生姜ちくわのぶらぶら山日記

趣味の登山を中心としたブログです。2014年11月より日本百名山登山開始、2018年9月23日全座登頂。

2010年4月25日 足立牡丹散歩イベント主催(その3)

2010年04月27日 | 都内散歩イベント主催
(その2はこちら

■東岳寺
曹洞宗の寺院。境内に「東海道五三次図」で有名な絵師、初代安藤(歌川)広重の墓と記念碑があり、その隣には広重を海外に紹介したアメリカ人ジョン・S・ハッパーの墓が並ぶ。


広重の墓。墓石は震災や戦災で破壊され、昭和33年(1958)の百年忌で再建。


記念碑。大正13年(1924)に建立。


ジョン・S・ハッパーの墓。


■伊興遺跡公園
縄文時代終わり頃(約4000年前)や古墳時代初期(約1600年前)の出土品が発掘された遺跡。当時の暮らしを再現した竪穴式住居と方形周溝墓があり、展示館では祭祀用の遺物や土器を展示。


右側の建物は展示館。


竪穴式住居。


竪穴式住居内で調理する様子を表した人形。


遺物出土状況を表す模型。


■伊興寺町
関東大震災後に浅草や本所から移転した寺院が集まる。




■白旗塚史跡公園
5、6世紀頃に築造された直径12m,高さ2.5mの円墳。康平5年(1062)、源頼義・義家親子が奥州反乱を鎮圧する途上にこの地で豪族の攻撃に遭い、苦戦の末勝利をおさめたのでこの塚に白旗を立てたので白旗塚と呼ぶようになった。伊興町一帯は多くの古墳が存在していたが今では当古墳のみ残る。東京都史跡。


円墳。




■おまけ


参加者の方からのいただいたキットカットわさび味。時折ほのかにわさびの味が感じられるが、わさび味と言われなければ気が付かない。


見た目はメロン味?のチョコレート菓子風。


鷲神社の境内にて。お参り後、社務所の方を向くと自動車とベンチの上で布団干し。神社の境内に思い切り生活感あふれる光景が現れたので参加者一同笑いをこらえきれず。


炎天寺の「やせがえる 負けるな一茶 是にあり」のカエル達を描いたマンホールのふた。


店名が逆さになった屋上看板。


ある会社の前にあったアヤシイ像。下見日と当日の両日に目撃。


屋根の上に犬が・・・実は置物。


白旗塚史跡公園の東屋の柱の落書き。「元渕江公園にてオーム真理教信者の40代の男が 夜間PM8:00~12:00迄ベンチ上にて座禅している 多少時間に変動あり」 この種の落書きを見るのは初めて。


2010年4月25日 足立牡丹散歩イベント主催(その2)

2010年04月26日 | 都内散歩イベント主催
(その1はこちら

■猿仏塚
子供達の厄除け塚で、子供が病気になると泥団子を供え、病気が治ると米団子を供える風習がある。言い伝えでは子守をしていた赤ちゃんを誤って殺してしまった猿が、自分の過ちを悔い食事をせずに赤ちゃんの墓を見守り続けとうとう餓死したので、村人が哀れみ「仏になって子供を守ってほしい」と手厚く葬ったという。




■黒松
樹齢約300年といわれる黒松が民家の前にある。




■国土安穏寺
日蓮宗の寺院。室町時代の応永17年(1410)に日通聖人が開いたと伝える。開基は足立の領主の一人であった千葉満胤と伝えられる。徳川将軍家から厚く信任され、葵の寺紋を許された。旧日光街道に近く歴代将軍が位牌所や御膳所(休憩や食事をとる場所)として立ち寄った。


仁王門。本堂は工事中。


扉や瓦に葵の寺紋がついている。


三代将軍徳川家光の手植えの松。


墓地の近くにあった居眠小僧の像。こちらはかわいいが、近くには目を見開いた顔の怖い掃除小僧の像がある。


■旧日光街道
江戸時代の五街道の一つで江戸と日光を結ぶ約142kmの街道。東照宮が日光に造営された元和3年(1617)以降、日光社参と奥州への道として整備された。江戸から宇都宮までは奥州街道と重なる。21の宿場があり、この場所から江戸寄りにあったのが千住宿、日光よりにあったのが草加宿。




旧日光街道と国土安穏寺の前の道の丁字路にある石碑。


■赤羽家長屋門
幕末に建てられた元島根村名主・通称「金武様」と呼ばれた牛込家の長屋門と言われる。現在は赤羽氏の所有。




■鷲神社
御祭神は日本武尊。文保2年(1318)年創建と伝えられる。200年余の歴史を持つ島根神代神楽が伝わり、例大祭や11月の酉の市に奉納される。境内には高さ2mほどの富士塚、島根学問所跡や徳川吉宗が座ったという将軍石がある。


