[注釈]
*bru^ler ces immortelles empreintes : これは先のles profondes trage'die de l'enfance の言い換えです。
* l'oubli ne serait donce que l'absence.…: qui permet au souvenir...ここの先行詞は l'absence です。刺激の欠如ゆえに、記憶はne plus exister だけれども、その刺激が得られるとresurgirが起る、ということです。la compre'hensive lumie`reは、a` notre insu との対立を考慮して、以下のように訳してみました。
[試訳]
何ものも失われはしない。「記憶というパランプセストは反古になることはない。成長に従って、子供はおとぎ話に夢中になり、若者は小説に目を奪われるが、やがてそれらも色あせてゆく。けれども子供時代の深い悲しみは、- 母の首にまとっていたのに、これを最後に永遠にもぎ取られた腕(かいな)、姉の口づけを永遠に奪われた唇 - パランプセストに刻まれた他の伝説の下でいつまでも絶えることがない。こうして永遠に刻まれた印を焼き尽くすほどの力を、情熱も病も持ちはしない。」(...)この一節にはほとんどすべての知覚が触れられている。嗅覚と味覚が除かれているのは、それらが非常に安定した知覚であるからだろう。ディドロにとっては、すべては私たちの記憶に貯えられている。忘却とはそれゆえ、刺激の欠如に過ぎない。そのため思い出は私たちの知らぬ間にもう存在しなくなっても、意識の光の内側で再び姿を現すことも出来るのである。
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ここでご紹介した内田樹の文章なのですが、まだ大学で学生たちに紹介できていません。フランス語の授業で、あれもこれもと欲張ると、せっかく用意していたコピーも渡し忘れることがしばしばです。
Mozeさんがお読みになった文章は以下のものですね。
http://mainichi.jp/feature/news/20130509dde012040020000c.html
以前ぼくは、こんなふうに書きました。
- 「現場主義」「競争社会の現実」というクリシェによって、本来はそれも一種のフィクションに過ぎないホンネと呼ばれるものが、私たちの目の前の現実を一色に染め上げてゆくことに居心地の悪い違和を感じています。
思えば、あたりまえのことですが、この現実の風景はいつも錯綜しています。方や、一定の支持をあてにしながら威勢のいい「タエマエ」を垂れ流し、国境を越えて物議をかもす一首長がいます。
http://www.liberation.fr/monde/2013/05/14/japon-les-femmes-de-reconfort-etaient-une-necessite-selon-le-maire-d-osaka_902722
そうかと思うと、瓦礫の間での惨状をまるで見せないように、一見美しいタテマエを歌に乗せ、人々にそれとなくそれを強いる息苦しい「空気」が広がっています。
最近読んだ政治学者の本の中のこんな一節が目に留りました。私たちと政治との「間合い」の取り方は難しく、それでもこれがいちばん肝要である。
「間合い」という言葉にふさわしい対象との微妙な距離を失うことなく、私たちはこの「空気」の息苦しさをそれと感知し、威勢のいい言葉の背後に歪んだ欲望を読み取らなければなりません。外国語をなぞりながら、そんな間合いの取り方のコツももし学べるのなら、こんな根気の求められる学習にも小さな見返りがあると言えるでしょうか。
それでは、次回は6月5日(水)にla vertu et variable>>までの試訳をお目にかけます。