般若経典のエッセンスを語る22

2020年10月20日 | 仏教・宗教

 智慧―慈悲―菩薩の誓願

 菩薩の誓願の三十一すべてを取り上げるときわめて長くなるので、特に重要だと思うものを取り上げ、他は簡単に触れていきたいと思うが、その前に、菩薩の請願の源泉ともいうべき大乗仏教における智慧と慈悲との関係を簡単に確認しておきたいと思う。

 「智慧」は、意味を訳したもので、音を写した「般若」と元のサンスクリット語は同じで、カタカナ表記では「プラジュニャー」という。

 では何に関する智慧かというと、結局、空ということを覚る智慧なのである。

 空と智慧はほとんど同じことを指しているといってもいいのだが、局面として言えば、「空」ということを「知る・覚る」というふうにいちおう区別できる。

 つまり、智慧とは空を覚るということ、しかも空とは何かが単に頭でわかるのではなくて、いわば心の奥底まで、全身心的にわかる、というか身に付くことである。

 それを「智慧」といい、場合によっては「覚り」という。

 そこで、「空」とは何かが問題になる。

 すでに前章である程度述べたが、以下、筆者の理解しえた範囲で整理して要点を述べておこう(拙著『よくわかる般若心経』PHP文庫、『金剛般若経全講義』大法輪閣、をお読みいただいている読者には復習になるが)。

 「空」のサンスクリット原語は「シューンヤ」で、数学の「ゼロ」と同じ言葉である。

 そこで、中国では「空っぽ・何もない」ことを意味する「空」と訳されたのである。

 しかし、原語の「シューンヤ」も漢訳の「空」も「空っぽ・何もない」ことを意味し、さらに日本語では「空」を「空しい」と訓読するので、「空とは、人生は結局のところ空っぽで何の意味もなく空しいこと」という誤解が生まれたようであり、今でもその誤解は広く残っているのではないだろうか。

 それと関連して、仏教は「すべては結局のところ空っぽで何もなく空しいというのは事実だから、認めて諦めるしかない」ということを説く悲観的な宗教だという誤解に基づく印象も、多くの人がいまだに持っているように思える。

 実はそういう筆者も、かつてそういう誤解を持っていた。

 しかし、しっかり学んでみると、そういう印象は、本来の大乗仏教ー般若経典に関していえばまったくの誤解だった。

 では、本来の「空」とはどういう意味なのだろうか。

 確かに「何もない・ゼロ」という意味はあるのだが、無条件にそう言っているわけではなく、「〜であるようなものは、何もない・ゼロ」、特に「実体であるようなものは、何もない・ゼロ」という意味だ、と般若経典そのものの学びを通して筆者は理解している。

 そういう理解からすると、「空」は現代語では「非実体」と訳すのがもっともふさわしいだろう。

 

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般若経典のエッセンスを語る23

2020年10月20日 | 仏教・宗教

 では、そもそも「実体」とはどういう意味だろうか。

 実体を意味する元のサンスクリット語は「アートマン」で、漢訳では「我」と訳されている。英語では substance と訳すことができるだろう。

 すでに述べたとおり、哲学・思想用語としての「実体」には、東西共通の定義があるという。

 第一に他の力を借りることなく「それ自体で存在する・できる」ということ、

 第二に「それ自体の変わることのない本性がある」ということ、

 第三に「永遠に存在する・できる」ということである。

 そして、大乗仏教の「空・非実体」とは、「我・実体」を否定するコンセプトなのである。

 第一に、ブッダ以来仏教のもっとも重要なコンセプトとされてきた「縁起」という言葉がある。

 「この世界のあらゆるものは他との縁・関係によって生起している」という意味である。

 それを否定的な言い方に変えると、「縁起でないようなものは、何もない・ゼロ」となる。それが「空」の一つの重要な意味だと言っていいだろう。

 これも先にも述べたように、大乗仏教の三大論師の一人とされる龍樹・ナーガールジュナに「縁起だから空である」という言葉があるとおりである。

 第二に、「無自性」というコンセプトもある。

 「自性」とは、それ自体の変わることのない本性・本体という意味で、それ自体の変わることのない本性・本体をもっていないことを「無自性」という。

 否定的な言い方をすると、「変わることのない本性・本体をもっているようなものは、何もない・ゼロ」ということである。

 「無自性だから空である」という定型句もある。

 第三に、同じくブッダ以来強調されてきたコンセプトに「無常」がある。

 「常なるもの無し」つまり「永遠に存在するようなものは、何もない・ゼロ」ということである。

 「無常だから空である」という定型句もある。

 この三つのコンセプトを合わせると、ちょうど「実体」の定義の逆になり、つまりすべては「非実体・空」だということになる。

 ブッダは、『阿含経』などで、ほぼ同じことを「縁起だから無我である」「無常だから無我である」というふうに「無我」という言い方で説いている。つまり「実体ではない」ということである(ただ、筆者の知るかぎりでは、ブッダは「無自性」という用語は使っていないようだ)。

 だから、「無我」と「空」はほぼ同義語だといってもいいのだが、大乗仏教では「空」のほうをより強調するようになった。

 その理由については、後で筆者の解釈を述べることにしたい。

 

 

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