[注釈]
* non ce qu’en a dit Freud, (…), mais pour les rapprocher des le’vitations des mystiques, : des re^ves de le’vitation について、il y aurait beaucoup de choses a` dire としながらも、それは必ずしも、フロイトの解釈ではありませんよ、と述べられています。フロイトは、身体の急激な高度変化の感覚を性的な興奮に結びつけたわけですが、ユルスナールは、夢の中のその上下運動は、本来はもっと穏やかなものではなかったか、と異議を唱えています。
ここで、先日ご紹介した新宮一成『夢分析』から関連する箇所を引いておきます。
「性は、言語によって媒介されないと活動できない。恋愛の告白から、結婚の制度的な手続きにいたるまでみなそうである。したがって、空飛ぶ夢が性的な活動を表しているということの意味は、新しい言語活動の中に入ることだという認識を、夢が示しているということなのである。シャガールの絵には、空をただよう新婚のカップルがしばしば描かれる。新しい言語活動を獲得した彼らの性は、そうした言語活動以前の仲間たち、すなわち牛や山羊を引き連れて、自由に舞っている。」(p.12)
ここではまた、「青春のみずみずしさがみなぎっている」寺山修司の短歌、「青空より破片集めてきしごとき愛語を言えりわれに抱かれて」(p.11)も紹介されています。
[試訳]
* けれども、空中浮遊の夢については、語らなければならないことがたくさんあることでしょう。といってもフロイトの説ではありません。そうした夢をただ性的にだけとらえるフロイトの解釈は、いつも間違ってるように私には思えます。そうではなく、そうした夢を神秘主義者、とりわけ聖テレーズの空中浮遊と比べてみたいのです。私が実際に夢見た、あるいは知っているあらゆる空中浮遊においは、飛ぶといっても、それはとても低く、2,3メートルを越えることはありません。飛行とか上昇ではなく、例えば浮かびながら横滑りしてゆく感じで、夢見る者は時に下降して地面に軽く触れたかと思うと、またふたたび昇ってゆくのです。
そうしたものとは対照的に、私にとってここで重要なのは、個々人の運命が夢という地金を打つ様です。夢見る者がその人に固有の化学の法則に従って、こうした同じ心理的、感性的な要素を結びあわても、二つとない合金が出来上がる。それはそうした要素に、二度とはない運命という意味を担わせるからです。夢があれば、そこには定めがある。夢によって定めがあらわされているものに、私は心ひかれます。
…………………………………………………………………………………………………….
実は、最後の部分 je m’inte’resse surtout au moment...の訳に戸惑ったのですが、Moze さんの「心を寄せる」という訳は、ここにぴったりですね。
misayo さんが年初に読まれたという『大江健三郎 作家自身を語る』は、たしか、大江が信頼を寄せる、読売新聞文芸部の尾崎さんを相手に自身の作家遍歴を語ったものですね。ぼくも、ある年の夏の茹だるような日々に勉強をサボって、同書を読みふけっていた記憶があります。
奇遇ですが、ぼくも年初に『取り替え子』を読んでいました。大江作品は、恥ずかしながら、ほとんどがツンドクなのですが、さすがに気が引けて手に取った同書がもう10年前に出版されたものと知って、なんだか愕然としました。自身では3年ほど寝かせておいた、という感覚でしたから。月日だけが過ぎ去ってゆくのですね。
ついでながら、これも年初に手にした池田晶子『残酷人生論』(毎日新聞社)にこんな一節がありました。
「夢
あれはいったいなんなんだ」(p.81) 「夢の中身は云々しても、夢という形式、それが「在る」ということは[多くの人は]普通だと思っている。それはおそらく、生まれ落ちて赤ん坊だった我々の人生が、眠りから始まっていることによる。夢の中に生まれて来た我々は、夢という人生の枠に、あらためて驚くことが少ないのだ。」(p.83)池田はここで、夢の中身の解釈より、私たちは「夢という形式」にもっと驚いていいのではないか、と説いています。もちろん、ラカン派精神分析医の新宮一成はその「形式」にも、十分意識的な夢論者です。
……………………………………………………………………………………………..
