続・知青の丘

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

俳句短歌『We』第16号より 竹本仰の前号俳句鑑賞

2023-12-19 20:38:10 | 俳句
竹本仰の前号俳句鑑賞

布団よ銀河に猫の重さをなつかしむ  関 悦史 
布団には人体と切っても切れない縁がある。生まれた時から死ぬまでお世話にならぬことはなく、我々を常に背面から日常の裏から受け止めている。それゆえか、その場所では実に肉感的にものをとらえさせる。それは猫の重さであり銀河であり或いは病であり性であり、肉感が布団に還元されたとでもいうか。小生の場合、文学との出会いの場が布団であった。十六歳が庭に干した布団に寝転がって、カミュの『異邦人』を読んだ。文学の重さというより手触り?布団の上で肉声として、文庫本の活字を受け止めていた。それから半世紀、未だに「きょう、ママンが死んだ」に始まる感触は忘れない。自己に戻る場。「布団の上で死にたい」という言葉をあらためて思い出した。

金木犀かなしみ色のバスに乗り    松永みよこ 
バスにはバスの悲しみがあろう。バスについては二つのことを思い出す。一つは父の四十九日が終わり、喪が明けたあと、バスで出発する兄を見送ったこと。このバスは始発だったため少し待たされた。その待ち時間の間に何かこみあげてきた。ああ、この世に二人だけの子がいて、それぞれ父のいない世界に出ていくのかと。もう一つは、或る舞台俳優さんが直で語った話。知り合いの劇作家が亡くなり通夜に出た帰りのバスは雨で人少なく何となくうたた寝をしてしまうと、すぐ近い席に誰か座った。直観的にああ死んだ親父だと思う。死んだあと葬式に出ただけで実家に帰っていない。すまん、親父…となぜか眼が開けられなかった。親父が確かにいる、でもどうすることもできない、その客は降りる気配がした。あれは親父ではなかっただろう、だが親父がいたという感触がたしかにした。何なんだろう?バスの乗り降り停止と出発のタイミングの中に人の気配が身近に感じられる。そこにいるという体感がするのだ。そう、金木犀が匂う、そのくらいの距離感で。

天高くベルト通しに囲まれて     加能 雅臣
バンジージャンプ?でなくとも高所には或いは危険にはそれなりの配慮がついてくる。そういう安心があるから、高所でも日常の感覚で行動ができるのである。そして高くなればなるほど、その安全性は高く要求され、安全性の高さは危険性の高さの裏面ともいえる。そういう日常の裏事情を突いた感覚をふと面白く思ったのだが、連想は旧約聖書のバベルの塔の話に傾いてゆく。天上界にたどりつかんとする人間に神は言語不通の天罰を与える。知能が高度化してしまっただけにその共有言語の喪失は痛手だった。意思疎通ができないのだから作業は一歩も進まず、もはや塔はただのクズの山になった。さてさて、その共有言語が成り立ちにくいのは現世でも同じではないか。言語はあれども通じない。飛ぶ段階になった今、ベルトが通じないとしたらどうなるか?信ぜよさらば…というしかない。


ヤブコウジの影

鱗雲タイル踏むごと歩いてみる    林 よしこ
ひとは時々、今の自分をはかろうとする瞬間がある。何事か起こって、これはどうしたものか。思案というものである。だがそんな時考えすぎてはいけない。今まではどうしていたものだろう?そう言えば昔は「けんけんぱ」という遊びがあった。あれでは、見事なリズムをつかんで突破したではないか。だが今は飛び出してリズムに乗れるタイミングではない。そう、基本の法則を思い出そう。「けん・けん・ぱ」ではなく、「けん・けん・けん…」これなら闇夜でも歩けるぞ。どこかにたどり着くことが問題なのではない。まず一歩一歩…進んでどこかに帰ってゆく、何だこれは?太宰は『富嶽百景』で富士をよぎりつつ月見草のいき方を発見したが、何かが待つのが人生。発見には発見を誘いこむリズムのようなものがあるのではないか。

