによるもので形式にとらわれず自然の趣を基調にしている。所々に奈良・平安時代の石造物が点在し、国土交通省「日本の歴史公園100選」にも選ばれている。


葉雨庵。国登録文化財。中外商業新報(現在の日本経済新聞社)社長、三越百貨店社長、鐘紡重役などを歴任した野崎廣太(幻庵)が大正13年(1924)、小田原市内の別荘に建てた茶室を昭和61年(1986)に移築。


老欅荘。国登録文化財。昭和21年(1946)に建てられた松永安左ヱ門の晩年の自宅。ここで政財界の重鎮を招いた茶会や小田原やその周辺の人を招いた茶会が開かれた。建物の名は登り口にそびえるケヤキの大木から由来。


老欅荘の名前の由来となったケヤキの大木。


■秋葉山量学院
慶長元年(1596)に小田原城主大久保忠世が信仰していた遠州の秋葉山大権現を勧請。 毎年12月に行われる火防祭では、諸儀式の後、燠火の上を素足のままで渡る「火渡り」が行われる。






■板橋地蔵尊
弘法大師が北国に向かう途中に彫り上げ、湯本に祀ったと伝えられるもので、戦国時代・永禄12年(1569)に香林寺九世の文察和尚が現在の板橋に移した。
「板橋のお地蔵さん」と呼ばれ親しまれ、1月と8月の板橋地蔵尊の大祭には、旧東海道の町並みの両側に多数の露店が軒を連ね、参拝客で大変賑わう。
また、この日に詣でると、亡くなった身内の人と瓜二つの顔の人に会えると言われる。




■小田原用水取入口
箱根芦ノ湖を源とする早川の水をこの地で取り入れ、旧東海道に沿って城下の中心へと流した上水道で、後北条時代中期に造られたもの。形態は変わったが現在も用水路として残る。




早川。


■おまけ


国道1号線を抜けると細い道になる。


街道沿いのお宅の見事なしだれ梅。


長興山紹太寺。江戸時代・寛文9年(1669)、小田原藩主稲葉正則が父母と祖母の春日局の霊を弔うために建てた寺で、稲葉一族や春日局の墓・供養塔、開山の鉄牛和尚の寿塔、樹齢約340年といわれるしだれ桜がある。興味深かったが時間がなかったので通過。


風祭の一里塚。江戸日本橋から21番目の一里塚の跡。塚は残っておらず、一里塚の説明板が置かれ、道祖神が祀られている。


箱根湯本の温泉街。解散地の箱根湯本駅へはもう少し。


2011年2月19日 東海道散歩9(小田原宿)イベント主催(その3)

2011年02月27日 | 東海道徒歩の旅
(その2はこちら


■大久寺
安土桃山時代・天正19年(1951)徳川家康の重臣で、初代小田原城主の大久保忠世が開基となった大久保家の菩提寺。日蓮宗。






大久保一族の墓所。正面に向かって右から大久保忠常(二代城主忠隣の嫡男)、忠隣(二代城主)、忠世(初代城主)、行忠(忠勝の次男)、忠勝、忠俊、行忠の娘の墓が並ぶ。



■居神神社
戦国時代初期の永正13年(1516)に小田原の北条氏に討たれた三浦荒次郎義意の霊と木花咲耶姫命、火之加真土神を祀る。境内には鎌倉時代末期の念仏供養碑等の古碑群がある。






古碑群。


■伝肇寺
浄土宗。鎌倉時代・正安2年(1300)創建。




みみづくの家跡。大正7年(1918)北原白秋が東京から小田原に転居、翌年には伝肇寺本堂裏に茅葺き屋根、3坪ほどのみみづくの家を建てた。大正15年(1926)に東京に移転するまで、詩歌、論文、小説などを盛んに発表、「あわて床屋」「かやの木山」等の童謡を世に送り出し華々しく活動した。


みみづくのベンチ。


みみづくの置物。


伝肇寺付属のみみづく幼稚園。


■板橋見附
小田原城下に入る東海道の西の出入り口。小田原宿の京都側の出入り口でもあった。東の江戸口見附と並ぶ主要な出入り口として厳重な構造を持ち、番所が設けられ常時通行が監視された。



