[注釈]
* issu de l'expe'rience imaginaire... : 厳密にいうと issu はle personnage を説明しているのですが、登場人物の出自である「二つの世界の間」の説明のように訳出しました。
* une proposition de sens a` achever : ここは登場人物の役割を語ったくだりですから、sens は、「意味」としました。というのも、読者の参加を待って、はじめて「完成されるべき」ものですから。
* c'est au lecteur d'agir. : c'est a`... de + inf. 「こんどは、……が…する番だ」書き手からバトンを手渡された読書の役割に、以後焦点が当てられています。ですから、la pense'e もそのことを意識して、具体的に訳出した方がいいでしょう。
[試訳]
文学という夢を見るには、虚構の事物よりなる想像的な現実を、たとえひとときではあっても、信じることに同意することが前提となる。ホメロスの「英雄」であれ、バルザックの登場人物であれ、あるいは肉体も性も持たず、ただ声だけの現代小説の登場人物であれ、彼らは「二つの世界の間」に存在している。すなわち、書き手の想像の、あるいは現実の体験から生まれた世界と、彼らの物語の「模倣的な」構成から生まれた世界との間である。そうした世界から、登場人物は、未完の意味の提示として読者の方にやってくる。この意味を完成されるために書き手自身が、虚構の存在、思考の人形(ひとがた)に変容しなければならなかった。つまり、語り手となる必要があった。そして語り手自身も、語りの対象に課する秩序において構成されるのであった。作者とは、ある意味、自身の小説の登場人物となった者のことであり、作者もまた「二つの世界の間」、すなわち、虚構の世界と、まだしばらくそこに属している現実の世界との間で生きはじめるのである。これに倣って、今度は読者がそこに身を流し込むこととなる。
本を読む間に私たちをとらえる、虚実の狭間でのこうした往還こそが、劇的な、あるいは叙事的な物語の本質である。虚構は、すべてが物語創造のためであり、読者の幸福のためであり、小説世界が動くためのものである。なぜならここにこそ本質があるからだ。そこでバトンが手渡され、今度は読者が動き出す。頭の中は、小説のあれこれのこと、物語(情念)のことですでにいっぱいになっている。けれども、そうした表象を構成して初めて、私たちは自身の声をそこに聴き、「私たちの謎を明らかにする」ことを試み、希望することができるのだ。様々な原因を理解するとともに、理性のフィルターを通すことによって情念が鎮められる。
………………………………………………………………………………………
みさよさん、明子さん、Mozeさん、厳しい暑さの中、訳文ありがとうございました。ぼくは先週から5時から30分ほど歩く朝の散歩を始めました。年ですね。授業がないときなどは、日差しを避けるあまり一日中部屋に閉じこもることにもなりそうなのです。それはなんだか悲しい図なので、朝の散歩を始めました。早朝5時の空が薄暗くなってしまうまでは続けるつもりでいます。みなさんも、なんとか酷暑の夏お元気でお暮らしください。
さて、先週ここに名前を挙げた古東哲明氏の新刊『瞬間を生きる哲学』(筑摩選書)のお話をすることにします。
古東氏の名前を知ったのは、『<在る>ことの不思議』(勁草書房)というハイデガー論がきっかけでした。といって、ぼくはハイデガーという20世紀ドイツの大哲学者のなにを知っているわけでもありませんでした。ただ、氏の文章の魅力に惹かれ、その大哲学者の難解な思想に躓くことなく、楽しくページを繰っていました。
でも、こんな一節は記憶に残りました。
-「今ここに在ること」の本質をとらえれば、幼くして命を失った子供の命も、その生きた年月の厚みにかかわらず、ただそれだけで十全に完結していると言える。
こんな意味合いの一節でした。そうです。この一節をぼくはこの大震災に際して反芻していました。そんな折に、古東氏の新著が出たのでした。
「この瞬間刹那の豊麗さに撃たれること」の秘密を、ハイデガーはもとより、山口誓子、手塚治虫、小椋桂、タモリが赤塚不二夫に宛てた追悼文まで引いて、意を尽くして説いた時間論です。実は、第三章は、「水中花 プルーストの瞬間復元法」と題されたプルースト論ともなっています。
ぼくのお気に入りの富澤赤黄男の「蝶墜ちて大音響の結氷期」という涼しげな一句も楽しむことができます。機会があれば、手に取ってみてください。
それでは、次回はサルナーヴの文章を最後まで読むことにしましょう。宿題を用意しますが、その後は夏休みとしましょう。7月27日に試訳をお目にかけます。
