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さて、今日から『生きる自信の心理学』の内容に入っていきます。
(といっても、本の内容よりも簡略にする部分と、増補改訂する部分がありますので、予めご了承下さい。)
戦後日本は、みごとなまでにプラス・マイナス含めて「近代化」されました。
それは、社会のあり方でいうと、すっかり近代的な「自由主義-資本主義の社会」になったということです(それ以来、今に到るまでそうあることは、しっかり自覚しておく必要があると思います)。
自由主義社会の基本原則は、人間は誰でもスタートのところの権利はまったく平等で、そこから「自由に競争」し、勝ったものは勝ち、負けたものは負けということになる、それはフェアなことでしかたない、ということです。
つまり、自由主義社会の基本は「自由競争」です。
しかも、「神はいない。人間とモノがあるだけ」の世界ですから、人間がどのくらいモノを獲得して、経済的に繁栄するかということが、人生の基本的目的あるいは価値の基準になります。
「資本主義」にはもともと「拝金主義」になる圧倒的に強い傾向があるのです(絶対、必ずということではないかもしれませんが)。
そこで、いわゆる「社会人」つまり大人は、経済的な「業績」がもっとも価値の中心であると見なされる経済社会で他者・他社と絶えず競争しながら生きていかなければならなくなりました。
それと並行して、やがて「社会人」になるべく育てられる子どもも、経済的業績をあげること=成功することを目指して教育されることになりました。
その場合、近代の産業の繁栄を促進したのは何よりも合理的な知識でしたから、経済的業績につながるそういう知識をどのくらい知っているかということ、それの客観的指標としての「成績」がもっとも重視されたのです。
そういうわけで、戦後・近代化された社会では、大人は「業績」、子どもは「成績」というのが、価値の主な――場合によってはほとんど唯一の――基準になりました。
そして、大人も子どもも、「自由競争」にさらされながら、日々を生きていくほかなくなったのです。
競争とは別の言葉でいえば「比較」です。比較して、「優劣」を競うわけです。
いつも成績というものさしで比較して優劣を競わされ、評価されてきたというのが、戦後の子どもたちの基本的な状況だったのではないでしょうか(私もその一人です)。
そういう評価の仕方を「相対評価」といいます。
「相対評価」で優・劣を競わされた場合、「優れている」と評価された子どもはまあいいでしょう(本質的にはよくないのですが、その話は後にします)。
「自分は優れている=優等である」という「優越感」を持つことができます。
しかし、「劣っている」と評価された子どもたちは、どうなるでしょう?
当然のことながら、「自分は劣っている・劣等である」という「劣等感」を抱えざるをえなくなります。
さて、クラスで考えみて、どのくらいが「優等」で、どのくらいが「劣等」ということになるでしょう。
まあ、クラスの上位5分の1、できれば10分の1に入らないと、成績が優れているとはいわれにくいですね。
とすると、どうなるでしょう?
私たちの多数が経験してきたとおり、日本の子どもの多く――つまり5分の4から10分の9――が、成績でいうと「自分はできない・劣っている」という「劣等感」を抱えさせられているのです。
これは、私のアンケート調査の結果ともぴったり一致しています。90%の学生たちが「自分に自信がない」といっています。
もちろん、成績による優越感-劣等感が問題のすべてだなどとは思っていません。
現代人、とりわけ若者が「自分に自信がない」というのにはより多様で複雑な理由もあるでしょう。
しかし、成績による比較、つまり「相対評価」にさらされ続けてきたことが、主要かつ決定的な問題だったのではないか、と私は推測しています。
……あ、今日はまだ明るい話になりませんでしたね。失礼。でも、もうそろそろ明るい話になりますからね。待ってください。