生姜ちくわのぶらぶら山日記

趣味の登山を中心としたブログです。2014年11月より日本百名山登山開始、2018年9月23日全座登頂。

2009年11月15日(日)神田~銀座散歩イベント参加

2009年11月18日 | 都内散歩
あるイベントに参加し、神田駅から銀座まで散歩した。


神田で見かけたアニメのキャラクターが描かれた車。どんな人が乗ってるんだろう?


洋風?の木造の建物。


お江戸日本橋亭。落語芸術協会の定期寄席の他、講談、新内、義太夫などの伝統芸能の公演や発表会、稽古場として利用されるホール。


日本橋にあった工事現場の塀。昔の新聞記事が描かれていた。写真は大正12年(1923)に起こった関東大震災の新聞記事。


三井本館。国の重要文化財。旧三井本館は関東大震災により焼失、昭和4年(1929)に現在の鉄筋コンクリート造に建替え。建物は銀行の他、三井記念美術館やバンケットルームとして使用される。


三越本店。都選定歴史的建造物。昭和10年(1935)竣工。


奈良県のアンテナショップの入り口にあった、平城遷都1300年記念マスコットのせんとくん。発表当時は「キモイ」「不気味」と酷評されたが今では人気者。同じ通りには島根県と新潟県のアンテナショップがある。


日本橋。重要文化財。江戸時代には五街道の起点として栄えた。現在の石造2連アーチ橋は、明治44(1911)に完成。美しい橋の上に首都高速道路が覆いかぶさっているのが残念。


日本橋の装飾。


日本橋魚市場発祥の地。佃島の漁師らが、江戸幕府に日々魚を収め、残りを日本橋で売るようになったのが魚河岸の始まり。関東大震災まで魚河岸は大変栄えた。


歌川広重住居跡。「東海道五十三次」で名高い浮世絵師、歌川広重が安政5年(1858)に亡くなるまでの10年間ここに住んだ。


歌舞伎座。明治22年(1889)開場の歌舞伎の殿堂。鉄骨鉄筋コンクリート造で、桃山の社寺・城郭建築を意識した豪壮な建物。大正13年(1924)に完成したが、戦災により昭和26年(1951)に改修した。国の登録有形文化財。劇場改築のため平成22年4月よりしばらくの間休館。


平成22年4月の歌舞伎座さよなら公演までをカウントダウン。


狩野画塾跡。江戸幕府の御用絵師、狩野家の4家のうち最も栄えていた木挽町狩野家の五代狩野曲信が安永6年(1777年)に銀座五丁目付近に画塾を開いた。八代雅信の門からは明治画壇の巨匠狩野芳崖と橋本雅邦らを輩出した。


銀座のイルミネーション。もう街にイルミネーションが現れる季節か・・・時がたつのは早い。


銀座のイルミネーション。

2009年11月15日(日)お茶の水~神田散歩

2009年11月16日 | 都内散歩
ある散歩イベントに参加する前に時間があったのでお茶の水駅から待ち合わせ場所の神田駅まで散歩した。

【行き先】
お茶の水駅→ニコライ堂→聖橋→湯島聖堂→神田明神(神田神社)→伊勢丹発祥の地→神田やぶそば→たけむら→いせ源→ぼたん→まつや→鷹岡→山本歯科医院→神田青果発祥の地→松本家住宅→神田駅北口


■ニコライ堂
日本では最大のビザンチン様式建築で、国の重要文化財。
正式名称は「日本ハリストス正教会復活大聖堂」(ハリストスとは「キリスト」のギリシア語発音読み)。
カサーツキン・ニコライ神父の企画で、ロシア人建築家ミハイル・シチュールポフと鹿鳴館の設計で知られるジョサイア・コンドルの設計により明治24年(1891)に完成。関東大震災で崩壊したが、岡田信一郎の設計により昭和2~4年にかけて復興工事が行われた。
聖堂内は写真撮影禁止。見学時には七五三の祈祷が行われていた。教会関係者によれば、子供の成長を祝う七五三は良い風習なので正教会でも取り入れているとのこと。







■聖橋
昭和2年(1927)完成。大胆なアーチが特徴的。橋の名称は「ニコライ堂と湯島聖堂を結ぶ橋」にちなみ、一般公募で決められた。




■湯島聖堂
元禄3年(1690)、徳川五代将軍綱吉により儒学の振興のため創建。寛政9年(1797)幕府直轄学校として、「昌平坂学問所」を開設。
明治時代には、聖堂・学問所は新政府の所管となり、学問所は大学校・大学と改称されながら存置されていたが、明治4年(1871)に廃止となり文部省が置かれた。この地には、明治5年(1872)に東京師範学校が開校、隣接地に東京女子師範学校が置かれた。後に前者は筑波大学に、後者はお茶の水女子大学へと発展した。
大正12年(1923)の関東大震災でほとんどの建物を焼失、昭和10年(1935)伊東忠太の設計により鉄筋コンクリート造りで現在の形に再建。


