[試訳]
ある写真を前にして「これはもうほとんど母だ!」と言ってしまうことは、まったく別の写真を手にして「これは全然母ではない」と言うより辛かった。「もうほとんど」とは、愛というひどい制度の言わしめることだけれども、それはまたがっかりさせる夢の決まりごとでもある。だからこそ私は夢が嫌いなのだ。私は頻繁に母についての夢を見る(夢を見るのはいつも母のことだ)、それでもそれが母そのものであったことは一度もない。つまり夢の中では、母はときおりいくらか場違いで、過剰なのだ。たとえば妙に明るかったり、なれなれしかったり。母がそんな風であったことは一度もないのに。もっというと、私はそれが母であることは「わかっている」のだけれど、母の特徴を「認める」ことはないのだ(いったい夢の中で私たちは「見ている」のだろうか、それとも「わかっている」のだろうか?)。母についての夢は見るけれども、母を夢見ることはない。そして今写真を前にしていて、夢においてと同様に、同じ努力、シジフォスに課せられたような同じ仕事を果たさなければならない。その本質に向かって、身を傾け坂を登るのだが、その本質を見つめないうちにまた坂道を転げ落ちる。そして再び身を起こすのだ。
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misayoさん、Mozeさん、訳文ありがとうございました。今回も、ぼくから付け加えることは特にありません。試訳をご覧になって疑問に思うことがありましたら、また気軽にお尋ねください。
比較的温暖だった今年のお正月をみなさんどんな風にお過ごしだったでしょうか。前回ここで金時鐘(キム・ジジョン)さんの著作を紹介しましたが、大晦日には辺見庸x高橋哲哉の対話『流砂の中で』(河出書房新書)を読みました。
お二人の対談を読むのはこれで三冊目となります(『私たちはどのような時代に生きているのか』(角川書店)、『新 私たちはどのような時代に生きているのか』(岩波書店))。その中で序文として書かれた辺見さんの言葉が、いつものように重く心に残りました。
「これから到来する(すでに到来している)未来が、どのようなものでないかと言うのは、いささか勇気をようする。(...)どのような時代ではないかは、主たる除外の対象に「平和」をあげたにひとしい。それはとりもなおさず新たなる「戦争」の予覚をかたったということだ。」(p.10)
2011年の震災の直後だったでしょうか。以前ここで、辺見さんが日本を襲うことになる大地震と原発事故について『朝日ジャーナル』誌上で(「標なき終わりへの未来論」)予見していたことに触れたことがあります。私に予知能力などあるはずはなく、ただ「無能者の目」で時代をじっと凝視する中で見えてくるものを、怯まず言葉にしているだけだ、とおっしゃる辺見さんの言葉は、残念ながらことの本質を外してはいません。そんな厳しい自覚を持って、2016年を息継いででゆくことにしようかと思っています。
それでは、次回はこのバルトの文章を読み切ることにましょう。27日(水)にその部分の試訳をお目にかけます。Shuhei