生姜ちくわのぶらぶら山日記

趣味の登山を中心としたブログです。2014年11月より日本百名山登山開始、2018年9月23日全座登頂。

2010年5月30日 生田緑地散歩イベント主催(その1)

2010年05月30日 | 都外散歩イベント主催
この日は友人達の社会人サークルで散歩イベントを主催した。行き先は川崎市の生田緑地で、参加者は管理人も含め8名で、男性が5名、女性が3名だった。

この時期開園のばら苑でばらを楽しんだ後、緑地内にある日本民家園を見学し、緑の生い茂る緑地を散策した。時間の関係で緑地内の散策は部分的にしかできなかったが、豊かな緑に包まれてさわやかな気分になった。都心から遠くないところに緑のオアシスが残っているのはとても貴重だと思う。ずっと残ってほしいものだ。

(写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)


【コース】
宿河原駅→生田緑地ばら苑→青少年科学館(プラネタリウム)→日本民家園→伝統工芸館→枡形山展望台→長者穴古墳群→登戸駅


■生田緑地
多摩丘陵の一角に位置する川崎市内最大の緑の宝庫で、面積は約122ha。梅、桜、つつじ、花菖蒲等の四季折々の花々が楽しめる。緑地内には、岡本太郎美術館、日本民家園、伝統工芸館、青少年科学館、プラネタリウム、枡形山展望台等の施設が設置されている。


■ばら苑
面積は約1.2ha、533種類約4,700株(秋は440種約4,000株)のバラが咲く。春と秋に一般開放。
ばら苑は、旧向ヶ丘遊園の施設として昭和33年(1958)に開園、バラの種類が多く、開園当時は「東洋一のばら苑」と称された。平成14年(2002)に旧向ヶ丘遊園の閉園に伴い川崎市が維持管理を引き継いだ。

ばら苑の入場料は無料。無料なのはうれしいが維持費を考えると100円でも取ったほうがよいのに・・・と思う。久しぶりにたくさんの美しいばらを心行くまで鑑賞できたので満足した。ただ終わりかけの花がかなりあったので欲を言えば一週間前ぐらいに見に行きたかった。















































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2010年5月23日 東海道散歩1(日本橋、品川宿)イベント主催

2010年05月23日 | 東海道徒歩の旅
自分の散歩コミュで、日帰りで行ける範囲で東海道を何度かに分けて歩くイベントを不定期に開催することにした。

第1回の今回は日本橋から品川宿まで歩き、京浜急行鮫洲駅で解散の予定だったが、残念なことに朝から続く雨が止まずこれ以上屋外を歩くのは厳しいと判断、品川駅で解散せざるをえなかった。参加者の方の期待を裏切ってしまい大変申し訳なかった。

解散後は全員でファミレスでお茶会をした。お茶会は異業種交流会のような雰囲気で刺激があった。普段出会うことのない方々からいろいろなお話が聞けてとても楽しかった。

参加者は管理人も含め6名で、男性が3名、女性が3名(参加者の皆様、ありがとうございました)。初参加の方は3名だった。

【コース】
三越前駅→日本橋→日本橋魚河岸跡→日本国道路元標→ヤン・ヨーステン記念碑→旧京橋跡→江戸歌舞伎発祥の地跡→京橋大根河岸青物市場跡→銀座発祥の碑→西郷・勝会談の碑→札の辻→元和キリシタン遺跡→高輪大木戸跡→牛供養の塔→高輪海岸の石垣石→品川駅創業記念碑→品川駅解散

(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)


■日本橋
慶長8年(1603年)に架橋され、翌年に五街道の起点として定められた。現在も日本橋は国道の起点となっており、橋の中央に日本国道路元標が埋め込まれている(橋の北詰に複製あり)。現在の石造2連アーチ橋は、明治44(1911)に完成したもので国の重要文化財。江戸時代には橋の南詰に高札場があったが、現在は高札をかたどった記念碑がある。


日本橋。重厚な意匠の橋で国道の起点にふさわしい。橋の上に高速道路が走っているのが残念。


獅子像。


麒麟像。


日本国道路元標の複製。


高札場をかたどった記念碑。


■日本橋魚河岸跡
日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには幕府や江戸市中に消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする魚河岸があった。江戸時代初期に佃島の漁師達が幕府や諸大名へ調達する御膳御肴の残りを売り出したことが日本橋魚河岸の始まりで、関東大震災後に築地に移転するまで、江戸および東京の台所としてにぎわった。記念碑は竜宮城の乙姫を表す。