さよならの代わりに舌を出している  早舩 煙雨
さよならに舌を出した?だがこれは、相手にではなく、自分にではないか。なぜなら、舌を出す時間が長いと思えるからだ。相手にならペロっとで済ますだろう。だが長くなると、これは焼け付いたようにひりひりと酸っぱさ辛さがしみわたった舌だ。この舌はこれまで何を語ってきたのか。というと、まるでハムレットが墓場のしゃれこうべに語った言葉に似てきたが、他者への批判が自己批判にそのままつながってゆく。この句の面白さは、舌という部分を切り取ったところだ。これは一方で何かを求める舌にも通じていくものだ。食べ、ものを言い、相手を誘惑、また攻撃し、かつ自己批判し、さらに願望、渇望までの変貌をとげていく舌。舌を出したままにしておくと色んなものがよぎっていく。舌を出したままにしておくと、人間は自分を裸にしてしまう。

こわかった野菊ばっさり剪られてた  柏原喜久恵 
こわいのは、何か?ばっさりとハサミで伐った相手ではなく、その向こうにあるものがこわいのだ。これは実は幼子の感性に近いものではないか。その正体がわからずにこわがる。これは他からは一見無知蒙昧と見える筈のことだが、感性としては満点の出来なのだ。本や資料等メディアなどの情報によってそのこわさは解消されてゆくのだろうが、まずこわかったと感じたことの中にあらゆる世界全体が含まれている。これは○○の命令だったんだと知らされことと、こわさの向こうに感じられた何かでは、明らかに違う。月面に人類初の一歩を踏み出したアームストロング船長の眼にしたものと、その時地球にいてその画像の前で喝采していた人類の喜びとでは大きな違いがあった。切ないほど小さくて薄い青さの中にある美しい星。そこで日々何処かでは戦争に破壊に明け暮れている人類。こわいという感覚のはかり知れない大事さをふいに感じた句である。

しぐるるや地平に臭き生卵      斎藤 秀雄
若い世代の人はあまり知らないだろうが、戦後の一時代、各家庭でニワトリを飼うのが流行った。今も鶏卵が高い時代にあるが、当時はもっと貴重で、自給自足、卵を手に入れるため菜っ葉や貝を砕いた粉を庭のニワトリに与えていた。そして鶏糞も役立った。肥料にいい。ただしその庭に干した匂いたるや、卵焼きや生卵と酷似した匂いで、鶏糞の傍らでは卵に派生するものは食えなかった。本当に臭いのだ。その生卵と時雨との取り合わせ、きっと爽快な境地をめざしてのことだろうが、人間は常に生臭きものに憧れ生きてきたのだから、ふいの時雨には逆に限りない自己憐憫が湧くものではないか。何となくナサニエル・ホーソン『緋文字』を思い出す。ててなし児の母に捺された胸の不貞の烙印の緋文字A。じつはその児の父親が熱血の牧師であったという、清教徒の威風厳しき黎明期のアメリカの裏の一断面。罪は変わらないものの、罰は社会の規範により刻々変わる。罰よりも罪は重いものか。罪は罰を求めてやまない。そういう絵を見せられた気がした。

逆光てふ生き方もあり枯蓮      島松  岳
これは自分のことではないかと、ふと驚いた。先日、学生時代の同窓会があり、改めて枯蓮に似た自分を見出した。そういえば、目立つ少し手前で逆光に隠れようとする過去の自分を思い出す。これという理由はないのだが、いつまでも同じ所にいて目立ちたくないのだからしょうがない。自分の中の何かが命令する。消えたい願望というのか、姿の消し方に妙に関心があり、何か会が始まると同時に終え方、去り方に気がいく。あえて言えば去り際の哲学と言おうか、見事な消え方を美しいととらえる。とはいえ現実はそうはいかない。今も泥蓮の中にいて、脱出に苦労している。汚泥の中でなければいけないのか?余り巻き込まれたくない人間関係の汚泥に首まで捕まってしまっている。人間は泥仕合が大好きだ。なおかつそんな事など全く無かったように乗り越えられる、そんな枯蓮の哲学、どこにあるか。探そう。