入徳門(にゅうとくもん)。宝永元年(1704)建造の木造の門。



杏壇門(きょうだんもん)。


大成殿(たいせいでん)。孔子像と孟子・顔子・曽子・子思の像を祀る。


孔子像。昭和50年(1975)に台湾のライオンズ・クラブから寄贈される。


■神田明神(神田神社)
江戸時代から庶民に親しまれた神社。
御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、平将門。
天平2年(730)創建と伝えられ、当初は大手町の将門塚付近にあった。慶長8年(1603)駿河台へ移り、元和2年(1616)二代将軍秀忠のとき江戸の総鎮守とされ、現在地移転。昭和9年、鉄筋コンクリート造りの上に本漆を塗った社殿に再建。
日枝神社と隔年で行われる神田祭りの祭礼は天下祭と呼ばれ、神幸行列が江戸城内に入り、将軍の上覧を受けた。


隨神門 。昭和50年(1975)築。総檜・入母屋造。外回りには四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)、内側には「因幡の白兎」といった大貴己命の神話をモチーフにした彫刻が飾られている。また二層目に平将門の家紋に由来する「繋馬」の彫刻が飾られている。


社殿。国登録有形文化財。昭和9年(1934)築。当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗の社殿。伊東忠太・大江新太郎・佐藤功一といった近代神社建築・都市建築を代表する建築家により設計。


獅子山。享保年間(1716~1735)に武州下野の名工石切藤兵衛が作ったと伝えられる。能の出し物『石橋(しゃっきょう)』にちなみ、親獅子が子獅子を谷底に突き落とし、はいあがってきた子をはじめて我が子とするという内容を造形化したもの。


銭形平次の碑。銭形平次は野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の主人公。昭和45年(1970)有志の作家と出版社が発起人となり、寛永通寶を形どって建立された。脇にがらっ八の小さな碑もある。


国学発祥の碑。荷田春満が江戸に下ってより初めて国学の教場を開いたのが、当神社社家芝崎邸内であったことから江戸における国学の発祥の地とされる。


■男坂
天保年間(1830~1843)に作られたと伝えられる坂。眺めがよいことから、毎年1月と7月の26日に観月(夜待ち)がおこなわれた。また当時の江戸湾を航行した船の灯台の役割も果たしていたといわれる。




■伊勢丹発祥の地
昌平橋交差点に近い、ヤマギワリビナ館の隣のビルの角にひっそりと立つ。明治19年(1886)この地(当時は神田旅籠町)に伊勢屋丹治呉服店を創業した。




■藪蕎麦
蕎麦屋。大正12年(1923)築。板塀で囲まれ、門から店舗まで独特の雰囲気を醸し出した数寄屋造りの建物。 奇跡的に戦災から焼け残った。この建物と以下の「ぼたん」、「いせ源」、「まつや」、「竹むら」は東京都選定歴史的建造物。




■たけむら
汁粉屋。昭和5年(1930)築。入母屋造りで2階の欄干に竹と梅模様が彫られ、軒下に木製の提灯が下げられている。外観は屋根と庇で4層に見える。




■いせ源
天保元年(1830)創業のあんこう料理店。昭和7年(1932)築。入母屋造りと2階の欄干に施された、菱形模様の彫りが特徴。木製の看板は建築当時から使用(平成8年補修済)。




■ぼたん
明治30年頃創業の鳥のすきやきの専門店。昭和4(1929)築。玄関の格式の高い式台が通りすがりに見える。入母屋造りで、一部改修されているが建設当時の界隈の雰囲気をよく伝える。




■まつや
創業明治17年の蕎麦屋。大正14(1925)築。左右の出入り口の上部に松模様の欄間飾りを施してある。平面を見れば、入口の部分が土間であったと考えられる。現在、コンクリートが敷いてある。




■鷹岡(株)
昭和10年(1935)築の鉄筋コンクリート造・地上5階、地下一階の建物。 1階の外壁は石積み風に仕上げられ、2階以上は薄茶色のスクラッチタイル貼りの外装で、軒に帯飾りを施した三層の構成。昭和モダニズムを象徴するシンプルな外観が特徴。




■山本歯科医院
国登録有形文化財。明治30年以前に現在の神田須田町1-1あたりで創業。関東大震災で被災、昭和3年(1928)に診療所兼住宅として新築。震災復興期に見られる看板建築3階建ての建物で、軒蛇腹、看板、菱形装飾などによる正面の外観意匠に、創建当時の特徴を残す。