■ヤン・ヨーステン記念碑
ヤン・ヨーステンは八重洲の地名の由来となったオランダ人の航海士。慶長5年(1600)、イギリス人のウィリアム・アダムズ(三浦按針)らと共に豊後(大分県)に漂流。江戸に出て徳川家康の外交貿易の顧問となり、日本橋に屋敷を与えられた。




■旧京橋跡
日本橋と同時代の慶長年間に架橋。江戸中期にはここの擬宝珠に縄を結んで願うと咳止めに効くといわれた。橋は昭和34年(1959)に撤去されたが、擬宝珠欄千の親柱が記念碑として残されている。




■江戸歌舞伎発祥の地跡
寛永元年(1624)、猿若中村勘三郎が京から江戸に下り、猿若座(中村座)を設け興行を始めたのが江戸歌舞伎の始まりといわれる。のちに江戸城に近いという理由で移転させられた。




■京橋大根河岸青物市場跡
江戸時代、京橋川河岸は野菜の荷揚場で、八百八町の住民たちに新鮮な野菜を提供していた。別名「大根河岸」と呼ばれ、関東大震災まで続いていたが、震災後は、神田や築地に移転した。




■銀座発祥の碑
銀座は銀貨の鋳造を管轄する幕府の役所のことを指す。慶長17年(1612)、駿河の銀座が当地に移転されたことから「銀座」の地名の由来となった。ちなみに金貨の鋳造を管轄する幕府の役所である金座は日本橋本石町、今の日本銀行におかれた。




銀座の街並み。


■勝・西郷会談の碑
江戸時代には薩摩藩の蔵屋敷があり、当時はすぐ裏までが海に面した砂浜で、薩摩の国元から船で送られた米などが陸揚げされた。慶応4(1868)年3月14日この地で幕府の陸軍総裁・勝海舟と官軍の大将・西郷隆盛との会見が行われ、歴史的な江戸城の無血開城がなされた。石碑は西郷吉之助(西郷隆盛の孫)による揮毫。




■札の辻
江戸時代の初めに高札場があったことから札の辻と呼ばれた(高札場は天和3年(1683)に高輪の大木戸に移転)。
元和2(1616)年に芝口門を建て、東海道の江戸の南の出入口とした(のち出入り口の機能は高輪に移転)。この門は「日暮御門(ひぐらしのごもん)」とも呼ばれ、名前の由来は当時、門の東はすぐ海で、そこから房総の山々が一望でき、日暮まで眺めていても飽きないほど景色が見事だったからと言われる。




■元和キリシタン遺跡
徳川3代将軍家光が元和9年(1623)に外国人神父を含むキリシタン50名を処刑した刑場跡。




遺跡のある丘の芝桜。


■高輪大木戸跡
享保9(1724)年に芝口門から移された (築造年には諸説あり) 東海道の江戸の南の出入口。旧東海道の両側に石垣を築き、夜間には通行止めとし治安維持と交通規制を行った。旅人の送迎がここで行われ、海岸沿いで景色がよく月見の名所としても賑わった。現在は海側の石垣のみ残る。




■牛供養の塔
高輪あたりには江戸幕府が江戸城増築などの際に重量物の運搬をするために招いた京都牛町の牛屋があった。牛供養塔は、願生寺門前の車町の牛屋7家によって、牛供養のため元文3年(1738)に建立。


下見のときも当日も門が閉ざされていたため現物を見ることができなかった。


■高輪海岸の石垣石
江戸時代に高輪海岸に沿って造られた石垣に用いた石。




石垣石の説明板にあった、高輪付近の東海道を描いた絵画の写真。前方が高輪大木戸。江戸時代の東海道は海岸沿いにあったことが分かる。


■品川駅創業記念碑
品川駅の創業は明治5年(1872)5月7日で、同年9月の新橋・横浜間が本営業する4ヶ月前に品川・横浜間が仮開業した。当時の品川駅は、現在より少し南寄りにあった。駅舎は海岸にあり、岩床に打ち砕ける海水の飛沫で、客車の窓は全部閉めねばならなかったといわれる。




記念碑の裏面には仮開業当時の時刻表と運賃が記載されている。品川~横浜間の列車は上り下り共に1日2本で、所要時間は35分。


■おまけ


ド派手なキティちゃんのはとバス。乗るのが恥ずかしいかも。日本橋にて。


当日参加者の方が発見した、札の辻の歩道橋の謎のマーク。フリーメーソンのシンボルか(笑)!?