ハンドマイク梅雨の奥には主婦の窓  下城 正臣
「声なき声」という表現がある。今は亡き安倍元総理の祖父にあたる岸信介元総理は、1960年、第一次日米安保条約の年、「私には国民の声なき声が聞こえる」と、安保条約並びに改憲に突き進もうとした。一方、その時国会議事堂前の安保反対デモの渦中にいた二十歳の歌人・岸上大作は〈意志表示せまり声なき声を背にただ掌のなかにマッチ擦るのみ〉の歌を遺した。真逆の「声なき声」を聞いていたのである。そして安倍元総理も「声なき声に耳を傾ける」と述べたが、「声なき声」の或る一つの糾弾の前に倒れねばならなかった。ではいったい本当の「声なき声」はどこにあるか?その答えが梅雨の奥の、毎日の家庭の雑事にあくせくする主婦の窓にあるというのだ。たとえば葱を刻んだり胡瓜もみをこしらえるその手の中にあるというのだ。おそらく真の平和の原動力もそこにしか無いというように。

原爆忌叫ぶ事故車のクラクション   瀬角 龍平
事故の後にクラクションが鳴り続けているという実景が原爆忌とクラッシュしているという光景。まさに突き刺さっているというところ。たしかにそうだな。最近は無人の安全走行車まで市販しているが、無事故というわけにはゆかないだろう。原発でさえ少し前には完全無欠という神話に守られていた。人類の発展に事故や犠牲はつきものであり、そう考えると被爆の人びとの願いもまた、原爆忌が終われば、たやすく忘れられるではないか。この句は原爆忌に突き刺さった小さな一事故に問いかけられているということなのであろう。ととのった言葉、ととのったセレモニー、各国要人のお歴々の前でなら、果たして明日は在り得るのか。この句に見られる問い、或いは一人一人にある問い、それを総計すればどうなるか。本当はもう裾野に火の手が上がっている。いつかの映像のように群衆がそのまま自分の街から逃走する避難民となってしまわないか。このクラクションはそんな未来への警鐘ではなかったか。

冴ユル眼ニ海綿ト化ス鉄塊ガ     竹岡 一郎
一人の人間が衰えてゆくのにも見える句である。老いというのは、海綿化することなのか?鉄は海に弱い。しかし征服の意志、闘いの意志は、鉄で海を乗り越えようとする。ちょうど思考が感情を乗り越えるように。だが、感情は思考ほど浅くはない。人間において思考の歴史は浅く、感情の歴史は長く深い。海のような悲しみはあっても、星のような思考はあるだろうか、むしろ星に隷属した思考ならあろう。そして、鉄には鉄の悲しみがある。タイタニック号や戦艦武蔵の海底の残骸には何とも安らかな曳揺がある。自然な末路はこれではなかったか、というように。鉄に〈わたし〉の意志があるとすれば、〈わたし〉の解体は海に於いてしかなかろうか。

経典を女人と読みつぐ寒の紅     阪野 基道 
経典というのは道具のようなものだろうか。経典というくらいだから、どこかへ至るための教えであり、そのルールと言えるだろうか。そしてなぜか、これを作ったのは女人ではなさそうだ。だがここはその女人と読み継ぐことになったというのだから、この設定は面白い。小林秀雄の「無常といふ事」の冒頭で有名になった「一言芳談抄」を思い出す。中世の初め、比叡山山王権現の一つの前で或るどこかに仕える若い女房が、深夜鼓を打ちながら必死に何か歌っている。この世はこれで仕方ない、来世ではお助けください、というのだ。これを記録したのはさる信仰篤い者であろうが、この女の真情に打たれたのだろう。これも「読みつぐ」と言えるなら、この句の「読みつぐ」にはそんな女の真情は隠され、一見波風立たぬようにではあるが、何らかの心情を読み取りたいとする男心もうかがえる。ひょっとしてこういうつながり方もまた実は経典を支えていた「読みつぐ」なのではないか。そういう歴史の影の沈黙を感じたということではなかろうか。

こころ做し目の合ひて立つ帰燕かな  宮中 康雄
人間の生活に最も馴染んできたツバメ。軒下に家族の一員のように営巣し、その快活さで我々を楽しませてくれるツバメ。もちろん彼らには人間の情が分かりそれを当てにしての生活をいとなんでいる。来たときはそれが挨拶代わりなのか、割と目立つように飛ぶ。だが帰りについては実に速やかであり、いつの間にかというようにいなくなってしまう。その機を察して群れとなり帰っているのだろうが、ここでは、あれが別れの挨拶だったのかと後でわかるような様子があったというのだろう。きっと目が合ったというだけでそれでもお別れの情は余さず伝えてくれたのだ。これはしかし、人間の風習を覚えてのものか、それとも元々こういう印しを親しいものだけにこっそりくれるものなのか。心憎いものだが、さて我々は彼らに感謝されていたものか。否、実は感謝せねばならなかったのではないか。