社殿。


富士塚。


島根学問所跡と将軍石。この地に寺子屋があり、庶民教育に熱心だった八代将軍徳川吉宗が視察に来た。


■炎天寺
真言宗豊山派の寺院。天喜年間(1053-1057)に源頼義・義家親子がこの地付近で野武士の攻撃に遭い、苦戦の末勝利を収めたので、隣の八幡神社と当寺を建立したと伝えられる。村名の「六月」と寺名の由来は戦が六月の炎暑の最中であったことからとされる。江戸時代の俳人小林一茶ゆかりの寺で、「蝉なくや六月村の炎天寺」「むら雨や六月村の炎天寺」等の句は当寺で詠まれたと伝えられる。




小林一茶像。


「蝉なくや六月村の炎天寺」の句碑。


「やせ蛙 まけるな一茶 是にあり」の句碑の前で、やせ蛙とふとった蛙が相撲をとる。岸で蛙達が見守る。


池にいた蛙の像。寺の主の趣味なのか境内には蛙の像多し。


巨大な福蛙。なでると福が授かるという。


2010年4月25日 足立牡丹散歩イベント主催(その1)

2010年04月25日 | 都内散歩イベント主催
この日は、足立区の東武大師線の大師前駅から東武伊勢崎線の竹ノ塚駅周辺を散策した。今回の目玉は西新井大師の牡丹。今年は天候不順で例年より開花が遅れていると聞いていたが、イベント当日には全体の7割程度開花しており、いろいろな種類の牡丹が楽しめたので非常によかった。

参加者は管理人も含め10名で、男性が3名、女性が7名(参加者の皆様、ありがとうございました)。初参加の方は3名だった。

(牡丹等の花の写真は当日に撮影。それ以外の写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)


■西新井大師
真言宗豊山派の寺院。五智山遍照院總持寺。天長3年(826)に弘法大師空海は、災厄で苦しむこの地の人びとの救済のために刻んだ十一面観世音菩薩と大師像を堂に安置したと伝えられる。

西新井の地名は弘法大師の祈祷によりお堂の西にあった枯れ井戸から清らかな水が湧き出てきたことから由来する。

境内の牡丹は、奈良の総本山長谷寺から移植されたもので、西新井大師では文化・文政(1804-30)の頃より牡丹園が開かれていた。


山門。江戸時代後期建立。


本堂。昭和47年(1972)建立。


塩地蔵。江戸時代からいぼとりに霊験があると伝えられる地蔵。堂内の塩を持ち帰り霊験があった場合には倍の塩を返すことから「塩地蔵」と名づけられた。


三匝堂(さんそうどう)。外観は三重塔に見えるが、江戸時代に流行した三匝堂(さざえ堂)という種類の仏堂で、内部に多くの仏像の置かれたらせん状の回廊があり、回廊を一回りすることで一度に諸国の霊場や諸仏をお参りしたのと同じご利益が得られるとされた。


牡丹園。5箇所あり。写真の第2牡丹園が一番広い。牡丹の種類が豊富で見ごたえがあり満足した。












第?牡丹園。看板を確認するのを忘れた・・・(苦笑)。


八重桜とオオデマリが満開。


八重桜。


オオデマリ。


藤が咲き始めていた。


枝垂桜。下見時に撮影。


池のほとりの桜。下見時に撮影。

2010年4月4日 古河桃&桜散歩イベント主催(その3)

2010年04月06日 | 都外散歩イベント主催
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■永井路子旧宅
歴史小説家永井路子の旧宅を修復し一般公開。永井は東京生まれで、間もなく母親の郷里である古河へ移り、結婚するまでの約20年間を過ごした。旧宅は江戸末期に建てられた約93平方米の2階建土蔵造りの建物で、1950年代に永井家から別の所有者へ譲渡された際一部取り壊された。永井の幼少期から青春時代の写真や経歴を紹介するパネルや作品などを展示。






下見のときも当日もここで休憩。くつろげる場所だった。


■正定寺
江戸時代初期、家康・秀忠・家光の三代に仕えた古河城主・土井利勝の開いた寺で、土井家の菩提寺。黒門は江戸の本郷にあった旧古河藩主土井家の下屋敷表門を昭和8年(1933)に移築したもの。


本堂。


土井利勝像。


黒門。


■隆岩寺
徳川時代最初の古河城主小笠原秀政が、妻の父松平信康の菩提のために開基した寺。信康は徳川家康と正室築山御前との間に生まれ、天正 7年(1579)織田信長の命により、母の築山御前ともに命を奪われた。




