玄徳道

道を語るブログです。

応援道

2012-06-22 20:09:52 | 道徳
神様はきっと人には幸せになって欲しいと想っている。

しかし、人間自身は、神様の御心よりも、自分を幸せにしたいと思うエゴで一杯で、幸せを想う神様に近づく事も感じる事も出来やしない。おまけに自分の心の奥に神様がいる事も知らずに、自分の心しか見ていないのだから。
それでも神様は、いつでも人の幸せを想っているよ。生まれた吾が子の幸せを願わぬ親はいないのです。

私は無能です。人を救う力などありません。だけど、人には幸せになって欲しいのです。

私が歩む坐道は私を救いました。だけど、それを人に示しても、強いる事は道で無くなります。人のそれぞれ縁がある以上、自分が良いと思っても、他人にとって善いとは限りません。願わくば、すべての人が自分に合う道を見つけてくれたらそれが一番良いと思います。

八百万の神々の数だけ道があるのです。そして行きつく頂上は同じです。

人を真に幸せにする道を、様々な道を私は応援します。無学無能な私は応援しかできないのです。

今日も応援。明日も応援。明後日も応援。そして、人を愛する神様も応援します。

人の真心の感化は、きっと全ての万象に通じるのです。

「汝の神は汝を愛し給う。」


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命如と命守の分かれ道

2012-06-21 21:48:06 | 考察
昔、ある宗教団体で天命神通と言う自称、神法という行法を行う方がおられました。私は、当時、自分が何のために生まれて来たのかを切実に知りたかったので、ものすごく興味がありました。ただし、お金がものすごく掛かるとの事でしたので、今も昔もスーパー貧乏人の私には当然無理でした。受けた方の話を聞きましたら、「前世殿様の家に生まれ、幼年の時首を切られ死んだので今生は、長生きをする…」ぐらいの話だったような記憶があります。私は、それって天命?と不思議に思いましたね。20年ぐらい前の話です。

中庸では、「天の命ずるをこれ性と謂い、性に率(したが)うこれ道と謂い…。」とあります。天命とは人間社会の役割ではありません。自己の欲を無くし、好悪を無くし、真実の自分に還ることにより自分の生来の本性を悟ることでその性格、天命を悟るのです。言葉に出来ない自分の働きを感覚で覚えるのです。「自分の天命は人を助ける、あなたの天命は、神に仕える」等の戯言は性堅命如と呼び、あたかも天命を装いながら実は人間心で勝手に天命を決めている事なのです。
天命は、他人が決めることでも自分が決める事でもありません。自分が道を歩み、人欲を排して後、真実の自分の中の性来の働きです。
心が欲に囚われず、何事も適ある行動を成し、自己の本性を坐の道等で養うのを性堅命守と述べ、修道者が守るべく道なのです。

自分の学識、霊能力などに囚われる宗教家、教祖等が自分を神の如く君臨させることで、その命如の弊害を生む事が多い様です。

自分が謙(へりくだ)ることが出来て、修道を歩む人にはその害はあまりありません。

偉くなり驕れば滅びるの意味は、ここに在るのです。天命をじぶん思うままにしようとする事は道から外れるのです。天命は神の命である以上、天より咎めは自分を襲うことになります。

道を歩む人は、常に無為自然こそが、知識や人為にまさる道である事を悟るべきであると考えます。


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夏至の坐道

2012-06-20 20:24:08 | 坐道
シンガポールの修坐指導員より紅卍字会の会長、正備さんを経て連絡が入りました。
明日、6月22日、午前、8:08は夏至の日であります。夏至の日の坐は、「純陽」純粋な陽エネルギーを得る良い機会なので大事に坐って欲しいとのことです。日本時間では明日の朝、8:08分だそうです。皆さまよろしくお願い致します。
それと反対に、冬至の日のそれも「純陰」を得る好機だそうです。
ん。これと同じことを誰か言っていたよなあ。ああそうそう、無名の神人「炁楽仙女」さんが言われていました。修方さんと言う方のブログ「永遠の生命、安心」に書いてありました。こちらも参考にして下さい。

しかし、正備さんは大変親切な方であります。紅卍字会に会費も払っていない、不肖な弟子の私に、わざわざ連絡していただけるとは本当に感謝です。いつも若輩の私ごときにいつも丁寧な言葉で道を示して下さいます。知識に偏らず、決して驕らず、謙譲の美徳の塊のような方でございます。東京総院に居られる(普段はサラリーマン)と思いますので縁があればお会いされてはと思います。(勝手に書いて怒られるかも)いつも、本当にすみません。ありがとうございます。