■神田青果発祥の地 
石碑自体は見つからなかったが、多町通りに神田青果市場に関する説明板があった。
このあたり一帯には江戸から大正時代にかけて巨大な青果市場があったが、昭和3年(1928)には秋葉原西北に、平成2年(1990)には大田区へと移転。


説明板。


多町通りには古い家が残る。






■松本家住宅
国登録有形文化財。江戸明暦の大火後、須田町・多町は青物商が集められて栄えた。この建物は元青果物問屋の店舗兼住宅で、昭和6年(1931)建築。切妻造り、平入で、正面は出桁造り。北妻面は窓が少なく防火に備えた造り。




■今日の顔ハメ看板


神田明神にあった銭形平次の顔ハメ看板。


■今日のにゃんこ


湯島聖堂にいた猫。

2009年10月25日(日)田町・品川散歩(その2)

2009年10月28日 | 都内散歩
その1はこちら

■玉鳳寺(おしろい地蔵)
美肌成就にご利益のある御化粧延命地蔵尊、通称「おしろい地蔵」は20以上の寺院があつまる、三田寺町の一角にある。おしろい地蔵は、昔、顔にアザがあったお寺の住職が傷ついたお地蔵様の顔におしろいを塗って祀ったところ、住職のアザが消えたと伝えられ、悩みのある部分と同じところに白粉を塗って祈願するようになったと言われる。


おしろい地蔵。ベビーパウダーで全身真っ白。管理人も顔に塗って美肌を祈願。ご利益があるかな?


美肌成就の他に無病息災、延命長寿にもご利益があるらしい。


■魚籃坂(ぎょらんざか)
坂の中腹に魚籃観音を安置した魚籃寺があるために名づけられた。




■伊皿子坂(いさらござか)
魚籃坂を上るとある坂で、明国人伊皿子(いんべいす)が住んでいたことから名づけられたと伝えられるが、大仏(おさらぎ)がなまってつけられたとも、いいさらふ〔意味不明〕が変化してつけられたとも言われている。




■大木戸跡
高輪の大木戸は、江戸の治安維持と交通規制のために江戸の入り口として宝永7年(1710)に東海道の両側に石垣を築き、設置された。現在は海側の石垣のみ残る。江戸時代には大木戸は旅人やその送迎客で大変にぎわった。天和3年(1683)には高札場が現在の札の辻よりここに移された。




■泉岳寺
播州赤穂の城主浅野家の菩提寺。曹洞宗の寺院で、慶長17年(1612)に外神田に創建したが、寛永18年(1641)の寛永の大火で焼失、現在地に移転。忠臣蔵ゆかりの寺で、浅野家代々の墓と主君のあだ討ちを果たした大石良雄以下46人の赤穂義士の墓や赤穂義士が吉良上野介の首を洗った首洗い井戸などがある。


中門。天保7年(1836)に再建。


山門。天保3年(1832)再建。二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には銅彫大蟠龍がはめ込まれている。


本堂。昭和28年再建。旧本堂は第二次世界大戦の空襲で消失。


赤穂義士の墓。赤穂義士は元禄16年(1703)2月4日に切腹後、直ちにこの地に埋葬された。


大石内蔵助の墓。


主君の浅野長矩の墓。


首洗い井戸。討ち入りを果たした赤穂義士が吉良上野介の首をここで洗い、主君の墓前に供え報告した。


血染の梅と血染の石。浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられる梅と石。


大石内蔵助の銅像。


■大石良雄自刃の跡
大石内蔵助ら17人が切腹した跡(高輪1-16-25)から100メートル程度離れたところにある石碑。




■高輪消防署二本榎出張所
昭和8年に竣工したコンクリート造りの庁舎。出張所は海抜25メートルの位置にあり、新築当時は周囲に高い建物はなく、東京湾を眼下に眺望できたことから、見る人により「岸壁上の灯台」とか「海原を行く軍艦」と評された。



2009年10月25日(日)田町・品川散歩(その1)

2009年10月25日 | 都内散歩
雨上がりの午後、図書館から借りた散歩ガイド本を手に散歩に出かけた。ガイド本のコースは田町駅を出発し、三田と高輪を散歩し、品川駅まで歩くというもの。一部コースを変更して歩いた。

【実際に歩いたコース】
田町駅→札の辻→薩摩蔵屋敷跡→芝浜跡→港区立郷土資料館→慶應義塾大学→綱町三井倶楽部→東京簡易保険事務センター→津國屋→玉鳳寺(おしろい地蔵)→魚らん坂→伊皿子坂→大木戸跡→泉岳寺→大石良雄自刃の跡→高輪消防署二本榎出張所→品川駅

