フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

アニーズ・コルツについて(2) テレラマ臨時増刊号「20世紀の詩人たち」より

2016年06月29日 | 外国語学習

[注釈]

 *l'ombre de la langue qui a tué l'homme.  l'hommeとはRené Koltz のことでしょう。

 *des mots qu'il suce avant de les cracher  sucer des mots et les cracher なくてはならないもののように sucer したあと、cracher。この時間関係を読み取ることが大切です。

 

[試訳]

 新たな言語で書かれた最初の作品『拒絶の歌』を、コルツはサミュエル・ベケットの言葉からはじめている。「沈黙は私たちの母なる言語である」。これ以後、記された、もうひとつの言語は、フランスの言葉をまとうことになる。激烈な言葉を。その激しい言葉の下に、夫を殺した言語の影が潜む。

 そして、その沈黙から、詩の再建がはじまる。まず詩人の復権が、再定義がなされなければならない。詩人とは、「それまでしゃぶっていたのに、やがて白いページの上で唾した言葉たちに詫びる人」。「荒くれた世界にさらに激昂を重ねたことを詫びる人」。詩に寄りかかって息をすることを学ぶ人。ページを背にした言葉に「傷ついた面」が隠れていることを見抜く人、となる。

 場もまた再構築しなければならない。詩はその時「私がその上を歩む海」となる。詩は「月の皮をむく」。大河は「仰向けに寝て、星座を見守る」。大海原は「家の前に腰掛けた翁」。「世界のゆりかごであり、墓場である」砂漠で、「すべては枯れ果てても、雨を待ってまた生まれ出ずる」。

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 misayoさん、midoriさん、Mozeさん、訳文ありがとうございました。詩的でなおかつジャーナリスティックな文章。易しくはありませんね。

 教室を閉めることについて、みなさんから本当に過分なお言葉を頂戴して恐縮しています。ただ、気がついてみれば十数年も続けていたことになります。その間にこの身に起きたあれこれを思えば、やはり、短くはない時間だったのでしょうね。みなさんにも本当に長い間にわたっておつきあいいただきました。

 どこかで切りをつけなければとここ数年考えていたのですが、ここで一度紹介もしたジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』(In Altre Parole)を読んだことが大きなきっかけとなりました。アメリカ小説界で確たる地位を築いている作家ラヒリと、この自分を同列に扱うつもりは毛頭ありませんが、中年を過ぎてから、イタリア語にとりつかれ、ローマに移住し、そしてついには彼の地の言葉でエッセと掌編小説を紡いでいる彼女の外国語との取り組み方に、大きく影響されました。ぼくも、フランス語という異邦の言葉を思いのままに紡いでみたくなりました。

 どこかのブログに月一回くらいのペースで、由無しごとをフランス語で綴れればと思っています。亡くなった恩師のご子息が、幸いいつでも手を貸すよと言ってくれていて、できればこの秋からでも五十の手習いをはじめようかと考えています。

 また改めてご挨拶申し上げますが、そんな訳でこの教室を一旦閉じることにしました。

 次回は7月13日(水)にma fable profanée.>>までの試訳をお目にかけます。Shuhei



4 コメント

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Anise Koltz par Jean Portante 3 (misayo)
2016-07-09 14:00:27
 こんにちは、みさよです。ラヒリの「別の言葉で」を読みました。母語と違う言葉で、作品を発表する作家たちにいつも興味を抱いています。リービ英雄の日本語は日本人以上に美しいと感じます。言語とは魔術だと思います。私は読めればと思っていますが、魔法は解けません。

