しかし、儀式で唱えられている文章にこうした意味があることは、これまで檀信徒にはほとんど説明されてこなかったのではないだろうか。
奈良時代や平安、鎌倉から江戸時代までなら、それでもよかったのかもしれない。あるいは戦前もそれでよかったかもしれない。
けれども、戦後の教育を受けた檀信徒には、「『大般若経』のエッセンスの経文を唱えますが、それにはこういうとても深い意味があるのです」と伝えたほうがいいのではないだろうか。
そしてわかった上で唱え、さらに唱えながら瞑想状態になったらいったん意味は忘れていいのだが、しかし唱えた後でまた「ああ、こういう意味なのだ」「ああいう深い意味なのだ」というふうに、理解することと瞑想状態に入ること、そしてまた理解することを繰り返すと深まるだろう。
そこで、筆者は大般若会を行なっているお寺さんとご縁があった時には、「ぜひ、唱える文章の意味を檀信徒のみなさんに解説してください。そして一緒に唱えてください。そうすると単なる習慣的儀式以上の深い意味があると思います」というお勧めをしている。
さて、次の「因縁生故無自性」という句は、②に関わっていて、すべてのものは縁起の理法で成り立っているので、それ独自の変わることのない「本体(ほんたい)・本性(ほんせい)」というものを持っていない、という意味である。
ちなみに、状況によってあるなしまで変わるような性質は「属性」という。
身近な例をあげれば、夏の冷房の温度について、暑がりの人は「暑過ぎる。もっと冷房を効かせほしい」と思い、しかし寒がりの人は「効き過ぎだ。もっと温度を上げてほしい」と思うかもしれない。
では、室温は高いのか? 低いのか? それには固定的な本性・自性はない。感じる人の体質との関係で、今の室温は高いことにも低いことにもなるのである。
もう一つ人を例に挙げると、ある人の姿形、話すことや声、やることなど、いろいろなことが性に合う人は、「いい人」と思うだろう。しかし、性に合わない人は「嫌なヤツ」と思うかもしれない。
では、その人はいい人なのか? 嫌な人間なのか? どちらかの変わることのない自性・本性があるかというと、それはないのであって、ある人にとってはいい人、ある人にとって嫌な人ということにすぎない。
そのように、私たちはすべてのものに何かそれ自体の本性があると思いがちだが、よく考えてみるとすべては関係で成り立っているから、関係が変われば性格も変わる。
つまり、関係によって変化するような「属性」はあっても、変わることのない「本性」すなわち「自性」はない。つまり「無自性」である。それがすべての存在の本質であるという。