一般の方はもちろん、ネット学生の諸君の中にさえ、「そんな長たらしいお経が手に入ったからといって、そんなにうれしいのかな」と思われる方がいるかもしれません。
それで、ちょっと説明をしておきたくなりました。
善勇猛、是の如く学する所の甚深般若波羅蜜多は是れ自然学(じねんがく)にして一切世間に及ぶ者無し。
善勇猛菩薩よ、このように学ぶはなはだ深い智慧の完成は、これは自然の学であって、すべての世間には及ぶものがない。
上記の一節に出会った時は、うーむとうなってしまいました。
般若波羅蜜多の学びは、自然の学つまりコスモロジーの学びであり、こうしたコスモロジーは世間のどこにもない、もっともすぐれたものだというのです。
一般社会はばらばらコスモロジーで営まれていて、だからこそ問題だらけです。
しかし、ほんとうの自然はすべてつながって一つであり、空なのです。
ふつうに暮らしていると、運がよくなければ、そういうつながりコスモロジーに出会うことはありません。
又た、舎利子、若し諸の有情(うじょう)善根未だ熟せずば薄福徳の故に尚お是の如き般若波羅蜜多の経典の名字すら聞くことを得ず、況(いわ)んや手に執りて読誦受持(どくじゅじゅじ)し書写供養し他の為に広説することを得んや。……
若し諸の有情善根已に熟せば宿願力(しゅくがんりき)の故に此の経に遇うことを得て聴聞受持し書写読誦し恭敬(くぎょう)供養して他の為に広説せん。
又た舎利子、若し諸の有情善根増盛(ぞうじょう)にして意楽(いぎょう)調善(ちょうぜん)せば是の如き般若波羅蜜他相応の法教乃ち其の手に堕ちん。
またシャーリプトラよ、もしもろもろの心ある存在の善なる働きがまだ熟していなかったら、幸運になる効力が不足していて、こうした般若波羅蜜多の経典の名前すら聞くことはできず、まして手にとって唱え保ち、写経し供養して、他の人のために広く説くことなどできないのだ。
もしもろもろの心ある存在の善なる働きがすでに熟していれば、宿願の力のおかげてこの経典に遇うことができ、聴いて保ち、写経し唱えて敬って供養し、他の人のために広くことができるだろう。
またシャーリプトラよ、もしもろもろの心ある存在の善なる働きが盛んで心が善く調っているならば、般若波羅蜜多に対応した真理の教えがその手に落ちるだろう。
私たちが、つながりコスモロジー・空の教え、そしてそれが書き記された般若経典に出会うのは、偶然ではないというのです。
自分の心のもっとも深いところに貯められた善なる働きの蓄積が幸運をもたらし、真理の教えの経典に出会わせてくれたのです。
還暦になるところで『大般若経』が思いがけない値段で手に入ったのも、ただの偶然の幸運ではなく、宿願の力・福徳ということなのかもしれない、という気がします。
学んで、さらにこれを広くたくさんの心ある方に伝えることができるようになるには、さらなる善なる働きの成熟が必要でしょう。
続けて精進し、心が少しでも熟してきたら、またその分をお伝えしたいと思っています。
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