教育現場から離れ直接的には何も影響を受けない立場ではある私にも「教育とは?」ということを根源から考えることをさせてくれるのは、維新の会の橋下さんのおかげである。「ごちゃごちゃ考えても仕方ないやん」という声も自分の中から聞こえてくるのだが、アンテナに引っかかってしまうと無意識の世界には押し込めることはできない。
今、目の前で起こっている教育に関する動きは、近代国家と言われているものが成立して以来、日本のみならず世界中で論議になってきた『国家と個人』というところまで行き着いてしまう根深いものである。
フランス革命が終わった後、ナポレオンはフランスの教育を中央集権的に整えることを始めた。その時「フランスの子どもは国家の子どもである」と言ったという。またドイツではフリードリヒ大王のナポレオンと同じような言葉を残している。「国家があるように、学校もある」。
このように、国家が、教育というものを、国家の利害に関わる問題としてとらえ、権力者に都合のよいほうへ体制を整えようとすことに対して異を唱えたのがペスタロッチである。「玉座の上にあっても、わら家の陰にあっても、人間は本質において同じである」という言葉を残しているように、誰かのためではなく個々の持っている善さを育てることが大切であると説く。ナポレオンの言葉を痛烈に批判して「幸いにしてまだ子どもたちは私たちの子どもである」と言ったという。
明治維新によって日本が近代国家としての体制を整えようとした時、初代文部大臣となった森有礼はフランスやドイツに学びながら日本の学校制度の骨幹を確立していった。「教育を国家の発展の手段として考える」ことを大前提にした体制である。それに対して異論を唱えたのが福沢諭吉である。「人間は独立自尊。車夫、馬丁に至るまで自分で考えて生きる。お上にへつらって、お上を恐れ、お上を慕い、お上のままに生きる。そういうことではないんだ」「教育はひとりひとりの人間の問題なのだ。その人間が独立し繁栄してはじめて、国家も本当に独立し繁栄できる。その逆ではない」ということを精力的に説き、自ら学校も設立して実践していった。福沢諭吉は『教育』という言葉には「国家の側から教え、わからせ、そして身につけさせる」と意味合いが反映されているといい「ひとりひとりの人間が、生きている以上は自分で善く生きようとするに決まっている。貧富を問わず、貴賎を問わず、みな同じ。また、わかりが早かろうが遅かろうが、頭がよかろうが悪かろうが、そんな事ともかかわりない。みんな学ぼうとしている。だから、とにかく学ぶことによって、それぞれが自分で考えていくことができるようにしなければならない」という立場に立つならばむしろ「発育」という言い方が良いと提案したのであった。そこには「心から相手を信用して、相手が伸びていく力になってあげたい」という真のやさしさが反映されているように思われる。
まだまだかじった程度だが、福沢諭吉と森有礼の論争、歩みに興味を持っている。今を考えるものさしの1つを得ることができるのではないかと思っている。
今、目の前で起こっている教育に関する動きは、近代国家と言われているものが成立して以来、日本のみならず世界中で論議になってきた『国家と個人』というところまで行き着いてしまう根深いものである。
フランス革命が終わった後、ナポレオンはフランスの教育を中央集権的に整えることを始めた。その時「フランスの子どもは国家の子どもである」と言ったという。またドイツではフリードリヒ大王のナポレオンと同じような言葉を残している。「国家があるように、学校もある」。
このように、国家が、教育というものを、国家の利害に関わる問題としてとらえ、権力者に都合のよいほうへ体制を整えようとすことに対して異を唱えたのがペスタロッチである。「玉座の上にあっても、わら家の陰にあっても、人間は本質において同じである」という言葉を残しているように、誰かのためではなく個々の持っている善さを育てることが大切であると説く。ナポレオンの言葉を痛烈に批判して「幸いにしてまだ子どもたちは私たちの子どもである」と言ったという。
明治維新によって日本が近代国家としての体制を整えようとした時、初代文部大臣となった森有礼はフランスやドイツに学びながら日本の学校制度の骨幹を確立していった。「教育を国家の発展の手段として考える」ことを大前提にした体制である。それに対して異論を唱えたのが福沢諭吉である。「人間は独立自尊。車夫、馬丁に至るまで自分で考えて生きる。お上にへつらって、お上を恐れ、お上を慕い、お上のままに生きる。そういうことではないんだ」「教育はひとりひとりの人間の問題なのだ。その人間が独立し繁栄してはじめて、国家も本当に独立し繁栄できる。その逆ではない」ということを精力的に説き、自ら学校も設立して実践していった。福沢諭吉は『教育』という言葉には「国家の側から教え、わからせ、そして身につけさせる」と意味合いが反映されているといい「ひとりひとりの人間が、生きている以上は自分で善く生きようとするに決まっている。貧富を問わず、貴賎を問わず、みな同じ。また、わかりが早かろうが遅かろうが、頭がよかろうが悪かろうが、そんな事ともかかわりない。みんな学ぼうとしている。だから、とにかく学ぶことによって、それぞれが自分で考えていくことができるようにしなければならない」という立場に立つならばむしろ「発育」という言い方が良いと提案したのであった。そこには「心から相手を信用して、相手が伸びていく力になってあげたい」という真のやさしさが反映されているように思われる。
まだまだかじった程度だが、福沢諭吉と森有礼の論争、歩みに興味を持っている。今を考えるものさしの1つを得ることができるのではないかと思っている。