この日は東海道散歩の5回目で、横浜駅から戸塚駅までの東海道を歩いた。当初の開催日が雨により中止となり、開催日を翌週に振り替えたが、天気に恵まれ無事開催できたのでよかった。
参加者は管理人も含め5名で、男性2名、女性3名(参加者の皆様、ありがとうございました)。
この日のコースは大きな坂道があり、普段よりも距離の長いきつめのコースだった。これまでの東海道散歩では平地を歩くことがほとんどだったので、この日のコースは坂道があり地形に変化があっておもしろかった(疲れもしたが・・・)。権太坂を上るのはなかなかいい運動になった。坂を上り終えた後の爽快感はいいものだ。今のように舗装されておらず改修前で勾配がきつかった権太坂を上りきった江戸時代の旅人が味わった爽快感は今以上のものだったと思う。
日本橋を出発して5回目でやっと戸塚宿に到達したが、江戸時代の旅人は一日で戸塚宿までたどり着いたのだから彼らの健脚ぶりにはただただ圧倒されるばかりだ。いずれ朝早く日本橋を出発して一日東海道をひたすら歩くイベントをやってみたい。
【コース】
横浜駅→勧行寺→浅間神社→追分→江戸方見付跡→橘樹神社→旧帷子橋跡→助郷会所跡→問屋場跡→高札場跡→金沢横丁の道標→本陣跡→脇本陣→旅籠本金子屋跡→大仙寺→茶屋本陣跡→一里塚跡→上方見付跡→外川神社→権太坂→ 権太坂改修記念碑→投込塚→境木立場跡→境木地蔵→萩原代官屋敷道場跡→焼餅坂→品濃一里塚→品濃坂→王子神社→大山道の不動堂→モチノキ→護良親王首洗井戸→旧鎌倉ハム倉庫→江戸方見付跡→妙秀寺→一里塚跡→吉田大橋→戸塚駅解散
(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)
■勧行寺
文禄4年(1595)日養が開山の法華宗の寺院。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/63/81250fe57898947880727ceb2d53f8ad.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/d2/dd13dca82989b07c0e442ab0aaf732e7.jpg)
近藤内蔵助長裕の墓。天然理心流という剣法の開祖で、新撰組の隊長として名を残した近藤勇はその4代目にあたる。
■浅間神社
承暦4年(1080)創建。旧芝生村(しぼうむら)鎮守。社殿のある丘は、「袖摺山と呼ばれ、昔は山の下がすぐに波打ち際であったといわれる。丘の斜面には古代の横穴墓があり、「富士の人穴」と呼ばれ富士山に通じている穴と信じられ江戸時代には東海道の旅人の見物する名所だった。現在は開発により見ることができなくなった。
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「江戸名所図会」に描かれた浅間神社。
■追分
東海道と八王子道の分岐点で、芝生の追分と呼ばれた。八王子道はここを起点とし甲州街道の八王子宿まで延びていた道で、安政6年(1859)の横浜開港後は八王子方面から横浜へ絹が運ばれ「絹の道」と呼ばれた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/11/fa9a0b344dc923e2b4f0569402654265.jpg)
向かって左側が東海道、右側が八王子道。
■保土ケ谷宿
日本橋から8里9町(約32.4キロメートル)のところにあった、江戸から4番目の宿場。前の宿場の神奈川宿から1里9町(約4.9キロメートル)、次の宿場の戸塚宿へは2里9町(約8.8キロメートル)あった。宿場の長さは約2キロメートルで、天保14年(1843)の記録によると、人口2,928人、家数558軒、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠67軒。
慶長6年(1601)の宿場設置当時には、東海道は現在よりも西北の位置を通り、宿場も権太坂に近い元町にあった。慶安元年(1648)に東海道のルートの変更に伴い宿場も現在地に移転したが、東海道のルート変更の理由や、変更前の正確なルートはわかっていない。
成人男性が1日に10里(約40キロメートル)ほど歩いた当時、江戸から出発した最初の日は次の戸塚宿で宿泊することが多かったが、体力のない女性や高齢者、出発の遅くなった旅人は保土ケ谷宿に宿泊した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/50/95ba7ede1baea0e03a5b71b8740c2d79.jpg)
保土ケ谷宿とその周辺の地図。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/bd/3a6014233ec2ada78013c77de13c875e.jpg)
歌川広重の「東海道五十三次 程か谷(保土ケ谷)」が描かれたシャッター。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/2c/ce34cee495a786658f23ae8978ccd3a2.jpg)
車止めの先端が裃を着た武士の胸像になっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/3f/6991208f0626572eb0de45d68093c8fd.jpg)