板橋見附で東海道は右側へ大きく曲がる。


江戸時代後期の板橋見附の様子。当時は板橋見附を越えると東海道がL字型に曲がっていた。


■おまけ


板橋地区の東海道。


板橋地区の東海道沿いには古い家が多い。この建物は昭和初期の洋風建築。


昔から営業をしている豆腐屋さん。


明治35年(1902)に店舗兼住宅として建てられたもの。元は醤油醸造を行っていたお宅で、木の看板にうっすらと「醤油醸造」の字が見える。


昭和初期の建物。


2011年2月19日 東海道散歩9(小田原宿)イベント主催(その2)

2011年02月26日 | 東海道徒歩の旅
(その1はこちら


■報徳二宮神社
江戸時代後期に活躍した、小田原出身の農政家、思想家の二宮尊徳を祀った神社。明治27年(1894)創建。








柴を背負って本を読む、有名な二宮金次郎像。


二宮尊徳像。


「経済なき道徳は戯言であり 道徳なき経済は犯罪である」。数多くの農村を立て直してきた実績を持つ人物の言葉は重みがある。  


■御感の藤
樹高2.7メートル、樹齢約200年と推定されている藤。
江戸時代には小田原城二の丸御殿に鉢植えされていた大久保氏愛玩のもので、明治維新後、板橋(小田原市内)の森元氏に渡り、明治16年(1883)、浜町(小田原市内)の西村氏が買い受けて育てた。大正天皇が皇太子の頃、この藤の美しさに感嘆されたため、「御感の藤」と呼ばれるようになった。大正11年(1922)に現在地に移植された。


花が咲いたらさぞかし見事な藤だろう。あしかがフラワーパークの藤を思い出した。


藤棚の下には水仙が花盛り。


■郷土文化館
小田原の歴史、自然、文化に関する資料の展示、保存を行う施設。




■箱根口門跡
三の丸の門の一つがあった場所で、東海道からこの門を通り、お茶壺橋(小峰橋)を渡って二の丸に入るようになっていた。




箱根口門跡の地図。


箱根口門跡のそばの小学校。小田原城を意識した外観。


■小田原宿
日本橋から20里27町(約81.4キロメートル)の距離にあった江戸から9番目の宿場。前の宿場の大磯宿から4里(約15.7キロメートル)、次の宿場の箱根宿へは4里8町(約16.5キロメートル)あった。

天保14年(1843)の記録によると人口5,405人、家数1,542軒、本陣4軒、脇本陣4軒、旅籠95軒。

小田原宿の成立は慶長6年(1601)。小田原は関東の出入り口として重要な拠点で、戦国時代には北条氏、江戸時代には稲葉氏、大久保氏などの譜代大名の城下町として栄えた。小田原宿は神奈川県内で最大規模の宿場で、箱根の山越えや関所を控えた旅人で大変に賑わった。



薬とお菓子を商っているういろう。


古くから続く薬局。建物は大正14年(1925)に建てられたもの。東海道沿いには古い建物多し。








小田原駅跡。明治29年(1896)開設の豆相人車鉄道、明治41年(1908)開設の軽便鉄道の小田原駅があった。



2011年2月19日 東海道散歩9(小田原宿)イベント主催(その1)

2011年02月25日 | 東海道徒歩の旅
東海道散歩9回目のこの日は小田原駅から箱根湯本駅までの東海道を歩いた。 当初予定していた日が雪になったためこの日に延期。天気は割とよかった。 参加者は管理人も含め8名で、男性4名、女性4名(参加者の皆様、ありがとうございました)。

管理人にとって印象に残ったのは小田原城址公園、松永記念館、板橋~箱根湯本の旧東海道。

小田原城址公園の天守閣や門は昭和・平成になって復元されたものだったが、堀や石垣などとともに往時をしのぶことができた。天守閣の中の展示物がなかなか興味深かった。

松永記念館は落ち着いた雰囲気でよかった。 開催中の小田原の街の成り立ちを紹介する展覧会は勉強になった。老欅荘の広間での休憩はくつろげた。イベントでなければずっとあの場所に座ってボーっとしていそうだ。

板橋~箱根湯本の旧東海道は道幅が狭く、古い家がところどころにあり、江戸時代の街道だったことを多少なりとも感じ取ることができた。このような細い道を歩くのは楽しい。

板橋を過ぎるとゆるやかな上り坂が続き、少しずつ箱根に近づいていることを実感。来月は、箱根湯本から険しい上り坂を歩き続ける。来月のコースは下見をしていないのでどのような散歩になるかドキドキしている。