高輪消防署二本榎出張所の後には、幕末にイギリス公使館がおかれた東禅寺と旧竹田宮邸だったグランドプリンスホテル高輪の貴賓館に立ち寄る予定だったが日が暮れたので断念した。


■札の辻
江戸時代の初めに高札場(幕府や領主が決めた法度や掟書などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所)があったことから札の辻と呼ばれた。高札場は天和3年(1683)に後で訪れる高輪の大木戸に移された。




■薩摩蔵屋敷跡
ここは、慶応4(1868)年3月14日、幕府の陸軍総裁・勝海舟が100万の江戸市民を戦火から守るために西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を取り決めた歴史的な場所だ。会見の記念碑が残る。


会見の記念碑。


勝・西郷の会見の様子を表す浮き彫り。


■芝浜跡
区立本芝公園のあたりは、芝浜と呼ばれた浜辺で、江戸時代には雑魚場(ざこば)と呼ばれる魚市場があった。落語の人情話「芝浜」の舞台となった場所でもある。


「芝濱噺子の碑」。本芝公園の隣の鹿嶋神社にある石碑。


公園内の、雑魚場があったことを示すために漁労具を掘り込んだ舟の彫刻。


公園そばの雑魚場架道橋。雑魚場の名が残っている。


■港区立郷土資料館
入場無料の郷土資料館。特別展「増上寺徳川家霊廟」では、徳川家の菩提寺の増上寺に造営された2代秀忠、6代家宣、7代家継の霊廟を取り上げ、造営の経緯や経過、境内の様子、造営後の運営のあり方等に関する資料を展示していた。
「さわれる展示室」では、本物のクジラの骨や縄文土器・民具などを実際に手で触ることができる。


建物の4階が郷土資料館。


特別展の宣伝の垂れ幕。


■慶應義塾大学
早稲田大学と並ぶ、国内トップレベルの私立大学。創立者は一万円札の肖像でおなじみの明治時代の思想家・教育者、福澤諭吉。


正門。


図書館旧館。国重要文化財。慶応義塾設立五十周年記念事業として明治45年(1912)に竣工した、煉瓦造のゴシック式洋風建築。設計は曾穪達蔵、中條精一郎が担当。


図書館入り口にある福澤諭吉の胸像。


三田演説館。国重要文化財。明治8(1875)に建てられた日本初の演説会堂。福澤諭吉もここでよく演説を行っていたそうだ。


正門の前から東京タワーが近く見える。


正門の隣の和菓子屋で売られている最中「学問のすすめ」。話のネタに買おうとしたが店が休業していた。


■綱町三井倶楽部
大正2年竣工の優雅な洋館。設計は鹿鳴館を設計した、イギリス人のジョサイア・コンドル。三井家の迎賓館として使われいたが、戦後は「米軍将校クラブ」として使用。昭和28年の返還後、会員制倶楽部として今に至る。
残念ながら敷地内には会員以外の立ち入り禁止。綱町三井倶楽部のホームページに建物や庭園の写真が掲載されているので興味のある方はどうぞ。




■東京簡易保険事務センター
綱町三井クラブの反対側にある、昭和4年(1929)年に旧逓信省簡易保険局として建てられた重厚な建築。




■津國屋
明治初期に酒屋として創業した趣のある木造の建物。古くから慶大生がお酒を買いに来る店として知られ福澤諭吉もひいきにしていたそう。現在は居酒屋として営業。




続きはその2へ。

2009年10月11日 神楽坂散歩(その2)

2009年10月12日 | 都内散歩
(その1はこちら)。


日本家屋を改装したギャラリー。


チーズとワインが楽しめるチーズバー。


チーズバーの隣の居酒屋。


居酒屋。


レストラン。


突如煙突出現。


フレンチレストラン。まるでフランス。


手作りの靴屋。


雑貨屋。


雑貨屋のディスプレイ。


まんじゅう屋。


人が一人やっと通れるほど細い路地。


その路地を抜けると隠れ家のようなバーが。昼間は抹茶が飲めるらしい。


「これぞ昭和」の喫茶店。


ぺこちゃん焼を扱う、不二家飯田橋神楽坂店。


東京理科大学近代科学資料館。建物は明治39年に建築された木造2階建校舎を復元したもの。


民家の庭先にたわわに実る柿。古めかしい一戸建ての民家なので住人は昔から住んでいる人なのだろう。場所が場所だけに固定資産税は高そうだ。


芳しい香りを漂わせる金木犀。