2010年5月8日 足利散歩イベント主催(その4)

2010年05月11日 | 都外散歩イベント主催
(その3はこちら


■織姫神社
御祭神は機織を司る天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)と天御鉾命(あめのみほこのみこと)。産業振興と縁結びの神社として知られる。もとは足利市内の通4丁目にあり、明治12年(1879)に当地に遷宮したが翌年火災により焼失。現在の社殿は昭和12年(1937)に建てられた鉄筋コンクリート造で、社務所、手水舎、神楽殿と共に国の登録文化財。


大鳥居。229段の石段を上れば縁結びが叶うらしい。


石段を上がる。かなりきつい。


境内から渡良瀬川方面を眺める。


社殿。


当日は藤が満開。


本物の藤とLEDの藤を組み合わせた斬新な藤棚もある。


■渡良瀬橋
昭和9年(1934)完成。平成4年(1993)シンガーソングライターの森高千里が唄い大ヒットした「渡良瀬橋」のもととなった橋。平成19年(2007)橋の近くに歌碑が設置された。


渡良瀬橋。


歌碑。そばにあるボタンを押すと森高千里の歌声が流れる。


渡良瀬川。


■おまけ


マンホールのふた。足利学校の学校門が描かれている。


富田駅の近くにあった缶詰の自動販売機。おでん、ラーメン、うどん、スープパスタ、もつ煮込み、キットカット・・・と種類が豊富。


市内のところどころにある足利のおいしい水の水飲み機。天然のミネラル分を豊富に含んだ自然水が出てくる。


鑁阿寺に行く途中にあった石の置物。時期柄こいのぼりかな?


2010年5月8日 足利散歩イベント主催(その3)

2010年05月11日 | 都外散歩イベント主催
(その2はこちら


■まちなか遊学館
織物の街として古くから栄えてきた足利を紹介。織物機械や織物のサンプル等、織物に関する資料を展示。




手前が足踏織機、奥がお召縮緬で使用する強撚糸を生産する八丁撚糸機。


■鑁阿寺
真言宗の寺院。足利氏2代目義兼が建久7年(1196)、邸内に持仏堂を建て、本尊として大日如来を祀ったのが始まりで、3代目義氏が堂塔伽藍を建立し足利一門の氏寺とした。ちなみに室町幕府を開いた足利尊氏は8代目。
境内は約40,000平米あり、現在も残る土塁と堀は鎌倉時代の武家屋敷の面影を残す。大正11年(1922)、国の史跡に指定。市民には「大日様」と呼ばれ親しまれる。


太鼓橋と山門(仁王門)。太鼓橋は江戸時代安政年間(1854-59)に、山門は室町時代永禄7年(1564)再建。


鐘楼。国重要文化財。鎌倉時代後期に再建。


本堂。国重要文化財。鎌倉時代正安元年(1299)再建。修理工事中のため覆いがかけられていた。


大銀杏。高さ約31m、周囲約8m、樹齢550年前後。


多宝塔。江戸時代寛永6年(1629)再建。栃木県内の唯一の木造多宝塔。


不動堂。江戸時代中期以降の再建。内部には平安時代作といわれる不動明王像が安置される。


経堂。国重要文化財。江戸時代前期に再建。内部に八角形で回転式の経棚と足利歴代の将軍坐像がある。


御霊屋(おたまや)。江戸時代再建。本殿に源氏の祖、拝殿に足利十五代将軍像を祀る。本殿裏に足利氏2代目義兼の父、義国の墓がある。


蛭子堂(ひるこどう)。江戸時代創建。鑁阿寺を開いた足利義兼妻、時子を祀る。法名より智願寺殿(ちがんじどの)とも呼ばれる。安産に霊験があるとされる。安産祈願や安産のお礼の言葉を書いたよだれかけが数多く奉納されていた。


