生姜ちくわのぶらぶら山日記

趣味の登山を中心としたブログです。2014年11月より日本百名山登山開始、2018年9月23日全座登頂。

2010年10月17日 東海道散歩5(保土ケ谷宿、戸塚宿)イベント主催(その3)

2010年10月27日 | 東海道徒歩の旅
(その2はこちら


■権太坂
江戸からの最初の難所だった坂。坂の名前の由来は、旅人が老人に坂の名前を尋ねたところ、自分の名前を聞かれたと思い「権太」と答えたという説と、藤田権左衛門という開発者の名前から「権左坂」と呼ばれていたものが転じたという説がある。当時は険しい上り坂が長く続き旅人を困らせたが、松並木が続き景色も良かったため多くの浮世絵に描かれた。権太坂は、昭和30年代に宅地開発が進むまで往時の街道の面影を残していた。


権太坂入り口。


権太坂陸橋。


昭和初期の権太坂。写真を見るからに当時は未舗装だったようだ。雨が降ったらとても歩きにくかっただろう。


■権太坂改修記念碑
昭和30年(1955)、当時の横浜市長・平沼亮三氏により1500坪の道路用地の寄贈を受けて権太坂の改修が行われた事を記念して建立。




■投込塚
江戸時代、権太坂の途中に行き倒れた人や馬を葬った投込塚があった。投込塚は昭和30年代に宅地開発で取り除かれ、枯骨は戸塚区平戸町の東福寺に改葬され、供養のためにこの碑が建てられた。




■境木立場跡
立場は宿場と宿場の間に置かれた人や馬が休憩する場所で、旅人が多くなるにつれて茶屋が営まれた。保土ケ谷宿と戸塚宿の間には権太坂、焼餅坂、品濃坂などの難所があり、境木と上柏尾村に立場があった。境木の立場茶屋の名物は牡丹餅。「江戸名所図会」に茶屋で休む旅人など当時のにぎやかな様子が描かれている。

境木の地名の由来は、武蔵国と相模国の国境に傍示杭またはケヤキの木があったことからといわれる。平成17年に境木地蔵堂前の広場に武相国境モニュメントが建てられた。


説明板。


シャッターに描かれた初代歌川広重「五十三次名所図会 五 程ケ谷 境木立場 鎌倉山眺望」


武相国境モニュメント。


■境木地蔵
万治2年(1659)頃の建立と言われ、鎌倉の腰越海岸に流れ着いた地蔵が自身の希望により江戸に運ばれていく途中に境木が気に入ってその場で動かなくなり、村人がお堂を立てて祀ったところ村が大変栄えたとの言い伝えがある。






■萩原代官屋敷道場跡
直心影流の達人として知られた代官、萩原行篤の道場跡。安政5年(1858)に、後に新選組の隊長となった近藤勇が訪れるなど、全国各地からの剣客でにぎわったといわれる。今も武家屋敷門と蔵が残る。


武家屋敷門。


道場跡の竹薮。


■焼餅坂
当時の品濃村と平戸村の境にあった坂で、坂の傍らの茶店で焼餅を商っていたことから焼餅坂と名づけられたといわれる。




■品濃一里塚
江戸から9番目の一里塚。神奈川県内で唯一ほぼ完全な形で残る一里塚で、神奈川県文化財に指定。


西側の一里塚。脇の階段を上がると品濃一里塚公園になっている。一里塚は5間(約9メートル)四方の大きな塚で、東海道を歩く旅人の目を引いたに違いない。


東側の一里塚。私有地のため立ち入り禁止。


■品濃坂
朝早く江戸から出発した旅人にとっては宿泊地の戸塚宿までもう一歩の場所のところだった。現在は環状2号線によって分断され、品濃坂歩道橋がかろうじて坂の東西をつなぐ。


品濃坂歩道橋。


分断された品濃坂。


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