フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

ロラン・バルト『明るい部屋』(1)

2015年11月11日 | 外国語学習

[試訳]
ロラン・バルト『明るい部屋』
                                        25.
 
 さて、母が亡くなってまだ間もない、十一月のある日の夜、私は写真の整理をしていた。母を「また見つけられる」と思っていたわけではない。人かげが写った「これらの写真、その人にせいぜい思いをはせるほどにも、その人のことを呼び起こしてもくれない写真」(プルースト)に何も期待などしていなかった。私にはわかっていた。喪の最も酷薄な特徴のひとつであるこの宿命によって、映像に訴えかけても詮のないこと、母の面立ちを思い出すこと(丸ごと私に呼び出すこと)はけっしてできはしないだろうと。だから、母親の死後ヴァレリーが願ったように、「自分ひとりだけの、母についてのちょっとした書きものを記して」おきたかったのだ(おそらく、そうしたものをいつか書くことになるだろう。もし印刷物になれば、少なくとも私の名が知れている間は、母の記憶も持ちこたえることだろう)。それに、すでに世に出た写真—そこにはランドの砂浜を歩く若い母が見えるし、あまりに遠く、表情までは見えないけれど、母特有の足の運び、健康、溌剌とした姿が「見出される」—を除けば、母が写ったこれらの写真については、気に入っているとさえ言えなかった。だからそれらを凝視しようともしなかったし、その中に没入していたわけでもなかった。それらをただ並べてみたが、一枚として本当に「いいもの」はなかった。写真としてもよくなかったし、生きいきとした顔を蘇らせてもくれなかった。いつか友人たちにそれらの写真を披露する機会があったとしても、それが友人たちになにかを物語るとも思えなかった。
…………………………………………………………………………………………..
 今回も試訳だけお目にかけます。また不明な点があれば、遠慮無くお尋ねください。Mozeさん、大切な指摘ありがとうございました。指摘されて初めて、自分の未消化、モヤモヤとした感じに気づかされました。まだ昭和の頃、大学の二年次に教室でテキストとして読んだランボーの詩でした。以下で読めます。
http://poesie.webnet.fr/lesgrandsclassiques/poemes/arthur_rimbaud/le_dormeur_du_val.html
 変な喩えですが、朝の通勤途中に見知らぬ女性から、朝頬張ったご飯粒が左頬についているのを指摘されたような気分です。ちょっと恥ずかしいような、救われたような、うれしいような…。
 詩つながりで言うと、乗換えの忙しい時の通勤電車で、昨年夏に亡くなった、バイデガー研究者でもあった木田元さんの『詩歌遍歴』(平凡社新書)を読んでいます。最終章ではランボーが扱われていました。木田先生に導かれて、立原道造の詩に久しぶりに再会しました。近いうちに段ボール箱から彼の詩集を拾い出してこようと思っています。
 それでは、次回はp.101. sac à la main. までを読むことにしましょう。25日に試訳をお目にかけます。Shuhei