■旧武家屋敷
旧武家屋敷の土塀が残る。




■日光街道古河宿道標
文久元年(1861)に建てられた常夜灯形式の道標。正面に「左日光道」、右側面に「右筑波道」、左側面に「右江戸道」とある。




■本陣跡
日光街道は、五街道の一つで東照宮が日光に造営された元和3年(1617)以降、日光社参と奥州への道として整備され21宿あった。古河宿は江戸から8番目の宿場で、全長1850メートルほどあった。本陣は大名等の貴人を泊める宿で、庶民の家では造ることができない門、玄関、書院を設けることが許された。




■高札場跡
本陣跡の反対側に立つ。高札場は藩や幕府のおふれ書「高札」を立てた場所。




■今日の顔ハメ看板


古河総合公園にて。古河市内には静御前ゆかりの寺、光了寺がある。


■おまけ


渡良瀬川と花火をあしらったマンホールのふた。



古河文学館の近くにある雪の結晶をあしらった歩道。古河藩主土井利位が雪を科学的に研究し、その成果をまとめた雪の結晶の観察図鑑「雪華図説」の雪の結晶の絵からちなむものと思われる。


永井路子旧宅の隣の石油店。


わんこ4兄弟。いずれも1メートル近い大型犬。下見の時に通り過ぎたときには大声で吠えられた。当日も最初は吠えたがそのうち塀から顔をだしたり身を乗り出してしっぽを振ったりと私たちに友好的になりカメラを向けるとカメラ目線でポーズをとってくれた(笑)。しばらく写真撮影に興じた。私たちが立ち去る時にはさびしげな表情をしていた。


カメラ目線のわんこ。

2010年4月4日 古河桃&桜散歩イベント主催(その2)

2010年04月06日 | 都外散歩イベント主催
(その1はこちら


■長谷観音
古河城の鬼門除けとして明応2年(1493)古河公方足利成氏が鎌倉の長谷寺より勧請。背丈二メートルあまりの十一面観音菩薩像が安置されている。日本三大長谷の一つ。
コース外だったが、参加者からリクエストがあったので立寄った。写真を撮るのを忘れてしまった(苦笑)。


■鷹見泉石記念館
鷹見泉石の晩年の住まい。古河城の余材を使って建てたと伝えられる建物を改修して公開。
鷹見泉石(天明5年(1785)~安政5年(1858))は古河藩主土井利位に家老として仕えた古河藩士で、利位が大阪城代であった折りに「大塩平八郎の乱」で鎮圧にあたるなど、大きな働きをした。また、蘭学者でもあり、数多くの研究資料の収集にあたった。渡辺華山による肖像画は国宝。






雛人形が飾られていた。


■奥原晴湖画室
明治時代に活躍した女流日本画家奥原晴湖(天保8年(1837)~大正2年(1913))の画室。晴湖の死後熊谷から古河の実家に移築された画室の一部を再度移築し、玄関と廊下を復元。






■古河歴史博物館
古河市の歴史に関する資料を展示。




当日は枝垂桜がきれいに咲いていた。


■古河文学館
歴史小説の第一人者である永井路子ら古河ゆかりの作家の作品を中心に資料を展示。




■肴町通り
川魚を扱う御用商人がいたことにより名づけられた通り。

古河藩使者取次所(御馳走番所跡)。参勤交代や日光参詣で通行する大名が古河城主に敬意を表すための挨拶役の使者を接待する役所の跡。役人は客を迎えるために走り回ったので、ここの役人を御馳走番所ともいわれた。またまた写真撮影を忘れてしまった(苦笑)。


旧古河城文書蔵。国の登録文化財。酒屋の店蔵として使用されている。


旧古河城乾蔵。国の登録文化財。文書蔵の隣にある蔵で、袖蔵として使用されている。文書蔵とともに古河城を偲ぶ貴重な遺構。


肴町通りにあった蔵。


■篆刻美術館
平成3年に日本で始めての篆刻専門の美術館として開館。建物は大正9年(1920)建築の3階建石蔵で、国の登録文化財。篆刻は、500年ほど前に中国より起こったもので、四書五経や漢詩などから語句を選び、篆書という二千数百年前の古文字を柔らかい石や木に刻み、朱色の印泥をつけて紙に押したものを鑑賞する。館内には、古河出身の故生井子華の遺作や現在活躍する作家や日本・中国の歴史的作家の作品を常時展示。




■古河街角美術館
古河市ゆかりの作家を中心とした美術作品等を展示。