(その4はこちら)
ここからは「番外編」と称し、イベントのコースに入れなかった玉の井について書き記す。
玉の井は東向島駅から徒歩5分程度のいろは通りの南側に大正時代の半ば頃にできた私娼街で、永井荷風の「濹東綺譚」の舞台となった。全盛期には477軒の銘酒屋に1400名もの酌婦がいたという。昭和20年(1945)の東京大空襲で焼失後、いろは通りの北側に移転。戦後は赤線となり97軒のカフェーに390人の女給がいたという。
下見では赤線建築が残る通りの北側を散策した。玉の井には迷路のような細い路地が多く、地図を持っていても時折道に迷った。荷風が「ラビラント(迷宮)」と呼んだのも納得する。1時間程度歩き回ったが、お目当ての赤線建築を全て見つけることができなかった。
赤線建築はかなり年季が入っておりいずれ老朽化を理由に取り壊されると思うので、玉の井を再訪し見逃した赤線建築を見ておきたい。
東向島駅の駅名表示板。上部に「旧玉の井」と書かれている。
いろは通り。現在は昭和の香り漂う商店街になっている。
啓運閣教会。日蓮宗の寺院で、玉の井で亡くなった娼婦や水子の供養も行っている。
啓運閣教会にあった永井荷風が昭和11年(1936)に作った「玉の井 濹東綺譚地図」。
赤線建築。鳩の街の赤線建築と同様、洋風とも和風とも言いがたい独特の外観で、カラフルだったり、建物の角が曲線を帯びている。円柱やバルコニーがあるのも共通するが色タイルが貼られた建築は見かけなかった。
別の角度から撮影。
凝った窓枠。
街の雰囲気に合わせた外観の銭湯。
ここからは「番外編」と称し、イベントのコースに入れなかった玉の井について書き記す。
玉の井は東向島駅から徒歩5分程度のいろは通りの南側に大正時代の半ば頃にできた私娼街で、永井荷風の「濹東綺譚」の舞台となった。全盛期には477軒の銘酒屋に1400名もの酌婦がいたという。昭和20年(1945)の東京大空襲で焼失後、いろは通りの北側に移転。戦後は赤線となり97軒のカフェーに390人の女給がいたという。
下見では赤線建築が残る通りの北側を散策した。玉の井には迷路のような細い路地が多く、地図を持っていても時折道に迷った。荷風が「ラビラント(迷宮)」と呼んだのも納得する。1時間程度歩き回ったが、お目当ての赤線建築を全て見つけることができなかった。
赤線建築はかなり年季が入っておりいずれ老朽化を理由に取り壊されると思うので、玉の井を再訪し見逃した赤線建築を見ておきたい。
東向島駅の駅名表示板。上部に「旧玉の井」と書かれている。
いろは通り。現在は昭和の香り漂う商店街になっている。
啓運閣教会。日蓮宗の寺院で、玉の井で亡くなった娼婦や水子の供養も行っている。
啓運閣教会にあった永井荷風が昭和11年(1936)に作った「玉の井 濹東綺譚地図」。
赤線建築。鳩の街の赤線建築と同様、洋風とも和風とも言いがたい独特の外観で、カラフルだったり、建物の角が曲線を帯びている。円柱やバルコニーがあるのも共通するが色タイルが貼られた建築は見かけなかった。
別の角度から撮影。
凝った窓枠。
街の雰囲気に合わせた外観の銭湯。