[要旨]
愛が脅かされている
今パリの街角のあちらこちらで、カップルの出会いを仲立ちするネットサーヴィスMeeticの広告が目に留まります。「心を痛ませることなく、申し分のない恋ができる」のだそうです。そこに見て取れるのは、安心安全な愛を求めるという考え方です。けれども、不安や傷つく危険のないところには、生きていることの賜物としての愛もないのだと、私は考えます。
それはアメリカ軍の言うところの「死のない」戦闘のことを思い起こさせます。それでも、アメリカ軍が敵とするアフガンやパレスチナの人々は傷つき、死ぬのです。あなたがネットの指示するままに理想の恋人を見つけても、相手は苦悩することだってあるでしょう。いずれにおいても、他者には危機が襲いかかっても、あなたは知らん顔ができるのでしょうか。たとえ危険が回避できたとしても、同時に生きてあることの詩的な意義(poe'sie existentielle)を失うことになります。それは「安全を求めるあまりの脅威」(menace se'curitaire)とでも言えるでしょうか。
こうした恋の求め方は、一見対極にあるように見えて、享楽的な愛の求め方ともつながっているように思えます。両者いずれにも、愛を織りなす、他者の真性な、深い経験が欠けているからです。商業的な手法に依拠する前者も、快楽主義的な奔放な後者もともに、愛など余計なリスクだと考える点では一致しています。そうした現代にあって愛を擁護するのは哲学の務めなのです。詩人ランボーが言ったように、私たちは愛を再創造しなければならないのです。
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ひとつだけ付け加えておくと、p.17. libe'ral et libertaire convergent vers l'ide'e que...
ここで、libe'ral と言われている立場は、何をおいても la douceur de la consommation を求める立場です。新自由主義的といってもいいでしょう。もちろん後者は、des arrangements sexuels plaisants et remplis de juissance と説明されています。恋愛において官能の歓びだけを探求する姿勢とも言えそうです。
一日遅れの更新となりましたが、いかがだったでしょうか。また疑問点などあれば遠慮なく尋ねて下さい。
最後に、最近小さな興奮をもって読み終えた文庫をご紹介しておきます。柄谷行人『政治と思想 1960-2011』(平凡社ライブラリー 2012)。何人かの聞き手を前に、柄谷が半世紀に及ぶ政治=思想活動の軌跡を振り返ったものです。60年代、とくに前半、広い市民層がデモに参加していたあの気運が、大震災・原発事故後、再び日本にも見られるようになったことに希望の萌芽を見ながらも、現在の新自由主義、柄谷の言葉に倣えば、帝国主義の行く末が見つめられています。
「[資本は]自己増殖するためには、差異(余剰価値)を見つけなければならない。資本は何としてでもそれを見つけようとする。だから、資本主義の終焉どころか、これから激烈な闘争がはじまるのです。もちろん、グリーン(環境)産業のようなものでは、慢性不況を脱することはできない。そうすると、最後の手段は戦争ということになる。」(p.121-122)
深く、広い射程をもって資本主義の動態を見つめる柄谷の言葉は、どれも大変刺激的でした。
後先になりましたが、暑中お見舞い申し上げます。この夏も出ばなから猛々しいばかりですが、どうかみなさんお身体に気をつけて、暑気払いにもなりませんが、フランス語の文章にもときどき親しんで下さい。
9月に入ったら、新しいテキストをお目にかけることにします。
Bonne journe'e, a' mes amis ! Shuhei