老祖は親切なる心を以って現化、降臨されました。親切とは、人の真心。人の誠・真心こそが神に通じる一本の道なのかもしれません。私も大いに見習わねばなりません。

道院の坐をする以外の坐禅や瞑想をする方も是非、試されたら良いかと思います。道を歩む以上、行きつく先は、同じ頂上です。
ここに優劣は、ありません。
しかし、時間が朝の八時か、当然仕事中。ちょうど朝礼中なので、朝礼に意識を向けずに心坐をしようと思います。もちろん早朝の坐は欠かしませんので、朝の坐も大事に坐ります。

道院の先天坐は、地球の自転速度、公転とも深いかかわりがあるようです。あまり難しい事はアホな私にはわかりませんが。

特別な日であっても、なくても私は、自分の坐道を歩み続けるたいと思います。

道とは歩み続ける自己の誠であり、そこに損も得もありません。歩み続ける故に、道と名付けるのです。


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内在神と坐道

2012-06-19 19:29:37 | 坐道
ここで云う、内に在る神様とは、よく言われる良心とか思いやる心などではございません。自分の中に在る、高次の自身と言いましょうか、あるいは真我と言う言葉も当てはまります。簡単に言えば、生まれた時に神様から頂いた、分身である魂を言います。人に心が存在する前に宿る、本当の自分です。
人が生まれ、赤ちゃんの時は老子さんが褒めるぐらい天真爛漫ですが、長じますと知識、環境、親、友達により形成された心が確立してきます。その心は年齢を重ねるごとに固まり、老いては頑固になる人もいます。この心が魂を覆い、本当の天真爛漫なる真の自分を隠します。これが後天の働きです。キリスト教では、神の子であるが罪も在るというのは、この覆う存在があるからだと考えます。

太古の頃であれば、人が純朴で心を乱す娯楽も無く、人の魂は天真爛漫そのままで、成長できたのですが現代を生きる我々には兎に角、心を乱す情報が散乱しているのです。ここに於いて、日常の生活、道徳だけでは、人心を捨て、道心に還ることが難しいのです。

坐の道は、人心を排し、自己本来の面目である道心に至ることが可能です。坐は、ゆっくりと落ち付いて座ります。人為的動作を一切すること無く、労苦せず、在るがままに、穏やかに、自己の中心へと向かいます。一朝一夕で至れる世界では決して御座いません。根気よく、根強く坐り続けるのです。不可思議な事があれば坐は、即座に停止しなければなりません。坐道の不思議とは魔であるからです。時間を決めてするのが良い様です。道院の坐は、初歩の人は、16分です。慣れてきても毎日、自分が坐れる時間が一番いいと思います。無理は禁物です。ある時、自己の中心にたどり着いた時、本来の自分との出会いなのです。ここに自分を確立すれば、覚神であり、自分自神であり、内在神の発露と為ります。これが神人合一への道に繋がるのであります。坐の道が堅固となれば、後天の精気神の三宝は先天の炁霊性に通じ、天地間と道を等しくするのです。


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玄徳

2012-06-19 15:30:33 | 道徳経
能為第十

営魄に載り一を抱いて、能(よ)く離るる事無からん。気を専らにし柔を致して、能く嬰児たらん。玄覧を滌除(てきじょ)して、能く疵無からん。民を愛し国を治めて、能く無為ならん。天門開闔して、能く雌たらん。明白四達にして、能く無知ならん。之を生じ之を畜(やしな)い、生じて有せず、為して恃まず、長じて宰せず。是を玄徳と謂う。

養徳第五十一

道之(これ)を生じ、徳之を畜い、物之を形づくり、勢い之を成す。是を以て万物、道を尊び徳を貴ばざるは莫(な)し。道の尊きと徳の尊きとは、夫れ之に命ずる莫くして、常に自然なればなり。故に道之を生じ、徳之を畜ない、之を長じ、之を育て、之を成し、之を孰し、之を養い、之を覆う。生じて有せず、為して恃まず、長じて宰せず。是を玄徳と謂う。

玄徳第五十六

知者は言わず、言う者は知らず。其の兌(あな)を塞ぎ、其の門を閉じ、其の鋭を挫き、其の粉を解き、其の光を和らげ、其の塵に同ず。是を玄同と謂う。故に得て親しむ可(べ)からず。亦(また)得て疎んず可からず。得て利す可からず、亦得て害す可からず。得て貴くす可からず、亦得て賤しくす可からず。故に天下の貴と為る。
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