[注釈]
*pratique'es alternativement...ou chageant au cours de leur vie, le plus souvent en e'tant e'panouis... : 多くは、ヘテロかホモかが「選択」されるが、「時には」「交互」に実践されたり、その人生遍歴に於いて「変化する」。そうした場合は、往々にして「充実した時期 e'panouis」であり、「相思相愛 dans l'affection partage'e」の状態である。
*il s'agit bien d'une the'orie scientifique, : 「文化人類学」もその重要性を認めている 「ジェンダー gentre」は、まぎれもなく「科学的な理論である」il s'agit de...は、前文の説明となっています。
[試訳]
進化によって私たちはこうした民族-認識上の可塑性を受け継ぎ、また結果として教育や社会的表象が性愛の構築に介入している。そうして作られたものはジェンダーと呼ばれるが、それは生物学的な性とは反対に、厳密には女性的でも、男性的でもない。
異性愛も同性愛も、正常でも異常でもない。それぞれは、私たちの人生におけるいくつもの性愛の可能な実践の仕方の一部である。変化するのは、こうした多様な性愛の形態を選択する人々の割合である。ときには個人によっていろいろな性愛が実践されることもあるし、生涯の中で性愛の形態が変化することもある。それは多くの場合個人が成熟し、愛情が共有された時である。
そこにはいかなる逸脱もないし、ましてや病的な変質もない、と民族学や人類学や社会学は教える。西洋社会に限ってみても、いかに多くの歴史上の偉人たちが性的志向の多様性を経験したことだろう。また、民族学者によって研究された何百もの文化の中には、イニシエーションに含まれる、ある程度管理され、あるいは儀式化された性愛の多様な実践が見られる。文化人類学もジェンダーの構築の重要性を明らかにしてきた。それはまさに進化論と同様、観察に向き合った、言い換えれば、社会的事実に向き合った概念とパラダイムをともなった科学的な理論なのである(フランソワーズ・エリティエの研究)。
………………………………………………………………………………………………………………..
<<Le sexe n'est pas...>>いかがだったでしょうか。筆者は非常に慎重に論を運んでいて、その主張が鮮明になるのは結論部分となりそうです。今に至って、みなさんに読んでもらう部分をもう少し刈り込んでおけばよかったと反省していますが、次回最終回まで、もう一回この論考におつき合いください。
さて、ぼくは大学で担当しているフランス語の授業の冒頭に、なるべく毎回本の紹介をしています。紹介したものは興味をもってくれた学生に持って帰らせるのですが、今年度後期から担当している法学部1年生はとても食いつきがよく、紹介した書物を全部譲っています。
先日は、『成熟ニッポン、もう経済成長はいらない それでも豊かになれる新しい生き方』 (朝日新書)を紹介しました。ぼくは経済・金融のことはまったくの門外漢ですが、この本の共著者浜矩子のことは、その文章から信頼していて、それで同書を手に取ったわけです。そういうわけで、同書ももう手元にはないのでご紹介がてらここで引用もできませんが、同種の主張をちりばめた対談集を、昨年年賀状を書いてから読んでいたのを覚えています。内田樹・高橋源一郎『沈む日本を愛せますか?』(ロッキング・オン)ひょっとしたら、この本もこの場で一度取り上げたかもしれませんが、『成熟ニッポン...』のエッセンスをお伝えするために、この対談集の一部をここに引いておきます。
今政治にまつわる言葉が、この日本社会の現実をまったく捉えられなくなっていると高橋源一郎は語り、こんなふうに続けています。
--だから、この社会は右肩上がりの経験しかないんだ。そのうえに、政治的な用語ものっかっている。だから、僕が収縮していくと考えている世界の中で、政治的な言葉や政治システムがそれにどう対応するかについては、まったく未知だと思う。というか、それは誰も見たこともない世界だから、まだどこでも言語化されていないってことに、国民も薄々感づいていて、ひとことでいうと「なんか変だな」って感じだと思う。(p.330)
浜矩子も、先進国中先頭をきって老成に向かっているこのニホンの実験的な成熟がどう見事に果たされるか、世界は注目していると語っていました。どこまで行っても経済的な成長を主要課題とする、「右肩上がりというイデオロギー」(内田)から、どうすればぼくたちは自由のなれるのか。そのことをまず立ち止まって熟慮しなければならないように思います。大震災を経験したこの社会に暮らすぼくたちのすぐ隣には、きっと大きな喪失を抱えた人々が生きているはずです。そのことに感じ入るだけでも、どこか慌ただしい当のイデオロギーから冷静な距離をとれるはずではないでしょうか。
それでは、少し長くなってしまいますが、次回はこの論考を最後まで読むことにします。試訳は11/23(水)にお目にかけます。
Shuhei