ふところに夜叉をひそませ薬喰    森 さかえ
薬喰は、冬の寒さに備え獣の肉を食す、という所から来たものらしい。肉食は生殺与奪、殺生の戒めに背くとした仏教観の支配下にありつつ、いやこれはのちの薬になるからとの方便を用いて、ウサギの数え方を四つ足の獣ならぬ「一羽、二羽」に変えて食ったのに類する知恵だろう。ところが実は夜叉を飼い肥らせて、そいつにぱくぱく食わせているとなると夜叉喰と呼ばれるものではないか。夜叉はいるの?いるいる、誰の心にも。そう思うと、この句には強烈な自己批判ともとれぬこともない。だが、夜叉といえど、淋しく痩せた夜叉だっているのだ。善だけじゃ生きていけない、だったら善悪ともども生きていくしかないのだ。ただし半分こでね。という風景と見てしまった。

歩くこと走らないこと蟬しぐれ    森  誠
蟬しぐれというと、激しくて一途でというように受け取るが、作者のとらえ方は違う。そのリズムを聞き分けている。歩け、走るな、である。ここに信憑性を感じる。蟬しぐれには樹があり、樹には気があり…それを感じての呼応がここにあるのである。思えば、感じるというのは感じ合うこと。我々はひたすらこの呼応の中に生きている。歩くことは走らないことであり、この当たり前の感触を余さず伝えることこそが、生きているということ。なるほど、なるほど。何だかうれしくなった句である。

着ぶくれの言葉をはがすミルクティー 内野多恵子 
渋くはない適度な甘さで香りも残し…とミルクティーにはまると、正確な自分の味覚の価値観を見出すことになる。さてしかし、自分の言葉を見出すのはどうするか。何か書くか?それではまず、自分の書きたいと思うものを。かくして詩や散文を。それは多くの読者でなくていい、一人でもいい、何となくわかってもらえたら。という風に小生流の書き方に我田引水式に寄せてしまったが。そうそう、そんなことすら考えない人も多いんだから。小さな楽しみでいいじゃないか。今まで何人の方に読んでもらえました?よかったじゃないですか。と、何となく柔らかく肩をたたかれている感じがしたのである。

いつか死ぬ今日じゃないよね神無月  江良  修
生き物はいつか死ぬ。ゆえに自分もいつか死ぬ。だが、それは信じられないことだ。と思うのは誰しもそうなのだ。多分、生きるというのは、死を信じないという意識に支えられているのだろう。自分の生が永遠だということだ。だがそれも信じられず、断捨離や終活ということになる。もちろん宗教というコースもあるのだが、どうも死というのは学ばねばならぬもののようだ。その点、葬儀に出るというのはいい経験になる。事後の流れがよくわかる。ああしてこうなったのか。つまり死を日常に入れることから始めるのだ。先日、六十代も半ばの同窓会に出ると、いい死に方という話題が出て、結構多くに共感されていた。日常のレベルで死を考えろと、これは思えば、先祖や先人が教えてきたことに他ならないのだった。そう、学ばねば。

熟れすぎた桃は拇ごと啜る      小田桐妙女
熟れた桃はすぐに指の跡をつけてしまう。だから果物屋やスーパーでは要注意である。そして買った後に少し熟れすぎまで来た桃こそもっとも美味であるのだが、何としても指は食い込む。その感触のまたとない幸せは、三鬼が〈中年や遠くみのれる夜の桃〉としたあの領域のものであろう。こうなるともはや桃を食うのではなく、桃に食われてしまうのである。つまり共食いのありさまが展開される。異様なほどの盛り上がりのうちに返り血を浴びたようにびしょびしょとならざるを得ない。そして事のてんまつをふいに親指だけが静かに見つめていた。ここにこの句の面白さがある。この醒めた親指をいとおしむ私は誰だ?最後はお前だ、と指を啜ったか。なぜか落語「粗忽長屋」を思い出す。「俺は死んだのか…もっとうまいものを食っときゃよかった」「この抱かれているのは(死んだ)俺なんだけど、抱いている俺はいった誰なんだ?」と響き相通ずる余韻を想像してしまった。

