ここで云う、内に在る神様とは、よく言われる良心とか思いやる心などではございません。自分の中に在る、高次の自身と言いましょうか、あるいは真我と言う言葉も当てはまります。簡単に言えば、生まれた時に神様から頂いた、分身である魂を言います。人に心が存在する前に宿る、本当の自分です。
人が生まれ、赤ちゃんの時は老子さんが褒めるぐらい天真爛漫ですが、長じますと知識、環境、親、友達により形成された心が確立してきます。その心は年齢を重ねるごとに固まり、老いては頑固になる人もいます。この心が魂を覆い、本当の天真爛漫なる真の自分を隠します。これが後天の働きです。キリスト教では、神の子であるが罪も在るというのは、この覆う存在があるからだと考えます。
太古の頃であれば、人が純朴で心を乱す娯楽も無く、人の魂は天真爛漫そのままで、成長できたのですが現代を生きる我々には兎に角、心を乱す情報が散乱しているのです。ここに於いて、日常の生活、道徳だけでは、人心を捨て、道心に還ることが難しいのです。
坐の道は、人心を排し、自己本来の面目である道心に至ることが可能です。坐は、ゆっくりと落ち付いて座ります。人為的動作を一切すること無く、労苦せず、在るがままに、穏やかに、自己の中心へと向かいます。一朝一夕で至れる世界では決して御座いません。根気よく、根強く坐り続けるのです。不可思議な事があれば坐は、即座に停止しなければなりません。坐道の不思議とは魔であるからです。時間を決めてするのが良い様です。道院の坐は、初歩の人は、16分です。慣れてきても毎日、自分が坐れる時間が一番いいと思います。無理は禁物です。ある時、自己の中心にたどり着いた時、本来の自分との出会いなのです。ここに自分を確立すれば、覚神であり、自分自神であり、内在神の発露と為ります。これが神人合一への道に繋がるのであります。坐の道が堅固となれば、後天の精気神の三宝は先天の炁霊性に通じ、天地間と道を等しくするのです。
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太古の頃であれば、人が純朴で心を乱す娯楽も無く、人の魂は天真爛漫そのままで、成長できたのですが現代を生きる我々には兎に角、心を乱す情報が散乱しているのです。ここに於いて、日常の生活、道徳だけでは、人心を捨て、道心に還ることが難しいのです。
坐の道は、人心を排し、自己本来の面目である道心に至ることが可能です。坐は、ゆっくりと落ち付いて座ります。人為的動作を一切すること無く、労苦せず、在るがままに、穏やかに、自己の中心へと向かいます。一朝一夕で至れる世界では決して御座いません。根気よく、根強く坐り続けるのです。不可思議な事があれば坐は、即座に停止しなければなりません。坐道の不思議とは魔であるからです。時間を決めてするのが良い様です。道院の坐は、初歩の人は、16分です。慣れてきても毎日、自分が坐れる時間が一番いいと思います。無理は禁物です。ある時、自己の中心にたどり着いた時、本来の自分との出会いなのです。ここに自分を確立すれば、覚神であり、自分自神であり、内在神の発露と為ります。これが神人合一への道に繋がるのであります。坐の道が堅固となれば、後天の精気神の三宝は先天の炁霊性に通じ、天地間と道を等しくするのです。



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