玄徳道

道を語るブログです。

内在神と坐道

2012-06-19 19:29:37 | 坐道
ここで云う、内に在る神様とは、よく言われる良心とか思いやる心などではございません。自分の中に在る、高次の自身と言いましょうか、あるいは真我と言う言葉も当てはまります。簡単に言えば、生まれた時に神様から頂いた、分身である魂を言います。人に心が存在する前に宿る、本当の自分です。
人が生まれ、赤ちゃんの時は老子さんが褒めるぐらい天真爛漫ですが、長じますと知識、環境、親、友達により形成された心が確立してきます。その心は年齢を重ねるごとに固まり、老いては頑固になる人もいます。この心が魂を覆い、本当の天真爛漫なる真の自分を隠します。これが後天の働きです。キリスト教では、神の子であるが罪も在るというのは、この覆う存在があるからだと考えます。

太古の頃であれば、人が純朴で心を乱す娯楽も無く、人の魂は天真爛漫そのままで、成長できたのですが現代を生きる我々には兎に角、心を乱す情報が散乱しているのです。ここに於いて、日常の生活、道徳だけでは、人心を捨て、道心に還ることが難しいのです。

坐の道は、人心を排し、自己本来の面目である道心に至ることが可能です。坐は、ゆっくりと落ち付いて座ります。人為的動作を一切すること無く、労苦せず、在るがままに、穏やかに、自己の中心へと向かいます。一朝一夕で至れる世界では決して御座いません。根気よく、根強く坐り続けるのです。不可思議な事があれば坐は、即座に停止しなければなりません。坐道の不思議とは魔であるからです。時間を決めてするのが良い様です。道院の坐は、初歩の人は、16分です。慣れてきても毎日、自分が坐れる時間が一番いいと思います。無理は禁物です。ある時、自己の中心にたどり着いた時、本来の自分との出会いなのです。ここに自分を確立すれば、覚神であり、自分自神であり、内在神の発露と為ります。これが神人合一への道に繋がるのであります。坐の道が堅固となれば、後天の精気神の三宝は先天の炁霊性に通じ、天地間と道を等しくするのです。


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玄徳

2012-06-19 15:30:33 | 道徳経
能為第十

営魄に載り一を抱いて、能(よ)く離るる事無からん。気を専らにし柔を致して、能く嬰児たらん。玄覧を滌除(てきじょ)して、能く疵無からん。民を愛し国を治めて、能く無為ならん。天門開闔して、能く雌たらん。明白四達にして、能く無知ならん。之を生じ之を畜(やしな)い、生じて有せず、為して恃まず、長じて宰せず。是を玄徳と謂う。

養徳第五十一

道之(これ)を生じ、徳之を畜い、物之を形づくり、勢い之を成す。是を以て万物、道を尊び徳を貴ばざるは莫(な)し。道の尊きと徳の尊きとは、夫れ之に命ずる莫くして、常に自然なればなり。故に道之を生じ、徳之を畜ない、之を長じ、之を育て、之を成し、之を孰し、之を養い、之を覆う。生じて有せず、為して恃まず、長じて宰せず。是を玄徳と謂う。

玄徳第五十六

知者は言わず、言う者は知らず。其の兌(あな)を塞ぎ、其の門を閉じ、其の鋭を挫き、其の粉を解き、其の光を和らげ、其の塵に同ず。是を玄同と謂う。故に得て親しむ可(べ)からず。亦(また)得て疎んず可からず。得て利す可からず、亦得て害す可からず。得て貴くす可からず、亦得て賤しくす可からず。故に天下の貴と為る。
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