フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

著者マルセル・プルーストによる『スワン家の方へ』解説(3)

2012年06月07日 | Weblog
 [注釈]
 
 *sans doute il se rappelait, : ここは「過去の反復を表す」半過去形が使われていることに注意して下さい。意志的な記憶を通して何度かコンブレーにまつわる思い出を反芻してはいても、それは、いわゆるマドレーヌ体験の鮮烈さには遠く及ばないものなのです。Mozeさんの「覚えていた」という訳はその意味で的確です。
 *j’ai pu lui faire dire que comme dans ce petit jeu....toutes les fleurs de son jardin...tout cela...est sorti...de sa tasse de the’.:この長いセンテンスの構造はこうなっています。
 *celle qui justement le contenu du beau style, cette ve’rite’...感覚の超時間的な本質、それこそがプルーストにとっての「真実」であり、その本質を表現するものこそは、芸術作品におけるスタイルであり、文学表現においては「文体」だと、プルーストは考えていました。

 [試訳]
 
 - そうした区別はどのように立てるのですか。
 - 私に言わせれば、意志的な記憶とは、なによりも知性の、目の記憶であり、真実を欠いた過去のあれこれの面しか与えてくれません。一方まったく違った環境において見出された匂いや味覚は、私たちの中に思いがけなく過去を呼び覚まし、こうした過去が、私たちが想い出すと信じて来たものといかに異なるものであるかを、私たちは感じることになります。そして意志的な記憶が、まるで下手な画家のように、真実を欠いた色で描いていたことを私たちは知るのです。第一巻においてすぐに、「わたし」と語る人物が(そう言ってもそれは私ではありません)ひとかけのマドレーヌを浸した紅茶をひと飲みして突然、歳月や庭や忘れていた人々を見出すのを目にすることと思います。おそらくそうしたものをその人物は何度か想い出してはいたことでしょう。けれどもそこには色も魅力もありませんでした。彼の口を借りて私はこう書くことができました。それは、精巧な紙片を水につける日本の遊びのようであったと。ボールに張った水に浸けられると紙は伸び広がり、輪郭を得て、花や人の形になります。そんなふうに、彼の[スワン]庭の花々、ヴィボンヌ川の睡蓮、そしてやさしい村人たち、彼らの質素な住まい、教会、コンブレーのすべてとその周辺。そうしたもの全てが、形を得て、しっかりとし、町も庭園も、一杯の紅茶から飛び出すのです。
 お察しのように、私は、芸術家は作品の素材を無意志的記憶にこそ求めるべきであると考えています。それは何よりもまず、そうした記憶が不随意のものであり、同様の瞬間の類似性によって引き寄せられ、形成されるものであるために、無意識的記憶だけが真性の印を持つからです。それに、そうした記憶は、記憶と忘却の絶妙な調合において私たちに物事をもたらしてくれます。そして最後にそれらは、まったく違った環境において同一の感覚を私たちに味あわせるので、あらゆる偶然から感覚を解き放ち、その超時間的な本質を、すなわちまさに見事な文体の内容である、文体の美しさのみが表現可能な、普遍的で、必然的なこうした真実を私たちにもたらしてくれるからです。
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 一日遅れの更新となりました。ご迷惑をおかけしました。
 日曜日、慶事に出向いていた名古屋で何年かぶりかで高熱を出し、月・火と大学も休み、ホテルの一室で寝込んでいました。旅先で寝込んだのは生まれて初めてのことです。これも年のせいかも知れません。
 先週一週間それぞれの教室で、お笑い芸人の母親の生活保護費受給問題から考えるべきことを学生たちに話しました。ただ、将来のある若者たちには縁遠い話なのか、強い関心は持ってもらえなかったようです。ぼくは、企業活動とステレオタイプな家族像の外で、ひたすら公的な領域がやせ細ってゆくことには、強い違和感を感じています。
 この問題に関心のある方は
http://synodos.livedoor.biz/archives/1937837.html
をご参照下さい。
 それでは、次回はテキストの最後までの試訳を6月20日(水)にお目にかけます。Smarcel