短詩グラマトロジー 第十回:数装法
斎藤 秀雄
簡単に定義するなら「数の魔性を詩性に利用すること」となるだろうか。中村明は《数字に関連したことばを文章中にちりばめる修辞技法》(『日本語の文体・レトリック辞典』、東京堂出版)と定義する。これが修辞となりうるのは、《その模様と表面上の意味とで濃淡二重のイメージを仕掛ける》ことになるからだ(同前、「類装法」の項目。数装法は類装法の一種とされる)。たしかに数には数としての意味(何個、何ヶ月目、等)と、視覚的模様がある。
映画『マトリックス』では、主人公ネオの住居の部屋番号は101。これは、のちに自分がThe One(救世主)であると知ることの暗示であり(NeoがそもそもOneのアナグラムである)、世界がプログラムされたMatrixという仮想現実であることの暗示であり(二進法)、またオーウェル『一九八四年』に登場する拷問・洗脳室「一〇一号室」からの引用である。
村上春樹『1973年のピンボール』に登場する双子の女の子は見分けがつかない。そこで主人公は彼女らの着ているトレーナーにプリントされた208と209という数字で呼ぶことにする。しかしこれは固有名として機能しない。彼女らは主人公の前でトレーナーを交換してみせる。《機械の製造番号みたいだな》と主人公。ちなみに《208》はリチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』所収の「〈アメリカの鱒釣りホテル〉二〇八号室」からの引用と推察される。
村上春樹『風の歌を聴け』には《6921本の煙草を吸ったことになる》というフレーズがあるが、ここだけを抜き出しても、何かの修辞技法にはみえない。本数という意味しかないから。しかし《当時の記録によれば、1969年の8月15日から翌年の4月3日までの間に、僕は358回の講義に出席し、54回のセックスを行い、6921本の煙草を吸ったことになる》とまとめて読んでみれば、ここには模様があり、「作中人物の記録」という意味を超えた、異様な何か(魔性)があることが分かる。
短詩の例として、連載第四回(本誌十号)に引き続き尾形亀之助を引くことにしよう。詩集『雨になる朝』(昭和四年)から、「十一月の電話」と題された一行の詩。
十一月が鳥のやうな眼をしてゐる
この一行のみでは、修辞としては「異例結合」(本連載前回参照)が用いられているとはいえるが、数装法ではない。これが数装法になるのは、タイトルの効果である。《十一月》に《電話》も《眼》も含まれている、という世界を、読む私は一挙に手渡され、魔の淵に投げ込まれる。《十一月》という語には一年の十一番目の月、という確固とした「濃い」意味がある筈だが、受話器の小さな穴、鳥の匂い、夜のような眼の睨み、これらの「淡い」イメージへと、数の備える魔性によって通じている。
尾形にはこれに先行する作品がある。第一詩集『色ガラスの街』(大正十四年)所収の「十一月の晴れた十一時頃」を、抄出しておきたい。さらに読みを進めるためのヒントになるだろう。《じつと/私をみつめた眼を見ました(…)私は 今日も眼を求めてゐた/十一月の晴れわたつた十一時頃の/室に》。
短歌の例をみよう。
二十三のひとみ二にん二きやく九ひやく九じふ九しゆくわんぜおん 平井 弘
さうざんど、みりおん、びりおん、とぅりりおん、桁の言葉に月光うつる 大滝 和子
一首目。歌集『振りまはした花のやうに』から。前半は、数によって「欠落」を分かってしまう私の認識の加害性を暴露する。しかるに後半は、足りない、という感触をもたらさない。現実の「千手観音像」の手は千本前後であって、じっさいに千手であるわけではない、という現実原則に照らすから、ではない。一本失ったとしても、まだそんなにある、と感じてしまう。そんなにあってなお、眼や脚を欠落した子どもたちを救うことができない無力さ。そしてまた、救われるべき「欠落」がある、と認識することの暴力。そして「障碍者」を生み出す社会の暴力。前半と後半が、ループしながら現実を暴き出す。
二首目。連作「円卓」『短歌研究』一〇〇一号から。同連作には《数よ人間を疎外する勿れ店の明かりに納豆ならぶ》というまさに数を主題に詠んだ秀作があるが(《数》という原始的にして究極の抽象から、《納豆》という小さな具体への落下、ないし上昇が見事)、主題とすることと数装法は異なる。掲歌にはよっつの《桁》の名が詠み込まれている(桁は数そのものではないから、厳密には数装法とはいえない)。《桁の言葉》のたびに、ゼロがみっつ続き、カンマが打たれる。このリズムが、歌のリズムとは別系列のリズムとして想起され、ポリリズムをなしている。trillionは桁としては兆。ここで《月光》は、地上を照らすと同時に、《月》に近づき、さらに遠ざかってゆく数列を照らしているように感じられる。
俳句の例をみよう。
秋冷の0番線といふホーム 片山 由美子
8から見えるかーんかーんと犬の昼 崎原 風子
一句目。「0番線だなんて、すごい」としかいっていない。改札などがある駅本屋に近い方から一番線・二番線とナンバリングしてゆくのだが、一番線よりも駅本屋に近い位置にホームを新設するばあい、《0番線》と名付けられるようだ(このため、さらに新設する工事中に「マイナス一番線」と呼ばれたホームもあったらしい)。《0番線》の数の魔力は人を魅了するらしく、米子駅では「霊番線」「霊番のりば」と呼び、観光客にアピールしているとのこと。似た感触の句に《駅構内0番地なる枇杷咲けり》(西村和子)がある。
二句目。崎原の使う《8》は、元々は《8月もっとはるかな8へ卵生ヒロシマ》にみられるように、「ヒロシマの8」であった。が、『崎原風子句集』においてどんどん異質なものへと変貌してゆく(《〈カミ〉貼りつけて朝の街ゆく老人8》《フニン町のみだらな鳥8は夜明ける》など)。掲句には阿部完市の語調があるようにもみえる。するとここで《8》は木登りの木であろうか。《8》は眼鏡のようだから《見える》も納得がいくが、上に登っているようにも感じられる。《かーんかーん》という乾いた音が、《8》のふたつの空洞に響く、その非情さがよい。 (続)
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おとなりの垣根の蔦紅葉(12月6日撮影)
We第17号原稿締切は12月10日です。
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