【コース】
小田原駅→北条氏政・氏照の墓所→幸田口門跡→小田原城址公園(馬出門→銅門→常盤木門→天守閣)→報徳二宮神社→小田原城址公園(御感の藤→郷土文化館)→箱根口門跡→大久寺→居神神社→伝肇寺→板橋見附→松永記念館→秋葉山量学院→板橋地蔵尊→小田原用水取入口→箱根湯本駅


(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)



■北条氏政・氏照の墓所
北条氏政は北条氏4代の領主で、氏照は、氏政の弟で八王子城などの5つの城の城主。
安土桃山時代・天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原城が落城すると、時の城主5代氏直は高野山に追放され、父氏政、その弟氏照の両人は責任を負って自刃。遺骸は当時この寺にあった北条氏の氏寺の伝心庵に埋葬された(現在、永久寺の所有)。

墓所は永く放置されていたが、稲葉氏が城主の頃、北条氏追福のために整備。関東大震災の被害にあったが、翌年復興。
3基の五輪塔は大きい順から氏政夫人、氏政、氏照の墓と伝えられる。生害石は氏政・氏照がこの石上で自害したと伝えられる。




数多くの「幸せの鈴」。「幸せの鈴」は、鈴に願いをかけて持ち帰り、願いがかなったらこの場所に返しにくるというもの。


■幸田口門跡
小田原城の三の丸の門の跡で、戦国時代の永禄4年(1561)年に上杉謙信が、同12年(1569)に武田信玄が侵攻した際には攻略口となったといわれる。三の丸の土塁が残る。

イベント開催日の数日前に、小田原城の幸田口門跡から漆塗りの弓や鉛製鉄砲玉などが見つかった、とのニュースが。出土品は戦国時代の小田原攻めに使った武具の可能性があるとのこと。

「戦国時代の小田原城の遺構から弓など出土、上杉謙信や武田信玄の小田原攻めの弓か/神奈川」 カナロコ 2月15日(火)15時0分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110215-00000037-kana-l14





説明板の地図。


■小田原城址公園
小田原城の本丸を中心に整備した公園で、天守閣などの史跡の他、遊園地やガラス工芸品を展示する小田原城ミューゼ、小田原の歴史を模型や映像で分かりやすく展示する小田原城歴史見聞館がある。
平成18年に、国土交通省「日本の歴史公園100選」に選ばれた。


■小田原城
15世紀中ごろに大森氏が築いた山城が前身で、戦国大名小田原北条氏の居城となってから次第に拡張整備、豊臣秀吉の小田原攻めに備えて延長9キロメートルに及ぶ総構の完成により日本最大の中世城郭に発展。

江戸時代に徳川家康の家臣大久保氏が城主となると城が改修され近代城郭の姿になった。稲葉氏が城主の時代には大規模な改修工事を実施。再度大久保氏が城主となると、箱根を控えた関東地方防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担ってきた。

明治3年(1870)に廃城となり、建物は解体され、残っていた石垣も大正12年(1923)の関東大震災により崩壊した。

現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と総構の一部が国の史跡に指定されており、現在も整備が続けられている。


堀。堀の向こう側には隅櫓と馬出門が見える。


本丸東堀跡。


■馬出門
馬出門は、二の丸正面に位置する門で、江戸時代の初期からこの場所に存在し、寛文12年(1672)に桝形門形式に改修され、江戸時代の終わりまで存続した。平成21年復元。




■銅門
二の丸の正門で、江戸時代には馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って二の丸御屋形や本丸、天守閣へと進むようになっていた。門の名前は、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことに由来。明治5年(1872)に解体。平成9年(1997)復元。






■常盤木門
本丸の正門で、城門の中でも最も大きく堅固に造られていた門。江戸時代・宝永3年(1706)に桝形門形式で再建。昭和46年(1971)に復興。門の名前は、門のそばに松が植えられていたことから由来。




■天守閣
江戸時代・宝永3年(1706)再建。明治3年(1870)の廃城まで存在していた。
現在の天守閣は、昭和35年(1960)に、市制20周年の記念事業として復興したもので、宝永時代の再建時の設計図や模型を参考に、鉄筋コンクリートで外観を復元。内部には、古文書、絵図、武具、刀剣などの歴史資料が展示されている。
標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができる。





天守閣から相模湾を眺める。


天守閣から箱根方面を眺める。これからあの山々を越えていくのか・・・。


解体される天守閣の写真。明治3年(1870)。


天守台の上には旧城主の大久保氏を祀る神社が建てられる。明治26年(1893)。


天守台の上になんと観覧車が・・・(笑)。昭和30年(1955)。


2011年1月23日 深川散歩イベント主催(その4)