* issu de l'expe'rience imaginaire... : 厳密にいうと issu はle personnage を説明しているのですが、登場人物の出自である「二つの世界の間」の説明のように訳出しました。
* une proposition de sens a` achever : ここは登場人物の役割を語ったくだりですから、sens は、「意味」としました。というのも、読者の参加を待って、はじめて「完成されるべき」ものですから。
* c'est au lecteur d'agir. : c'est a`... de + inf. 「こんどは、……が…する番だ」書き手からバトンを手渡された読書の役割に、以後焦点が当てられています。ですから、la pense'e もそのことを意識して、具体的に訳出した方がいいでしょう。
[試訳]
文学という夢を見るには、虚構の事物よりなる想像的な現実を、たとえひとときではあっても、信じることに同意することが前提となる。ホメロスの「英雄」であれ、バルザックの登場人物であれ、あるいは肉体も性も持たず、ただ声だけの現代小説の登場人物であれ、彼らは「二つの世界の間」に存在している。すなわち、書き手の想像の、あるいは現実の体験から生まれた世界と、彼らの物語の「模倣的な」構成から生まれた世界との間である。そうした世界から、登場人物は、未完の意味の提示として読者の方にやってくる。この意味を完成されるために書き手自身が、虚構の存在、思考の人形(ひとがた)に変容しなければならなかった。つまり、語り手となる必要があった。そして語り手自身も、語りの対象に課する秩序において構成されるのであった。作者とは、ある意味、自身の小説の登場人物となった者のことであり、作者もまた「二つの世界の間」、すなわち、虚構の世界と、まだしばらくそこに属している現実の世界との間で生きはじめるのである。これに倣って、今度は読者がそこに身を流し込むこととなる。
本を読む間に私たちをとらえる、虚実の狭間でのこうした往還こそが、劇的な、あるいは叙事的な物語の本質である。虚構は、すべてが物語創造のためであり、読者の幸福のためであり、小説世界が動くためのものである。なぜならここにこそ本質があるからだ。そこでバトンが手渡され、今度は読者が動き出す。頭の中は、小説のあれこれのこと、物語(情念)のことですでにいっぱいになっている。けれども、そうした表象を構成して初めて、私たちは自身の声をそこに聴き、「私たちの謎を明らかにする」ことを試み、希望することができるのだ。様々な原因を理解するとともに、理性のフィルターを通すことによって情念が鎮められる。
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みさよさん、明子さん、Mozeさん、厳しい暑さの中、訳文ありがとうございました。ぼくは先週から5時から30分ほど歩く朝の散歩を始めました。年ですね。授業がないときなどは、日差しを避けるあまり一日中部屋に閉じこもることにもなりそうなのです。それはなんだか悲しい図なので、朝の散歩を始めました。早朝5時の空が薄暗くなってしまうまでは続けるつもりでいます。みなさんも、なんとか酷暑の夏お元気でお暮らしください。
さて、先週ここに名前を挙げた古東哲明氏の新刊『瞬間を生きる哲学』(筑摩選書)のお話をすることにします。
古東氏の名前を知ったのは、『<在る>ことの不思議』(勁草書房)というハイデガー論がきっかけでした。といって、ぼくはハイデガーという20世紀ドイツの大哲学者のなにを知っているわけでもありませんでした。ただ、氏の文章の魅力に惹かれ、その大哲学者の難解な思想に躓くことなく、楽しくページを繰っていました。
でも、こんな一節は記憶に残りました。
-「今ここに在ること」の本質をとらえれば、幼くして命を失った子供の命も、その生きた年月の厚みにかかわらず、ただそれだけで十全に完結していると言える。
こんな意味合いの一節でした。そうです。この一節をぼくはこの大震災に際して反芻していました。そんな折に、古東氏の新著が出たのでした。
「この瞬間刹那の豊麗さに撃たれること」の秘密を、ハイデガーはもとより、山口誓子、手塚治虫、小椋桂、タモリが赤塚不二夫に宛てた追悼文まで引いて、意を尽くして説いた時間論です。実は、第三章は、「水中花 プルーストの瞬間復元法」と題されたプルースト論ともなっています。
ぼくのお気に入りの富澤赤黄男の「蝶墜ちて大音響の結氷期」という涼しげな一句も楽しむことができます。機会があれば、手に取ってみてください。
それでは、次回はサルナーヴの文章を最後まで読むことにしましょう。宿題を用意しますが、その後は夏休みとしましょう。7月27日に試訳をお目にかけます。