
先日、少人数の若者たちと、ワークショップ風の集いで箱根に1泊しました。
今回は夜のおしゃべりをそこそこに切り上げるつもりだったのですが、またしても話に花が咲いて、結局、4時でした。
そこで、若者たちから、どういう小説や詩を読んできたのかという質問を受けました。
自分が学んできたことだけでなく、味わってきたこと・感動してきたことを次の世代と共有できるというのは、とてもうれしいことです。
世代間のギャップがあまりにも大きいと感じているので、これまでは主として比較的伝えやすい知識や論理で共有できる世界を広げてきたのですが、感性の領域についても、私のほうから伝えようとしたではなく、彼らのほうから興味を示してくれたことはとてもうれしいことでした。
そこで語ったこと、語りきれなかったことを、少しずつ書いておこうといういう気になっています。
さてまず、どういう詩を読んできたのかと問われて、その夜はリルケとフランシス・ジャムの名をあげました。
リルケは、高校時代に初めて知って以来、ずっと折にふれて読んでいる詩人で、詩(和歌・俳句も含め)はずいぶんたくさん読んできましたが、全集をもっている詩人はリルケ(弥生書房版)とジャム(青土社版)良寛(春秋社版)と宮沢賢治(筑摩書房版)の4人だけです。
リルケには、不安を抱えた近代人的な感性の面*と、コスモロジー的な感性の面が入り混じっています。
コスモロジーが心に深く浸透してくるにつれて、リルケの近代人的な面にはやや共感が薄くなってきましたが、しかし依然としてとても好きな詩人です。
コスモロジー的な詩を1つ、引用しておきます。「ナルシス」(富士川英郎訳)という詩の一部です。
星をいっぱいに鏤(ちりば)めたあふれるばかりの大空が
私たちの憂苦のうえに輝いている ああ 泣くがいい
枕の中へではなく 空に向かって。この私たちの泣いている
この私たちの果てる顔のほとりから
はやくも始まるのだ あたりに拡がっていきながら あの彼方へと
さそう世界空間が。お前が彼方に向かって
憧れわたるとき いったいその流れを
遮るものがあろうか? 誰もいないのだ お前がとつぜん
お前に向かって来る星たちの群の
強大な流れと取り組むときのほかは。ああ 吸うがいい
大地の闇を吸うがいい そして再(ま)た
再た仰ぎ見るがいい すると軽やかな 顔のない深淵が
上からお前にもたれかかって来るだろう ほどけた
夜を孕(はら)んでいる顔が お前の顔を容れるだろう
私たちが、いろいろ悩んだりしている時、星空を見て慰められる体験を、詩人は深く体験し、より深い言葉で表現しています。
「世界空間」や「軽やかな顔のない深淵」が、私たちの用語でいえば「大いなるなにものか・コスモス」を指していることは言うまでもありません。
そして、私たちは現代科学のコスモロジーを学んでいるので、ただのロマンチックな空想としてではなく、より適切な現実の解釈として自分を「星の子」と捉えることができます。
そういう意味では、私たちは書いたリルケ自身よりもより深くこの詩を味わうことができるという、とてもすてきで不思議な時代を生きているといってもいいでしょう。
あえて野暮な解釈をすれば(詩を解説・解釈するというのは、いつも野暮だと思うのですが)、「軽やかな顔のない深淵」「ほどけた夜を孕んでいる顔」つまりコスモスが、「お前の顔」つまり個人としての私を、「容れるだろう」、絶対に肯定してくれています。
コスモロジーを学んだ私たちは、そのことを科学的認識と詩的感性の両面から知って、深く元気づけられてから、ふたたび「私たちの憂苦」に取り組むことができるのです。
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