[注釈]
* un certain nombre de partisans : これは対象の数が定かではないものの、こういう例はあるでしょう、という慎重な表現です。ex. Au jour de la fe^te des enfants, un certain nombre de japonais hissent le drapeau natinal.
* Et plus haut : これは紙面上の位置関係を指しています。文章の「もっと上の方」の箇所では、ということです。
* dans telles circonstances solennelles, : これは先に述べられた一種の臨死体験を指しています。
* sentiments de'funts, myste'rieusement embaume's...: de'funts, embaume's が一種の「縁語」のように使われているところにも注意して下さい。
[試訳]
しかしながら、ボードレールやディドロのように、こうした考え方[忘却とは、想起を促すきっかけの不在に過ぎない]を支持する何人かの文学者がいる。ボードレールは「パランプセスト」において、人間の記憶には際限がないと考える。「崇高なパランプセスト、すなわち消尽することのない私たちの記憶」について語りながら、ボードレールはこう述べている。「記憶のあらゆる響きを、もし同時に喚び起こすことができれば、一大コンサートとなるであろう」…。またもう少しさかのぼったところでは、こう書き記してもいる。「想念、イメージ、感情といった無数の層が、あなたの脳にはつきづきに降り積もっている。(…)それぞれの層は先に積もった層を埋めているように見えて、実はどの層も消えることはなかったのだ。」ボードレールは、全生涯を目にするという水難者の経験にも言及している。歳をとるごとに経験したあらゆる出来事が同時に現れるその瞬間に、本人ももはやわからなくなっていたが、まさしく自身の経験だと認めざるをえない、すべての出来事が再現されるのだ。つまり忘却はひとときのことに過ぎない。こうした危機的な状況にあっては、記憶という壮大で複雑なパランプセストが、一瞬のうちにくり拡げられる。私たちは忘却と呼ぶが、そこに幾重にも重ねられた、亡きものとなった感情の層が、不可思議にも眠らされているのだ。」
……………………………………………………………………………………………….
ボードレールの文章は、やはり格調と音楽性に溢れていますね。またの機会にこの大文学者の文章を読むことにしましょう。
ところで、本日(5月8日)の朝日新聞朝刊に内田樹氏の「壊れゆく日本という国」という長文の論考が掲載されていました。現政権の施政者や大企業経営者にとってはかなり刺激的な、手痛い内容なのですが、いつもの内田一流のまったくの正論で、大変おもしろく読みました。
同紙を購読していない方は、下記で内田本人が「いつもの話」とことわっているように、ほぼ同趣旨の文章が読めるます。興味のある方はこちらでどうぞ一読下さい。
http://blog.tatsuru.com/2013/05/04_0814.php
それでは、次回ですが、p.224 Rien ne se perd : からp.225 notre conscience. までを読みます。ただし、p. 224のDiderot e'galement からはじまり a' notre insu >>.までつづく、長い引用を含んだ部分は割愛することにします。
いつものとおり、5月22日(水)に上記部分の試訳をお目にかけることにします。
Bonne lecture ! Shuhei
p.s. 内田氏の「壊れゆく日本という国」が下記にも掲載されたことを、さきほど同氏のツィッターで知りました。
http://blog.tatsuru.com/