 場、それはアニス・コルツの作品に反復するテーマのひとつです。神のいない場。もしくは不在の神とともにある場です。絶え間なく問われ続けています。この世には存在しないが、拒絶の中に存在するのです。「神はどこにいるの。…教会の壁の上に/彼の似顔絵の肖像が/不在」「死体愛好家」でもある神は、生より死を好むのです。それは決定的です。「もし神が私に触れたら/彼は茫然とするだろう。」要するに神は「人間の最前線に座礁して」「最後の恐竜とともに消えてしまった。」チュトワイエで話される神は、こんなふうに最後には起こされなければなりません。天空の不在に君臨するためではありません。「あんたの十字架から降りな」、と詩人は彼に命令します。「あたしたちは薪がいるんだよ。あったまるためにさ」。なぜなら「地上より他の土地なんてありはしないから」。
 このようにして、他の者がこの地上に住むようになったのです。よく似通った者が。詩の中に絶えずつきまとうのです。母。父。愛する人。地上の三位一体です。「私は、私の父を、母を、愛する人を、使い果たしてしまった。・・・この時代のある振る舞いだけで、彼らを絶滅させるに十分だった。」このようにして最初の叫びになるのは、「生まれてきたことの怒り」なのです。「私の母の乳房は/釘でいっぱいだった。」謎めいた母は、衝撃的な詩「大地は沈黙する」(1999年)の詩集を呼び起こします。「私の母はいつも生きている。/私の体のうちに、古老のように/恐怖を引き起こす人/けっして追い出されることはない/私は私の乳で彼女を潤す/彼女は私の謎/私の汚された寓話。」
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Anise Koltz (Akiko)
2016-07-10 11:42:23
こんにちは。先回投稿したつもりが上手く送信されていなかったようでした。先生の訳文を拝読して私の解釈のお粗末さを思い知ったのですが、教室を閉められるとのことでたいへん残念です。私の知らない仏文学の世界を紹介していただきとても感謝しています。今回の部分もあまりに抽象的で意味が分かりませんでした。
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空間、それはアニズ・コルツの作品に繰り返し現れるテーマであり、神はいない。それはむし不在の神とともにある。絶えず問われる。世界はないのに拒絶のなかにある現在。「神はどこにいるのか?教会の壁に描かれた人のようなポートレートなのか。どこにもいない」。神それは「死体愛」であり生きながら死を好む。それは決定的だ。「もし神が私に触れたなら、神は崩れゆく私に驚くだろう」つまり神は「人々の目の前で失敗してしまったのだ」。そして「最後の恐竜とともに消滅してしまったのだ」。お前呼ばわりされた神、まるで最後にもう一度、神を目ざめさせなければならなかったかのように。神が天の不在のまま支配するためではない。「お前の十字架から降りなさい」。詩人は神に命じる。「暖まるためには薪がいる」。なぜなら「この地以外にはもう他の土地はないのだ」。他の生き物もこの地にいる。類似した生き物。詩のなかに偏在している。母、父、男。地における三位一体。「私は父、母、愛人たちを疲れ果てさせた。世紀に渡ったこの行動は彼らを滅ぼすに十分だ」。これは「生まれた事への激しい怒りである」。それは最初の叫びとなる。「母の乳房は釘で満ちていた」。詩集「地は沈黙する」(1999年)の衝撃的な詩は謎めいた母に言及している。「私の母は私の昔の恐怖のように常に私の体の中に留まり決して出ていかない。私はベッドから母を洗い流す。それは私の謎。世俗の寓話」。
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Unknown (midori)
2016-07-12 19:53:02
先生、みなさん、こんにちは。
今回もとても難しかったです。un Dieu qui ≪a echoue sur le front des hommes≫は何のことでしょうか。

空間はアニーズ・コルツの作品において繰り返し現れるテーマの一つで、そこには神がいない。または、そう言うよりも、その場を離れている神と言うべきか。絶え間なくその神に呼びかける。この世界を離れているが拒絶の中には存在する。「神はどこに?(・・・)教会の壁に、典型的なイメージとして、別の場所にいる。」「死体を好む」神でもあり、生より死を好む。それは変えようがない。すなわち、「もし神が私に触れたら、神は打たれるだろう、雷に。」要するに、その神は「人間の戦場に対し何もせず」、「最後の恐竜とともに消えてしまっていた」。「tu」を使って呼びかけられる神は、まるで最後にもう一度だけ起こさなくてはならないようだ。しかし、天国を後にして地上を治めるためではない。「その十字架から降りなさい」と詩人は命じる。「暖をとるための薪が必要なのだから」。なぜなら「地上以外に地上はない」のだから。
そしてこの地上をその他の存在が埋め尽くす。親しい人々。アニーズの詩に何度も現れる。母。父。夫。地上の三位一体とでも言おうか。「父を、母を、愛人たちを私は利用し尽くした(・・・)世紀に一度の行いは彼らの命を奪うのに十分だった。」「生を受けた怒り」は産声となる。「母の乳房は釘で膨らんでいた。」『地上は黙する(1999年)』という詩選の中の心を揺さぶる一篇の詩は、謎としての母を思い起こす。「母はいつだってそこにいる。私の体の中、どうしたって追い払えない、まるでずっと昔からある恐怖のように。私は自分の母乳を母に流し入れる。母は私の謎。私の汚れた寓話。」
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Lecon337 (Moze)
2016-07-12 20:15:52
まだ梅雨が明けてはいないようですが、暑中お見舞い申し上げます。詩的な文章というのは、とても難しいですね。みなさんの力訳も参考にさせていただきました。
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空間、そしてそれはアニーズ・コルツの繰り返されるテーマである。神なき空間。あるいはむしろ不在の神と共にある空間。たえず呼び求められる神。この世界にはいないが、拒絶の中にはいる神。「神はどこにいるのか?・・・教会の壁の上に、そのプロトタイプである不在が」。「死体愛」である神であり、また生より死を好む神。それは決定的だ。「神が私に触れるなら、神は茫然とするだろう」。つまり、「人間の面前に打ち上げられた」神、「最後の恐竜とともに死に絶えた」神なのだ。地に落ちた神、いうなら今度こそ神を呼び覚まさなければばらない。天に不在のうちに君臨するためではない。「十字架を降ろしなさい」と詩人は神に命じる。「暖めるためには、私たちには薪が必要だ」。「この地上より他はない」のだから。したがって、この地上には別の存在が住まう。詩の中に偏在する近しい存在。母なるもの、父なるもの、人間なるもの。地上の三位一体だ。「私は、私の父を、母を、恋人たちを書き尽くした・・・彼らを無き者にするためには、世紀に及ぶひとつの行為で十分だった」。だから産声となるのは、「生まれいずる憤怒」だ。「私の母の乳房は釘だらけだった」。選集『地上は沈黙する』(1999)によって心揺さぶられる詩が描き出すのは、謎の母である。「私の母は、いつも私の身体の中で生きている。決して追い出されない昔の恐怖のように。私は、私の乳でその恐怖を潤す。母は私の謎。私の踏みにじられた寓話」
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