[注釈]
* sous le signe de l’absurde et de la ne’gation : signe とは「符号」のことですから、カミュ= 「不条理」といった受け止められ方のことです。
* de saisir sa vie comme un destin : この解説文では、カミュにおける矛盾、両義性が問題とされています。つまり、あるがままの現実を捉える態度と、その変革を目指す側面のことです。そうすると、posse’der le monde, en avoir une perception comple`te は、後者の側面を、saisir sa vie comme un destin は、前者の態度に対応しているように思われます。
* si cate’goriquement condamne’e par Breton : 『反抗的人間』の発表を機に、「現実の変革」に臨む、その審美的、政治的意識について、カミュと、ブルトンを筆頭とするシュール・レアリストの間で激しい論争がありました。
* Le roman s’en racine.. : 要は、la justification profonde de la fiction romanesque のことですから、Moze さんの「根付いている」という解釈で問題はありません。
[試訳]
カミュの作品は、えてして不条理や否定といった符号のもとに置かれる。現代を生きながら悪や死について自問する人間に、世界は答えを返すことはないのだから。ところで、作家自身が指摘していたように、不条理の作品群(小説『異邦人』1942年、論考『シジホスの神話』1942年、戯曲『カリギュラ』1944年)の後には、行動を前提とする反抗の作品群(小説『ペスト』1947年、戯曲『正義』1950年、論考『反抗的人間』1951年)が続く。カミュにとって「矛盾とは、人間はあるがままの世界を受け入れることは出来ないのに、そこから逃れることも潔しとしないことだ」(『反抗的人間』p.326)この同じ矛盾が、芸術家の態度を特徴づけてもいる。「芸術とは、称賛と同時に否定するこの運動のことだ。どんな芸術家も現実を受け入れることはない、とニーチェは言った。確かにその通り。けれども、どんな芸術家も現実をなかったことにはできない」(p.317)
このことはとくに小説家にあてはまる。小説家は、人間の「形而上学的欲望」を、つまり、世界を所有し、世界を完全に見通そうとし、だがまた同時に、その人生を運命としてとらえようとする欲望を、満たすことができるからである。
小説と運命
そこに、小説による虚構の深い動機がある。それをブルトンは手厳しく批判したけれども。「とりとめもない世界」にまとまった形を与えることのできない苦しみを生きる人間に、小説は似たような苦しみを生きる登場人物たちを提供してくれる。ただひとつ違うのは、「登場人物たちは、彼らの運命の果てまで駆け抜ける」点だ。それが可能なのは、まさに彼らが想像上の人物だからである。小説は、つまり、枠もなく、とりとめもなく生きながらも、生の形を希求する、人間の最も深い条件に基づくものである。
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本文に付されたこういう解説文の方が、えてして読みづらいということはあります。いかがだったでしょうか。
さて、次回は、いよいよ『反抗的人間』の本文を読むことにします。少し長いのですが、かといって2回にも分けづらく、一挙に読んでしまうことにします。
大阪という土地は、南洋に面した和歌山県の北に位置します。年があらたまりしばらくすると、スーパーなどの店頭に、陽を浴びると黄金色に見える、和歌山産の八朔(はっさく)が並びます。そのどことなく暖かな色調に、ぼくはいつもそう遠くない春を感じるのです。今年買い求めた八朔は、どれも瑞々しく、甘く、例年よりもまして、舌で春の訪れを実感しています。
smarcel
* sous le signe de l’absurde et de la ne’gation : signe とは「符号」のことですから、カミュ= 「不条理」といった受け止められ方のことです。
* de saisir sa vie comme un destin : この解説文では、カミュにおける矛盾、両義性が問題とされています。つまり、あるがままの現実を捉える態度と、その変革を目指す側面のことです。そうすると、posse’der le monde, en avoir une perception comple`te は、後者の側面を、saisir sa vie comme un destin は、前者の態度に対応しているように思われます。
* si cate’goriquement condamne’e par Breton : 『反抗的人間』の発表を機に、「現実の変革」に臨む、その審美的、政治的意識について、カミュと、ブルトンを筆頭とするシュール・レアリストの間で激しい論争がありました。
* Le roman s’en racine.. : 要は、la justification profonde de la fiction romanesque のことですから、Moze さんの「根付いている」という解釈で問題はありません。
[試訳]
カミュの作品は、えてして不条理や否定といった符号のもとに置かれる。現代を生きながら悪や死について自問する人間に、世界は答えを返すことはないのだから。ところで、作家自身が指摘していたように、不条理の作品群(小説『異邦人』1942年、論考『シジホスの神話』1942年、戯曲『カリギュラ』1944年)の後には、行動を前提とする反抗の作品群(小説『ペスト』1947年、戯曲『正義』1950年、論考『反抗的人間』1951年)が続く。カミュにとって「矛盾とは、人間はあるがままの世界を受け入れることは出来ないのに、そこから逃れることも潔しとしないことだ」(『反抗的人間』p.326)この同じ矛盾が、芸術家の態度を特徴づけてもいる。「芸術とは、称賛と同時に否定するこの運動のことだ。どんな芸術家も現実を受け入れることはない、とニーチェは言った。確かにその通り。けれども、どんな芸術家も現実をなかったことにはできない」(p.317)
このことはとくに小説家にあてはまる。小説家は、人間の「形而上学的欲望」を、つまり、世界を所有し、世界を完全に見通そうとし、だがまた同時に、その人生を運命としてとらえようとする欲望を、満たすことができるからである。
小説と運命
そこに、小説による虚構の深い動機がある。それをブルトンは手厳しく批判したけれども。「とりとめもない世界」にまとまった形を与えることのできない苦しみを生きる人間に、小説は似たような苦しみを生きる登場人物たちを提供してくれる。ただひとつ違うのは、「登場人物たちは、彼らの運命の果てまで駆け抜ける」点だ。それが可能なのは、まさに彼らが想像上の人物だからである。小説は、つまり、枠もなく、とりとめもなく生きながらも、生の形を希求する、人間の最も深い条件に基づくものである。
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本文に付されたこういう解説文の方が、えてして読みづらいということはあります。いかがだったでしょうか。
さて、次回は、いよいよ『反抗的人間』の本文を読むことにします。少し長いのですが、かといって2回にも分けづらく、一挙に読んでしまうことにします。
大阪という土地は、南洋に面した和歌山県の北に位置します。年があらたまりしばらくすると、スーパーなどの店頭に、陽を浴びると黄金色に見える、和歌山産の八朔(はっさく)が並びます。そのどことなく暖かな色調に、ぼくはいつもそう遠くない春を感じるのです。今年買い求めた八朔は、どれも瑞々しく、甘く、例年よりもまして、舌で春の訪れを実感しています。
smarcel