西門。鎌倉時代の四脚門。


堀と土塁。


■足利商工会議所友愛会館
旧足利銀行本店の建物を利用した足利商工会議所の施設で、会議室やホールの他、足利の人、歴史、観光、企業とまちの成り立ちを紹介する「まち歩きミュージアム」や、銀行の金庫室を改装したギャラリー「ギャラリー・カッサ」や市民ギャラリーがある。
イベント当日のギャラリー・カッサでは「相田みつをふるさと展」が、市民ギャラリーでは足利市内のスポットを撮影した「第15回ロマンチック・タウン・足利」写真コンクールへの全応募作品展が開催されていた。




まち歩きミュージアム。


ギャラリー・カッサ。


「相田みつをふるさと展」の展示作品。


2010年5月8日 足利散歩イベント主催(その2)

2010年05月10日 | 都外散歩イベント主催
(その1はこちら


■JR足利駅
昭和8年(1933)竣工のJR両毛線(小山~前橋)に残る古い駅舎の一つ。両毛線は当時の日本の主要輸出品であった足利・桐生・伊勢崎の絹織物を横浜港へ大量輸送する目的で敷設された民営鉄道が元となった鉄道で、明治21年(1888)に足利~小山間が開業、明治22年(1889)に全通した。


駅舎。


出入り口の上にあるステンドグラス。


■太平記館
平成3年(1991)のNHK大河ドラマ「太平記」放映を記念して、平成5年(1993)に開館。大河ドラマ太平記に関する展示や物産販売、観光情報を提供。




大河ドラマの展示コーナー。


大河ドラマの撮影に使用された鎧。


■足利学校
日本最古の学校として知られる国指定史跡。創建は奈良~鎌倉時代と諸説あるが、歴史が明らかになるのが室町時代中期に関東管領の上杉憲実(のりざね)が書籍を寄進、庠主(しょうしゅ。校長)制度を設けるなどして学校を再興したころから。

天文18年(1549)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介された。明治5年(1872)廃校。昭和57年(1982)足利学校の東半分にあった小学校の移転を機に史跡の保存整備事業に着手、平成2年(1990)に江戸時代中期の姿に復原。

足利学校での学習内容は儒学が中心で、易学(占い)の他、戦国時代には兵学もあった。時間割はなく、自習が基本で、中国の古い書籍を書き写して学んだ。在学期間の定めがなく10年以上在学する人もいればたった1日の在学の人もいた。


歩道橋の上から撮影。


入徳門。寛文8年(1668)創建。


学校門。寛文8年(1668)創建。足利学校のシンボル。


字降松(かなふりまつ)。第7世庠主九華和尚(1550~1577在任)のころ読めない字や意味の解らない言葉などを紙に書いてこの松の枝に結んでおくと、翌日にはふり仮名や注釈がついていたことから、「かなふり松」と呼ばれるようになったと伝えられる。


杏檀門。孔子廟の門で寛文8年(1668)創建。明治25年(1892)学校西方の火災により屋根、門扉が焼け、その後再建。


孔子廟。聖廟とも呼ばれ孔子を祀ってある廟。寛文8年(1668)造営されたもので、中国明時代の聖廟を模したものと伝えられる。


衆寮。学生が書物を書き写したり、生活した場所。平成2年(1990)復原。


衆寮の内部。かなりせまい。


方丈。学生の講義や学校行事、来客のための座敷として使用された。平成2年(1990)復原。


ふすまを開け放した方丈にはさわやかな風が入ってきて気持ちがよし。だれもいなければ靴下を脱いで真ん中で昼寝したいところ(笑)。


南庭園。方丈の縁側からの眺めがよい。平成2年(1990)復原。


宥座の器(ゆうざのき)。孔子の説いた「中庸」を教えるもので、壺状の器に水が入っておらず空の時は傾き、ちょうど良いときはまっすぐに立ち、水をいっぱいに入れるとひっくり返ってこぼれるというもの。


書院。庠主の書斎。庠主の応接や学生の個人教授に使用された。平成2年(1990)復原。


庠主の墓。17人の歴代庠主の墓があり、うち庠主の名前がわかるのは8基。


楷樹(かいじゅ)。中国、孔子の墓の楷樹の種を育て、大正11年(1922)に植えたもの。


旧遺蹟図書館。足利学校伝来の書籍の保存を目的として明治36年(1903)に開設。現在の建物は大正4年(1915)に建てられたもの。