山上憶良の話の前に
We15号冊子をUPしておきます。
まだ長い文章を書くほど身体も頭も回復はしていませんが
『遊牧』143号が送られてきて
編集後記を読んでいたら初耳の話が・・・
伊藤道郎さんが、
中西進氏の話として
「貴族の世襲制の中で韓国から来たノンキャリアの山上憶良は相当苦労したらしい」と書いていた。
詳しい内容はわかりませんが、
ノンキャリアは認めるとして
「韓国から来た」と、
山上憶良は渡来人という大前提で書いてある。
多くの人はそう理解していたのかと
ビックリ!というか、
かなり揺らいだ。
私などは、皆さんもご存知の
『万葉集』の憶良の和歌
銀も金も玉もなにせむに まされる宝 子にしかめやも
が歴史の教科書にも載っていて
すぐにそちらが頭をよぎったが
そんなこと思ってもみなかったのでした。
ネットでぐぐると、
憶良(660~733)は、遣唐使にも選ばれており(701)
伯耆守、侍講を経て、筑前に下向(726-732)。
そこで、大宰帥(だざいのそち)として赴任してきた大伴旅人と
文学的交流を果たしたことが和歌にプラスとなり、
筑紫歌壇でも活躍したようです。
中西進の説は一つの仮説としてあるようです。
もし仮に渡来人だとして、都(奈良)あたりにいたのに
よく分からない土地と人々が住む
当時の九州くんだりまで国司として赴任していくかなあ~
とも思うのですが
どうなのでしょう。
出自不明の柿本人麻呂のほうなら
それなりに納得できたかもしれない・・・・
渡来人、特に663年白村江の戦い以降
百済からの逃亡貴族が日本に渡ってきて
律令国家の体制作りに貢献しただろうとは考えるし
これまで相当数の韓ドラを観ていますが
言葉の近さはとても感じます。
1446年ハングルが制定されるまでは
朝鮮でも漢字使用だっただろうし・・・
マイブームみたいに
良く回らない頭で考えてました~
何か、ご存知の方はご教示ください。
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