次回ですが、おまけのつもりでしたが、縁起物です、折角ですから<< L’eau bleue>>を読むことにしましょう。初回は、une se’rie d’arpe`ges bleus. までとして、26日に試訳をお目にかけます。
Bonne lecture ! Shuhei
* non ce qu’en a dit Freud, (…), mais pour les rapprocher des le’vitations des mystiques, : des re^ves de le’vitation について、il y aurait beaucoup de choses a` dire としながらも、それは必ずしも、フロイトの解釈ではありませんよ、と述べられています。フロイトは、身体の急激な高度変化の感覚を性的な興奮に結びつけたわけですが、ユルスナールは、夢の中のその上下運動は、本来はもっと穏やかなものではなかったか、と異議を唱えています。
ここで、先日ご紹介した新宮一成『夢分析』から関連する箇所を引いておきます。
「性は、言語によって媒介されないと活動できない。恋愛の告白から、結婚の制度的な手続きにいたるまでみなそうである。したがって、空飛ぶ夢が性的な活動を表しているということの意味は、新しい言語活動の中に入ることだという認識を、夢が示しているということなのである。シャガールの絵には、空をただよう新婚のカップルがしばしば描かれる。新しい言語活動を獲得した彼らの性は、そうした言語活動以前の仲間たち、すなわち牛や山羊を引き連れて、自由に舞っている。」(p.12)
ここではまた、「青春のみずみずしさがみなぎっている」寺山修司の短歌、「青空より破片集めてきしごとき愛語を言えりわれに抱かれて」(p.11)も紹介されています。
[試訳]
* けれども、空中浮遊の夢については、語らなければならないことがたくさんあることでしょう。といってもフロイトの説ではありません。そうした夢をただ性的にだけとらえるフロイトの解釈は、いつも間違ってるように私には思えます。そうではなく、そうした夢を神秘主義者、とりわけ聖テレーズの空中浮遊と比べてみたいのです。私が実際に夢見た、あるいは知っているあらゆる空中浮遊においは、飛ぶといっても、それはとても低く、2,3メートルを越えることはありません。飛行とか上昇ではなく、例えば浮かびながら横滑りしてゆく感じで、夢見る者は時に下降して地面に軽く触れたかと思うと、またふたたび昇ってゆくのです。
そうしたものとは対照的に、私にとってここで重要なのは、個々人の運命が夢という地金を打つ様です。夢見る者がその人に固有の化学の法則に従って、こうした同じ心理的、感性的な要素を結びあわても、二つとない合金が出来上がる。それはそうした要素に、二度とはない運命という意味を担わせるからです。夢があれば、そこには定めがある。夢によって定めがあらわされているものに、私は心ひかれます。
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実は、最後の部分 je m’inte’resse surtout au moment...の訳に戸惑ったのですが、Moze さんの「心を寄せる」という訳は、ここにぴったりですね。
misayo さんが年初に読まれたという『大江健三郎 作家自身を語る』は、たしか、大江が信頼を寄せる、読売新聞文芸部の尾崎さんを相手に自身の作家遍歴を語ったものですね。ぼくも、ある年の夏の茹だるような日々に勉強をサボって、同書を読みふけっていた記憶があります。
奇遇ですが、ぼくも年初に『取り替え子』を読んでいました。大江作品は、恥ずかしながら、ほとんどがツンドクなのですが、さすがに気が引けて手に取った同書がもう10年前に出版されたものと知って、なんだか愕然としました。自身では3年ほど寝かせておいた、という感覚でしたから。月日だけが過ぎ去ってゆくのですね。
ついでながら、これも年初に手にした池田晶子『残酷人生論』(毎日新聞社)にこんな一節がありました。
「夢
あれはいったいなんなんだ」(p.81) 「夢の中身は云々しても、夢という形式、それが「在る」ということは[多くの人は]普通だと思っている。それはおそらく、生まれ落ちて赤ん坊だった我々の人生が、眠りから始まっていることによる。夢の中に生まれて来た我々は、夢という人生の枠に、あらためて驚くことが少ないのだ。」(p.83)池田はここで、夢の中身の解釈より、私たちは「夢という形式」にもっと驚いていいのではないか、と説いています。もちろん、ラカン派精神分析医の新宮一成はその「形式」にも、十分意識的な夢論者です。
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次回ですが、おまけのつもりでしたが、縁起物です、折角ですから<< L’eau bleue>>を読むことにしましょう。初回は、une se’rie d’arpe`ges bleus. までとして、26日に試訳をお目にかけます。
Bonne lecture ! Shuhei