東海道の歩道のタイル。
■江戸方見付跡
宿場の江戸側の出入口跡。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/56/92cca9fbebb49712bea8f39da1ef2dd5.jpg)
■橘樹神社
創建は鎌倉時代・文治2年(1186)。江戸時代は牛頭天王社といい天王町の由来となる。大正時代に現在の橘樹神社となった。
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青面金剛庚申塔。寛文9 年(1669)の庚申塔で横浜市内最古といわれる。
■旧帷子橋跡
東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた橋で、橋の長さは15間(約27m)、幅は3間(約5.4m)あった。当時大きな橋が少なかった東海道では帷子橋は保土ケ谷宿を代表する風景の一つとなり、浮世絵に描かれたり、歌や俳句に詠まれた。 中でも初代広重の東海道五十三次シリーズとして描かれたものは有名。
当時の帷子川は天王町駅の南側を流れていたが、氾濫が激しいため昭和40年頃の改修工事で駅の北側を流れるようになった。かつて帷子橋のあった天王町駅前公園には旧帷子橋のモニュメントが建てられている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/4f/9fd8b3cc0c797979044b0e675a2f2a54.jpg)
旧帷子橋のモニュメント。
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「江戸名所図会」に描かれた旧帷子橋。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/af/94bb91ee36e427d17ccc4db130f4f612.jpg)
現在の帷子橋。
■助郷会所跡
宿場で賄いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員する手続きをした事務所。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/92/4b632af4572f9be795d415c8862054b0.jpg)
参加者は管理人も含め5名で、男性2名、女性3名(参加者の皆様、ありがとうございました)。
この日のコースは大きな坂道があり、普段よりも距離の長いきつめのコースだった。これまでの東海道散歩では平地を歩くことがほとんどだったので、この日のコースは坂道があり地形に変化があっておもしろかった(疲れもしたが・・・)。権太坂を上るのはなかなかいい運動になった。坂を上り終えた後の爽快感はいいものだ。今のように舗装されておらず改修前で勾配がきつかった権太坂を上りきった江戸時代の旅人が味わった爽快感は今以上のものだったと思う。
日本橋を出発して5回目でやっと戸塚宿に到達したが、江戸時代の旅人は一日で戸塚宿までたどり着いたのだから彼らの健脚ぶりにはただただ圧倒されるばかりだ。いずれ朝早く日本橋を出発して一日東海道をひたすら歩くイベントをやってみたい。
【コース】
横浜駅→勧行寺→浅間神社→追分→江戸方見付跡→橘樹神社→旧帷子橋跡→助郷会所跡→問屋場跡→高札場跡→金沢横丁の道標→本陣跡→脇本陣→旅籠本金子屋跡→大仙寺→茶屋本陣跡→一里塚跡→上方見付跡→外川神社→権太坂→ 権太坂改修記念碑→投込塚→境木立場跡→境木地蔵→萩原代官屋敷道場跡→焼餅坂→品濃一里塚→品濃坂→王子神社→大山道の不動堂→モチノキ→護良親王首洗井戸→旧鎌倉ハム倉庫→江戸方見付跡→妙秀寺→一里塚跡→吉田大橋→戸塚駅解散
(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)
■勧行寺
文禄4年(1595)日養が開山の法華宗の寺院。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/63/81250fe57898947880727ceb2d53f8ad.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/d2/dd13dca82989b07c0e442ab0aaf732e7.jpg)
近藤内蔵助長裕の墓。天然理心流という剣法の開祖で、新撰組の隊長として名を残した近藤勇はその4代目にあたる。
■浅間神社
承暦4年(1080)創建。旧芝生村(しぼうむら)鎮守。社殿のある丘は、「袖摺山と呼ばれ、昔は山の下がすぐに波打ち際であったといわれる。丘の斜面には古代の横穴墓があり、「富士の人穴」と呼ばれ富士山に通じている穴と信じられ江戸時代には東海道の旅人の見物する名所だった。現在は開発により見ることができなくなった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/14/0efa9924354b5ac869e1cf1c8528ae20.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/eb/364f4fbe97bde38748ffbf4c6eb55791.jpg)
