智慧―慈悲―菩薩の誓願
菩薩の誓願の三十一すべてを取り上げるときわめて長くなるので、特に重要だと思うものを取り上げ、他は簡単に触れていきたいと思うが、その前に、菩薩の請願の源泉ともいうべき大乗仏教における智慧と慈悲との関係を簡単に確認しておきたいと思う。
「智慧」は、意味を訳したもので、音を写した「般若」と元のサンスクリット語は同じで、カタカナ表記では「プラジュニャー」という。
では何に関する智慧かというと、結局、空ということを覚る智慧なのである。
空と智慧はほとんど同じことを指しているといってもいいのだが、局面として言えば、「空」ということを「知る・覚る」というふうにいちおう区別できる。
つまり、智慧とは空を覚るということ、しかも空とは何かが単に頭でわかるのではなくて、いわば心の奥底まで、全身心的にわかる、というか身に付くことである。
それを「智慧」といい、場合によっては「覚り」という。
そこで、「空」とは何かが問題になる。
すでに前章である程度述べたが、以下、筆者の理解しえた範囲で整理して要点を述べておこう(拙著『よくわかる般若心経』PHP文庫、『金剛般若経全講義』大法輪閣、をお読みいただいている読者には復習になるが)。
「空」のサンスクリット原語は「シューンヤ」で、数学の「ゼロ」と同じ言葉である。
そこで、中国では「空っぽ・何もない」ことを意味する「空」と訳されたのである。
しかし、原語の「シューンヤ」も漢訳の「空」も「空っぽ・何もない」ことを意味し、さらに日本語では「空」を「空しい」と訓読するので、「空とは、人生は結局のところ空っぽで何の意味もなく空しいこと」という誤解が生まれたようであり、今でもその誤解は広く残っているのではないだろうか。
それと関連して、仏教は「すべては結局のところ空っぽで何もなく空しいというのは事実だから、認めて諦めるしかない」ということを説く悲観的な宗教だという誤解に基づく印象も、多くの人がいまだに持っているように思える。
実はそういう筆者も、かつてそういう誤解を持っていた。
しかし、しっかり学んでみると、そういう印象は、本来の大乗仏教ー般若経典に関していえばまったくの誤解だった。
では、本来の「空」とはどういう意味なのだろうか。
確かに「何もない・ゼロ」という意味はあるのだが、無条件にそう言っているわけではなく、「〜であるようなものは、何もない・ゼロ」、特に「実体であるようなものは、何もない・ゼロ」という意味だ、と般若経典そのものの学びを通して筆者は理解している。
そういう理解からすると、「空」は現代語では「非実体」と訳すのがもっともふさわしいだろう。