フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

Daniel Sallenave <<Le Don des morts. Sur la litte'rature>> (1)

2011年07月02日 | Weblog
[注釈]

* les actions qu’organise la fable. : この action は、「筋立て」のことでしょう。試訳では、「物語」としました。
* des simulacres de mots : これは、le personnage の言い換えです。あとに la figure de papier とも表現されています。
* la vie me^me et l’a^me de l’auteur de se couler vivantes... : ここはみなさん正しく読まれていましたが、sont oblige’es を補って読みます。
* Et qui, (…), le sauve... : Et (la figure de papier) qui... sauve l’auteur と読めます。
* notre lecture hallucine’e : これは、croire a` l’existence d’un personnage を意味しています。
* Le personnage existe... d’une existence fictive. : 「虚構の存在によって…存在する」ということでしょうね。

[試訳]
 
 「他者になること」
 
 このことは何度繰り返してもかまわない。つまり、小説と登場人物のあいだには断つことのできないつながりがあるのだ。登場人物を軽んずることは、小説を損なうことにしかならないのではないか。カタルシスも登場人物がいなくては起こりえない。それは謎であるけれども、事実である。私たちには、投影が、転移が、同一化が必要なのだ。フィクションが作用するためには、私たちが登場人物の存在を信じていなくてはならない。虚構が構成する物語は、登場人物において集約されているからである。小説というテキストの働きそれ自体が登場人物を望んでいる。つまり、テキストの真実は言葉でできた幻影を経ねばならず、書き手の命そのものや魂も、書き手を表すページの上の人型に、生き生きと流れ込まなければならない。そして、その人型が同時に書き手を救うのである。
 そうすると、そんな私たちの幻影にまどわされた読み方は、登場人物の中に虚構の存在を見ることを忘れ、テキストの外でもその存在を信じることを強いることになるだろうか ? そうではない。登場人物はおそらく生きている。けれども、それがどんな命を生きているのか、私たちはまたよくわかっている。それは幻から生まれた命だ。ただそれだけのこと。登場人物は存在している。けれども、それはフィクションにおいて虚構の存在を生きているのだ。リア王が舞台の上で「生きている」のが、演劇的存在であるのと同じことだ。
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 今回は、試訳をお目にかけるのが遅くなってしまいました。ぼくのような、ITに疎いものは、パソコンのトラブルは本当にこたえます。状況の悪化や、不意のトラブルにも比較的冷静に対処できる方だと思うのですが、PC相手の場合は全く勝手が違うようです。結局あたらしいパソコンを買う羽目になりましたが、思い通り動かなくなったPCからの「データーの移行」とやらに、サポートの電話にかじり付きながら、仕事の空いた時間を利用しながらですが、3日ほどかかってしまいました。Ouf ! です。

 今回は実は古東哲明氏の新著を紹介するつもりだったのですが、これは次回に譲ることにします。

 日本と同じく、細菌による食品汚染や、入試問題の漏洩と、フランスでもあまり明るい話題がないのですが、ひとつ、喜ばしいできことがありました。France3という国営テレビ局のカメラマンと記者がアフガニスタンで取材中拉致され、1年7ヶ月拘束されたままだったのですが、その二人が今週半ば無事解放されました。
 海外で活動する援助団体職員やジャーナリストが長い間にわたって自由を奪われた後に、無事解放されるという出来事は、これまでにもフランスで幾度かありました。その度に思うのですが、身の危険に長期間耐え、解放された人々が記者会見などの場で口にするのは、家族、政府関係者、それからここに至るまで自分たちに声援を送ってくれた人々に対する感謝の言葉だけです。けっして私たちのように「ご迷惑とご心配をおかけして申し訳ありませんでした」と、謝罪の言葉を口にすることはありません。今回解放された記者も、この経験を通じて <<mille fois motive’>> 「(ジャーナリストとして)ますます活躍する気持ちになった」と、毅然と答えていた言葉がとても印象的でした。
 日本の「世間様」というのは、人々を萎縮されるものなんだなあ、と、そんなことを改めて思いました。巷でますます濫用されている「…いただきます」という言葉は、コワイ世間からとにかく身を守るための痛ましい修辞なのでしょうか。スーパーで値引きされたお弁当を買った折にも、「お箸付けさせていただいてよろしいですか」なんて、聞かれます。本来なら、買い手のぼくが、「お箸付けていただけますか」と頼むべき場面だと思うのですが…。
 さて、次回は、par le filtre de la raison. までとしましょう。7/13(水)に試訳をお目にかけます。
 昨日今日は、大阪の暑さも一段落していますが、どうかみなさんもお身体には気をつけてください。Shuhei