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「江戸名所図会」に描かれた浅間神社。
■追分
東海道と八王子道の分岐点で、芝生の追分と呼ばれた。八王子道はここを起点とし甲州街道の八王子宿まで延びていた道で、安政6年(1859)の横浜開港後は八王子方面から横浜へ絹が運ばれ「絹の道」と呼ばれた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/11/fa9a0b344dc923e2b4f0569402654265.jpg)
向かって左側が東海道、右側が八王子道。
■保土ケ谷宿
日本橋から8里9町(約32.4キロメートル)のところにあった、江戸から4番目の宿場。前の宿場の神奈川宿から1里9町(約4.9キロメートル)、次の宿場の戸塚宿へは2里9町(約8.8キロメートル)あった。宿場の長さは約2キロメートルで、天保14年(1843)の記録によると、人口2,928人、家数558軒、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠67軒。
慶長6年(1601)の宿場設置当時には、東海道は現在よりも西北の位置を通り、宿場も権太坂に近い元町にあった。慶安元年(1648)に東海道のルートの変更に伴い宿場も現在地に移転したが、東海道のルート変更の理由や、変更前の正確なルートはわかっていない。
成人男性が1日に10里(約40キロメートル)ほど歩いた当時、江戸から出発した最初の日は次の戸塚宿で宿泊することが多かったが、体力のない女性や高齢者、出発の遅くなった旅人は保土ケ谷宿に宿泊した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/50/95ba7ede1baea0e03a5b71b8740c2d79.jpg)
保土ケ谷宿とその周辺の地図。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/bd/3a6014233ec2ada78013c77de13c875e.jpg)
歌川広重の「東海道五十三次 程か谷(保土ケ谷)」が描かれたシャッター。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/2c/ce34cee495a786658f23ae8978ccd3a2.jpg)
車止めの先端が裃を着た武士の胸像になっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/3f/6991208f0626572eb0de45d68093c8fd.jpg)
東海道の歩道のタイル。
■江戸方見付跡
宿場の江戸側の出入口跡。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/56/92cca9fbebb49712bea8f39da1ef2dd5.jpg)
■橘樹神社
創建は鎌倉時代・文治2年(1186)。江戸時代は牛頭天王社といい天王町の由来となる。大正時代に現在の橘樹神社となった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/6d/3d39f57e65e9c78db2f9af3ca2d68c2e.jpg)
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青面金剛庚申塔。寛文9 年(1669)の庚申塔で横浜市内最古といわれる。
■旧帷子橋跡
東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた橋で、橋の長さは15間(約27m)、幅は3間(約5.4m)あった。当時大きな橋が少なかった東海道では帷子橋は保土ケ谷宿を代表する風景の一つとなり、浮世絵に描かれたり、歌や俳句に詠まれた。 中でも初代広重の東海道五十三次シリーズとして描かれたものは有名。
当時の帷子川は天王町駅の南側を流れていたが、氾濫が激しいため昭和40年頃の改修工事で駅の北側を流れるようになった。かつて帷子橋のあった天王町駅前公園には旧帷子橋のモニュメントが建てられている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/4f/9fd8b3cc0c797979044b0e675a2f2a54.jpg)
旧帷子橋のモニュメント。
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「江戸名所図会」に描かれた旧帷子橋。
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現在の帷子橋。
■助郷会所跡
宿場で賄いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員する手続きをした事務所。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/92/4b632af4572f9be795d415c8862054b0.jpg)