十二月十九日の子宮雪が降ったね  男波 弘志
この日付は出生だろうか、死だろうか。多分、後者なのだと思う。たとえば母との結びつきを直接にまた根源的に感じさせるのは、子宮以外にない、そしてそれを強烈に思い出させるのは死ではないかと思うからだ。宮沢賢治に「永訣の朝」があり、妹との今生の別れにみぞれが選ばれ、不意に来世へ目を向けさせるために、彼女はみぞれの茶碗一つ分を賢治に要求する。このやりとりは酷いほどリアルである。彼らは兄妹という二人の関係を互いに自分のもう一つの分身ととらえていたようだ。その点、この句には氷河期の終わりからつづく人類の歴史を垣間見させつつ、未来とはその母なる空洞に帰ることなのだとさり気なく感じさせられたという実感があるように思った。雪が降ったね、の「ね」に確かめている相手は母なのだろうか、この対話のスペースにこそ魅力がある。

誰一人泣かせずサランラップ居士  しまもと莱浮
泣く、それに居士、となると、これはお葬式かとなる。しかもよく出来た人物で何から何まで手続き怠りなく、葬儀が終われば「でしょ?」とにんまりした笑みまで感じさせられるという寸法だったのではないか。終活をまじめに取り組む人は、やむなくという方もおられる反面、いやいやこれが生涯最後のお仕事と前向きな方も当然おられるだろう。その死に接した人々はそういう潔さに感心する一方で、彼の仕事ぶりの裏側を覗いてみたいという誘惑にどうしても駆られるわけである。そして、そんな追慕の思いも予想しての取り組みだったのだろうなと後からよくわかるように出来ている。ちょうどカーテンコールのリハーサルに、客の退場シーンも想定したように。いい作品だったではないか?だが、すべて終わり、翌年の追悼の集まりにみられる意外な淋しさまで予想は出来なかったであろう。死は生と変わらず共有のものだから、波紋は小さいながら深くにまで及んでくるものなのだとは。やはり山頭火の名句〈やっぱり一人は寂しい〉のだった。

煉獄へ春満月の帯垂らす       加藤 知子
どんな罪だったかと思うより、投獄とは共通に男にとっては、「私はしきりに、一人の女を、女たちを、また、私の知った女たちを、愛撫を与えたあらゆる機会のことを思い、ために私の独房は、女たちの顔に満ち、私の欲情で一杯になった。」とカミュが小説『異邦人』の一節に紹介したその状態に投げ込まれるようだが、それと一対のようにこの句を読んだのである。『異邦人』にあって、投獄された主人公ムルソーに、恋人マリーはひたすらその釈放を願うばかりのようだが、この句では自分のおもちゃ箱の中の一つのように、あの男どうしているかしら、この満月でも見て私の事を思い出してくれてるのかも、と思う雰囲気である。もちろん相手がいなければお互いに生きていけない者同士なのだが、それでも自分が優位に立ちたいというイニシアティブがどうしても働く。カミュはその小説で、女を自由の象徴と見て深くムルソーに悩ませるのだが、この句の背後には女の自由が男を導くという自負のようなものが感じられる。本朝の和泉式部は、悩み悩ませるのを本願として人間存在の根幹を恋愛に見出した、そういう実存主義のひとと思ったのであるけれど、この句にはアテナイ期のアリストファネス『女の会議』のような確たる自信。そこをぬけぬけという所に面白さを感じた。

ナナホシテントウムシ(12月9日撮影)
大根葉に付いていたもよう。
青虫は40匹くらい手に掛けた~
ことしの大根は葉は茂っているが
出来は悪いようにおもう。
根が大きくなっていないみたい~

15日が最低14℃、最高22℃
で、それまで暖冬できていたが
いきなり、
昨日18日は、-2℃、8℃
今日19日は、3℃、7℃
これからしばらくこんな感じで推移していく予報だ。
この上がり下がりは、
川崎汽船株の上がり下がりにも似ていて
なんとも刺激的。
ここまで騰がるとは!
売らされちまったあ~

あの「チャレンジング」発言は
今後どうなるのかな~




コメント    この記事についてブログを書く
« 俳句短歌『We』第16号より... | トップ | 月刊『俳句界』2024年1... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

俳句」カテゴリの最新記事