2011年02月01日 | 都内散歩イベント主催
(その3はこちら


■富岡八幡宮
寛永4年(1627)創建。例祭の「深川八幡まつり」では、3年に一度本祭りが催され、炎天下の中、沿道から水をかけられながら50台余の神輿が練り歩き、担ぎ手と観客が一体となって盛り上がる。
相撲と縁の深い神社で、江戸時代・貞享元年(1684)に幕府の許しを得て初めて勧進相撲が行われ、以後相撲興行が定期的に行われた。






木場の角乗碑。木場の角乗は、江戸時代に木場の筏師が、水辺に浮かべた材木を、鳶口ひとつで乗りこなして筏に組む仕事の余技から発生したもので、数々の技術が加わり、芸能として発達した。


木場の木遣碑。木場の木遣は、徳川家康が江戸城造営の時に連れてきた材木商が伝えたものと言われているが、確かなことは不明。木場の筏師が、鳶口ひとつで材木を操る時の労働歌で、互いの息を合わせるため、掛け声のように即興の詩をつけて歌ったもの。


横綱力士の碑。明治33年(1900)、横綱の顕彰と相撲の歴史を伝えるために江戸時代最後の横綱第十二代陣幕久五郎が中心となって建立。初代明石志賀之助からの歴代横綱の名が刻まれる。


深川の力持の碑。深川の力持は、江戸時代からの倉庫地帯であった佐賀あたりで、 米俵や酒樽などの運搬から発生した余技で、種々の力自慢が加わり、芸能として発達。 文化・文政のころ(19世紀初め)には、興行として行われるほど盛んになった。


大関力士の碑。歴代の大関を顕彰するために昭和58年(1983)に建立。


伊能忠敬像。江戸時代の地理学者・測量家の伊能忠敬(1745~1818)は、寛永12年(1800)から文化12年(1815)まで10回の測量のうち、遠方での測量に出発する際には当宮に参拝した。伊能忠敬は佐原で事業に成功後、50歳で江戸に出て深川黒江町(門前仲町1丁目)に住み、ここを測量の起点とし、日本で初めて実測による日本地図を完成させた。


■深川不動堂
真言宗。江戸時代、元禄16年(1703)に始まった成田山新勝寺の出張開帳が始まりで、 明治14年(1878)本堂が完成。関東大震災、戦災で本堂は焼失したが、本尊は焼失を免れた。現在の本堂は昭和26年(1951)に千葉県印旛沼のほとりに建っていた文久2年(1862)建立の龍腹寺を移築したもの。




参道。




■法乗院(深川えんま堂)
真言宗。寛永6年(1629)創建。江戸時代から「深川の閻魔様」と親しまれてきた。近年復興した閻魔像は、高さ3.5メートル、幅4.5メートルの巨大な座像にハイテク技術を内蔵、賽銭を入れると願い事の内容に応じて閻魔様の声で仏の教えが語られる。






閻魔像。


願い事によって賽銭の投入口が異なる。


■採荼庵(さいとあん)跡
元禄2年(1689)に芭蕉が「奥の細道」に旅立った場所。採荼庵は、芭蕉の門人の杉山杉風の別荘で、正確な場所は不明だが、仙台堀川にかかる海辺橋付近であると言われている。記録によると間口27メートル、奥行36メートルの屋敷であった。






■小津安二郎誕生の地
世界的映画監督の小津安二郎の誕生地。明治36年(1903)現在の深川1丁目で生まれ、大正12年(1923)に松竹に入社、昭和2年(1927)に監督となり「懺悔の刃」でデビュー。 その後、「東京物語」等の数々の名作を残し、昭和38年(1963)60歳で死去。




■伊能忠敬住居跡
江戸時代の地理学者・測量家の伊能忠敬が50歳で江戸に出てからの住まいの跡。




■深川東京モダン館
国登録有形文化財の「旧東京市深川食堂」を改修した施設で、観光案内スペースや多目的スペースとして活用されている。旧東京市深川食堂は昭和7年(1932)に震災復興事業で建設された鉄筋コンクリート造の建物で、2階天井まで全面窓の明るく 開放的な階段室と、2階南面の水平に連続するスチール・サッシュ窓が特徴的。










■おまけ


清澄長屋。関東大震災の復興事業として立てられた長屋形式の建物。今も現役。


お昼に食べた深川めし。あさりの炊き込みご飯。


梅が咲いていた。