ここのところの無差別・通り魔や放火事件をニュースで見ていると、犯人は「誰にも相手にされない」事が理由の一番にしているように思える。
携帯でウェブページを作ったり、掲示板に書き込んでも、誰も返事をしてくれない。自分の存在価値が否定されたので、アピールする事の方法で犯罪を選ぶ。「マスコミが注目するには沢山の人を殺す事が手っ取り早い」それが一連のニュース報道で自分が感じた事だ。それを当然全国の同じ状況におかれている立場の者も思っているだろう。
子供の頃から、人生の主人公は自分だけしか居ない。と直接・間接的に課程や学校でインプットされてきたが、それは正しく伝わっているんだろうか?
サーガとして伝えられる、歴史に名を残すのは「非常にまれな人」しかいない。一般人は家族か近所に住む人、一時的に交際のあった者の間でしか知られる事は出来ない。それすらも、相手を思って努力しなければならない。事なのを忘れているんだろう。
自分が家族から注目されている事・家族から期待やほめられる言動を、見ず知らずの世間に求めているし、自分自身の相手を無視した言動を発表すれば、世間は賞賛し、ちやほやしてくれる。そんな妄想が正しい反応だと信じている。
それがないときに、自分を変える事が出来ない。なぜなら、自分は間違っていない存在だから。
自らは与える存在ではなく、与えられる存在。である生活しかおくってこなかった。
与えられるには、与えるしかないが、その事自体を分からない、でも、現状を変えたいが、どうしたら与えてもらえるかが分からないから、奪ってしまう。
時間はかかってもゆっくり行動する事を、家庭・学校・社会・マスコミも、もう一度普遍的な常識として人の意識に植え付けないと行けないのかもしれない。