(その1は
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■養命寺
16世紀末創建と伝わる曹洞宗の寺院。
薬師如来坐像。国の重要文化財。建久8年(1197)の銘が像内から見つかっている。作者は当代を代表する仏師であった運慶の一門と推定されている。像は12年に一度寅年に公開される。
■おしゃれ地蔵
「女性の願いならなんでも叶える」との言い伝えがあり、願いが叶ったら顔に白粉を塗って御礼するのが習わしで、お化粧をしたようにみえるため、いつしか「おしゃれ地蔵」と呼ばれるようになった。
どうみてもお化粧したように見えない・・・
■耕余塾跡
明治5年(1872)、この地の名主だった三觜八郎右衛門が子供たちの教育のために開設した塾。
当時は「読書院」と命名された。明治11年(1878)に「耕余塾」と改称され中等教育まで行ったが、明治38年(1905)に閉塾した。ここからは、政・財界で活躍した多くの人材が輩出された。首相となった吉田茂もここで学んだ一人。
■四谷不動・大山の鳥居
延宝4年(1676)、大山道と東海道が交差する四谷辻に建てられた道標。大山不動尊の下正面に「大山道」、両脇に「これより大山みち」と刻まれている。不動堂の右手の大山の鳥居は大山への参詣者が通った大山道の入り口で、昭和34年(1959)に再建されたもの。
このあたりには立場(宿場と宿場の間にある村(間(あい)の村)の中で、人や馬が休憩する場所)があり、大山への参詣者で賑わった。藤沢宿と平塚宿の間には、ここ四谷の他、牡丹餅、南湖、八幡の3箇所に立場があった。
道標。
大山の鳥居。
■一里塚跡
江戸から13番目の一里塚があった場所。一里塚は、江戸時代に主要な街道で、日本橋を基点として1里(約4キロメートル)ごとに設置された塚で、旅人の里程標や人馬賃銭の目安とされた。塚には目印として榎や松などが植えられた。
■上正寺
浄土真宗の寺院。
聖徳太子立像。聖徳太子自らが刻んだと伝えられるが室町時代の作と考えられている。像は聖徳太子が2歳のとき、東方に向かって「南無仏」ととなえ合掌すると手の中から舎利が出たという伝説を表している。
旧寛永寺石灯籠。川将軍家の菩提寺であった寛永寺に納められていたもので、延宝9年(1681)に四代将軍徳川家綱の墓前に対馬守安藤重治が奉納した。
■牡丹餅立場跡
牡丹餅が名物だった立場。牡丹餅立場には、紀州徳川家が江戸屋敷と国元を結んだ専用の飛脚中継所である「七里役所」が設けられた。
牡丹餅立場の説明板。
江戸時代の地図に描かれた牡丹餅立場。
茅ヶ崎市内には松並木が何箇所かに残る。
■茅ヶ崎一里塚
江戸日本橋から14里目の一里塚。一里塚は街道の両側に設置されたが、ここには片側のみ残る。
■南湖の左富士
通常東海道の右側に見える富士山が左側に見える場所で、静岡県の吉原と並び有名な場所。歌川広重が描いた「南湖の松原左り不二」の舞台となった場所で、記念碑が建つ。
記念碑と説明板。
イベント当日の左富士は輪郭がうっすらと見えた程度。
■鶴嶺神社
長元3年(1030)、源頼義が下総の乱の鎮定のためこの地に至った際、石清水八幡宮を 勧請して戦勝祈願をしたことから始まる。
約760メートルの参道の松並木は、江戸時代初期、常光院の僧「朝恵」が荒廃した鶴嶺神社の再興に尽力し、徳川3代将軍家光から朱印地を与えられたのを記念して植樹したもの。
境内の大イチョウは、源義家が戦勝祈願のために自ら植えたという伝説がある大木で、県天然記念物、かながわの名木100選。
■旧相模川橋脚
国の史跡。大正12年(1923)の関東大震災とその翌年の地震に伴う液状化現象によって、 突然水田の中から出現した橋脚の跡。
この橋は建久9年(1198)に、源頼朝の重臣稲毛重成が亡妻供養のために相模川に架けた橋と言われている。この橋の竣工式に出席した源頼朝が帰り道に落馬し、その怪我がもとで亡くなったとの伝説がある。
橋脚は池の中に保存されていたが、水上に露出した部分の腐食が進んだため、平成13年(2001)から平成19年(2007)にかけ保存事業を実施、橋脚は池の中の保護スペースで保管されている。
インスタレーションに見えるがれっきとした国の史跡。
出現時の様子。
大正15年(1926)10月に国史跡の指定を受けるまでの仮指定時の様子。
■馬入川
相模川の河口近くの下流。相模川は山梨県・山中湖を水源とした全長113キロメートルの川。名前の由来は建久9年(1198)の相模川に架けた橋の竣工式の日に頼朝が乗った馬が川の中を暴れ入ったことから。明治42年(1909)に橋が架けられるまで渡し舟で川を渡った。
■馬入一里塚跡
江戸から15番目の一里塚があった場所。
■おまけ
茅ヶ崎市内のマンホールのふた。相模湾と烏帽子岩が描かれている。
平塚市内のマンホールのふた。有名な七夕祭りの様子が描かれている。