[註]
*les mots qui sortaient le faisaient dans l'autre langue le はl'épouxだと考えられます。
*Qui, plus tard, deviendra poème ここの関係代名詞の先行詞は、le refus でしょう。
*ce que disaient Adorno…:ネット検索してもわかると思いますが、フランクフルト学派の中心人物であり、美学者・社会思想家のアドルノは、アウシュヴィツ後、詩を書くことは野蛮であり、不可能であると語ったのでした。
*S'il est mort précocement, c'est que… si + 事実, c'est que + その理由という構文です。
*A.K. aurait pu, (...) en faire une arme de guerre…: Mozeさんのお考えのようにen は、de l'allemand となります。
[試訳]
アニー・コルツ(1928年生まれ)の詩には見えない影がある。その影は、ひとつひとつの言葉の下に、その言葉からなる言語の下にかくれている。言葉は叫んでいる。「人生はおだやかな大河」ではなく、「殺戮」であると。この影にはある日の日付が眠っている。その日付が告げるのは、彼女の夫の死。なぜなら、彼が、夫ルネ・コルツがまだそこにいた時、表現された言葉は別の言語で夫を歌っていたからだ。三ヶ国語が使用され、作家はそのどれかを選ばなければならなかったルクセンブルクの別の言語で。1971年以前に出されたアニーズの初期作品を読んでいるものには、そのことがわかる。その時まで世界を描いていた言葉はドイツ語であった。けれども、1971年。ルネ・コルツの死が訪れる。その時居座ったのは影ではなく、沈黙であった。何年にもわたる沈黙であった。詩の拒絶であった。そして歳月が流れ、沈黙が破られ、その拒絶が詩と、歌となるのだった。別の言語を語るという拒絶。その時から、別の言語で書かれた十数冊の書物が世に問われている。フランス語で書かれた書物。なぜこうして国境は跨がれたのだろうか。その訳は彼女が沈黙したのと同じことだ。夫ルネ・コルツは占領軍ナチによって強制収容所送りとなったのだった。早すぎる夫の死は収容所送還という暴力によってもたらされたものであった。アドルノの言に反して、ポール・ツェランをはじめ、詩が可能であるのみならず、必要でもあったすべての人々と同様に、アニーズ・コルツは、ドイツ語をヒトラーのプロパガンダの毒牙から奪い取ることができたかもしれない。それをもって野蛮に対する戦争の武器となし得たかもしれない。しかし課せられたのは沈黙であり、そこに辛苦に向き合う言葉はなかった。
………………………………………………………………………………………………..
Akikoさん、midoriさん、お久しぶりです。
また機会を改めてお話ししますが、実は、このテキストを最後に「教室」を閉じようかと考えています。読んでみると密度のあるテキストで、まだ数回以上かかりそうですが、それまでまだしばらく、よろしくお付き合いください。
みなさんもご存知でしょうか、この6月5日にスイスでベーシック・インカム導入の可否を問う国民投票が行われました。結果は否決でしたが、同制度は民主党政権下の2009年頃、日本でも大変議論になっていた社会制度でした。少し懐かしい気持ちで、山森亮・橘木俊詔『貧困を救うのは、社会保障改革か、ベーシック・インカムか』(人文書院 2009年)を読んでいます。意外だったのは、この書物で討議されている内容が、あれから6年以上経った今でも、まったく古びていないことです。その後日本社会は、東北大震災を挟んで、本当に停滞、あるいは後退しているのだなと実感させられました。
それでは、次回はen attente de l'eau>>.までの試訳を29日にお目にかけます。
Shuhei