*pratique'es alternativement...ou chageant au cours de leur vie, le plus souvent en e'tant e'panouis... : 多くは、ヘテロかホモかが「選択」されるが、「時には」「交互」に実践されたり、その人生遍歴に於いて「変化する」。そうした場合は、往々にして「充実した時期 e'panouis」であり、「相思相愛 dans l'affection partage'e」の状態である。
*il s'agit bien d'une the'orie scientifique, : 「文化人類学」もその重要性を認めている 「ジェンダー gentre」は、まぎれもなく「科学的な理論である」il s'agit de...は、前文の説明となっています。
[試訳]
進化によって私たちはこうした民族-認識上の可塑性を受け継ぎ、また結果として教育や社会的表象が性愛の構築に介入している。そうして作られたものはジェンダーと呼ばれるが、それは生物学的な性とは反対に、厳密には女性的でも、男性的でもない。
異性愛も同性愛も、正常でも異常でもない。それぞれは、私たちの人生におけるいくつもの性愛の可能な実践の仕方の一部である。変化するのは、こうした多様な性愛の形態を選択する人々の割合である。ときには個人によっていろいろな性愛が実践されることもあるし、生涯の中で性愛の形態が変化することもある。それは多くの場合個人が成熟し、愛情が共有された時である。
そこにはいかなる逸脱もないし、ましてや病的な変質もない、と民族学や人類学や社会学は教える。西洋社会に限ってみても、いかに多くの歴史上の偉人たちが性的志向の多様性を経験したことだろう。また、民族学者によって研究された何百もの文化の中には、イニシエーションに含まれる、ある程度管理され、あるいは儀式化された性愛の多様な実践が見られる。文化人類学もジェンダーの構築の重要性を明らかにしてきた。それはまさに進化論と同様、観察に向き合った、言い換えれば、社会的事実に向き合った概念とパラダイムをともなった科学的な理論なのである(フランソワーズ・エリティエの研究)。
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<<Le sexe n'est pas...>>いかがだったでしょうか。筆者は非常に慎重に論を運んでいて、その主張が鮮明になるのは結論部分となりそうです。今に至って、みなさんに読んでもらう部分をもう少し刈り込んでおけばよかったと反省していますが、次回最終回まで、もう一回この論考におつき合いください。
さて、ぼくは大学で担当しているフランス語の授業の冒頭に、なるべく毎回本の紹介をしています。紹介したものは興味をもってくれた学生に持って帰らせるのですが、今年度後期から担当している法学部1年生はとても食いつきがよく、紹介した書物を全部譲っています。
先日は、『成熟ニッポン、もう経済成長はいらない それでも豊かになれる新しい生き方』 (朝日新書)を紹介しました。ぼくは経済・金融のことはまったくの門外漢ですが、この本の共著者浜矩子のことは、その文章から信頼していて、それで同書を手に取ったわけです。そういうわけで、同書ももう手元にはないのでご紹介がてらここで引用もできませんが、同種の主張をちりばめた対談集を、昨年年賀状を書いてから読んでいたのを覚えています。内田樹・高橋源一郎『沈む日本を愛せますか?』(ロッキング・オン)ひょっとしたら、この本もこの場で一度取り上げたかもしれませんが、『成熟ニッポン...』のエッセンスをお伝えするために、この対談集の一部をここに引いておきます。
今政治にまつわる言葉が、この日本社会の現実をまったく捉えられなくなっていると高橋源一郎は語り、こんなふうに続けています。
--だから、この社会は右肩上がりの経験しかないんだ。そのうえに、政治的な用語ものっかっている。だから、僕が収縮していくと考えている世界の中で、政治的な言葉や政治システムがそれにどう対応するかについては、まったく未知だと思う。というか、それは誰も見たこともない世界だから、まだどこでも言語化されていないってことに、国民も薄々感づいていて、ひとことでいうと「なんか変だな」って感じだと思う。(p.330)
浜矩子も、先進国中先頭をきって老成に向かっているこのニホンの実験的な成熟がどう見事に果たされるか、世界は注目していると語っていました。どこまで行っても経済的な成長を主要課題とする、「右肩上がりというイデオロギー」(内田)から、どうすればぼくたちは自由のなれるのか。そのことをまず立ち止まって熟慮しなければならないように思います。大震災を経験したこの社会に暮らすぼくたちのすぐ隣には、きっと大きな喪失を抱えた人々が生きているはずです。そのことに感じ入るだけでも、どこか慌ただしい当のイデオロギーから冷静な距離をとれるはずではないでしょうか。
それでは、少し長くなってしまいますが、次回はこの論考を最後まで読むことにします。試訳は11/23(水)にお目にかけます。
Shuhei